84、ドゥランテ先生の指導は想像以上

 私とリオは背筋を伸ばしてドゥランテ先生の教室に足を踏み入れた。楽譜を抱えて最後に入ってきたエンツォが扉を閉めると、ドゥランテ先生はうっすらと笑みを浮かべて私たちを見下ろした。


「オリヴィエーロ、リオネッロ、調子はどうだい?」


「絶好調です!」


 リオが即答したので、普段あまり喜怒哀楽を見せないドゥランテ先生が声を上げて笑った。


「それはよかった。エンツォの曲は気に入ったかい?」


 先生がさりげなく尋ねると、チェンバロの譜面台に楽譜を広げていたエンツォが固まった。全身を耳にしている彼には気づかず、リオが率直に答えた。


「かっこいいけど歌ってみたら難しかったです」


 リオの言う通りだが、エンツォが私たちの感想を気にしているのを感じて、私は言葉を添えた。


「和音進行と不協和音程の使い方が洒落しゃれてるけれど、歌うのは決して簡単ではなかったです」


「ふむ、それはさぞ心躍る挑戦だったことだろう」


 ドゥランテ先生は飄々ひょうひょうと言い放った。冗談なのか、それとも私たちを洗脳する気なのか!?


「では聴かせてもらおうか」


 ドゥランテ先生が腰を下ろすとエンツォが私たちへ視線を送った。私とリオは目配せしあい、首を小さく縦に振って見せる。うなずき返したエンツォのまなざしが楽譜を見つめる。いや、楽譜の奥に広がる無限の宇宙を感じているのかも知れない。


 エンツォは歌手らしくふわりと息を吸うと、長い指先を鍵盤の上に走らせチェンバロで旋律を歌い出した。楽器はまさしく彼の声となり、前奏のメロディを感傷的に歌い上げる。言うことを聞かなくなった声帯の代わりに、彼は自由に大空へと飛翔する第二の歌声を手に入れたのだ。


 言葉を持たないとは思えないほど雄弁に語るチェンバロに聴き惚れているうちに短い前奏は終わり、私とリオは声をそろえて歌い始めた。


Salve幸いあれSalve regina幸いあれ元后


 私とリオの音程は三度、五度、六度と目まぐるしく変わってゆくが、聴く者にはそれを感じさせない自然な旋律だ。


mater misericordiae憐み深き母よ


 重なっていた二人の声がやわらかくほどけ、かわるがわるフレーズをつむいでゆく。調和していたかと思えば次の瞬間には火花を散らすように不協和な音程が混ざり、万華鏡のように色合いを変えてゆく。


vita我らが命であり, dulcedo慰めであり, et spes nostra希望でもある方


 半音階の妙技が聴く者を、美しき聖母様のもとへといざなう。


 先生たちの曲には存在しない感傷的な気分が音楽全体を支配していて、普段は明るいリオの声にも不思議と切ない音色が加わっていた。私の上で彼が自由に動けるように、中低音域をしっかり支えて歌う。マリア様への祈りに乗せて、私はあたたかいアルトの歌声でリオを包み込んだ。


Salve幸いあれ


 最後の言葉を大切に歌って一曲目を締めくくる。一呼吸おいてすぐにエンツォが次の部分「アドゥ・テ・クラマームス」の前奏を弾き始めようとしたが、立ち上がったドゥランテ先生に手のひらを向けて制された。


「ラテン語の発音も間違っていないし、綺麗な声で楽譜通り正しく歌えているね」


 ドゥランテ先生はゆったりとした足取りでチェンバロの前までやってきた。


 褒められた、と心が浮き立った次の瞬間、続く言葉が私を天国から奈落の底へと突き落とした。


「でも、それだけだ」


 エンツォがハッとして先生の顔を見上げたのが分かった。だが顔面蒼白になった彼は、うつむいてしまう。私たちを指導した自分の責任だとでも思っているのだろうか?


 ドゥランテ先生は、うなだれるエンツォに気付いているのかいないのか、私とリオに質問した。


「まずテキストの意味は理解しているかな?」


「はい、エンツォに説明してもらいました」


 私は間髪入れずに答え、ラテン語の歌詞をテキパキと現代語に訳した。


「うむ、分かっているようだな。それじゃあ今度は一人ずつ歌ってもらおう」


 先生の言葉に私が大きくうなずいたので、


「オリヴィエーロから行こうか」


 アルトパートから聴いてもらうことになった。


 エンツォの表情は暗いままだったが、それでも楽譜をめくり、歌が始まる二小節前から前奏を弾いてくれた。


Salve幸いあれ


 私は一人で歌い出した。だがその途端、


「メッサ・ディ・ヴォーチェのつもりかい?」


 ドゥランテ先生に止められた。


「そんな暴力的にクレッシェンドするものではない」


 私はうなずき、エンツォはまた同じところから前奏を弾き始める。


「Sal――」


「違う違う」


 三度みたび、冒頭の第一声を繰り返したあとで、ドゥランテ先生はなげかわしいと言わんばかりに首を振った。


「よいか、オリヴィエーロ。君はいま戦いのアリアを歌っているのでもなければ、恋心を激白しているのでもない」


 指摘を受けて私はそういったたぐいの、感情を爆発させるオペラアリアに憧れていたことに気が付いた。


 ドゥランテ先生は淡々と言葉を続ける。


「最後に突然音量を上げると情熱に任せて歌っている表現ができるから、君のメッサ・ディ・ヴォーチェが常に間違いというわけではないんだ。だがエンツォが書いた『サルヴェ・レジーナ』はどういった曲調だ?」


「穏やかな曲です」


「そうだ」


 先生は重々しくうなずき、


「だからここでは気づかないくらい少しずつ、まるで光が満ちていくように丁寧なクレッシェンドが必要なんだ」


 私の脳裏に、慈愛に満ちた微笑を浮かべるマリア像が浮かんだ。


 だが頭で納得し、心で受け入れたからといって、体が思い通りに演奏してくれるわけではない。その後も私は冒頭のフレーズだけを、何度もやり直すはめになった。


 ほとほと疲れ果てたあとでようやく、先生がコツを伝授してくれた。


「君は下半身の支えが足りていない。本当の力強さが求められるのはフォルテッシモで歌うときではない。繊細な歌唱にこそ、ゆるぎない力が必要なんだ」


 何度繰り返しても、先生のお眼鏡にかなうメッサ・ディ・ヴォーチェは出せなかったようだ。


「オリヴィエーロ、ロウソクの火を吹き消さない練習を試してみなさい」


「吹き消すのではなくて――」


「吹き消さない訓練だ。ロウソクの前でスーッと長くて細い息を吐く。炎は揺れるが消えない量の息を維持するんだ」


 私は先生を見上げてコクコクとうなずいた。疲れて返事もしたくない。ドゥランテ先生の特訓に比べれば、エンツォとの稽古なんて甘すぎたくらいだ。


「オリヴィエーロは少し休みなさい。次、リオネッロ」


 名前を呼ばれたリオが、こわばった表情で譜面台の前へ歩み出た。私が最初の音だけで二十分も三十分もしごかれているのを見ていたのだから、戦々恐々としていて当然だ。


 案の定リオもメッサ・ディ・ヴォーチェに始まり、恐ろしく細かいクレッシェンドやデクレッシェンドの要求、テキストごとの表現にフレーズの終わり方の処理など、数えきれないほどの指摘を受けた。


 魂が抜けて無表情になったリオに背を向けて、ドゥランテ先生は私にニヤリと笑いかけた。


「リオネッロにした注意を守って歌ってみようか、オリヴィエーロ」


 私にいいえと言う選択肢はない。


「はい」


 力なく愛想笑いを浮かべて譜面台の前へ進み出た私は、またこってりとしぼられることとなった。


 次第に日も暮れてきて、一生涯解放されないんじゃないかと危ぶんでいた稽古はようやく幕を閉じた。


「そろそろ帰らないと寄宿舎の夕食に間に合わないね」


 ドゥランテ先生はなぜか満足そうな顔をしている。指導にやりがいを感じていらっしゃるのか?


「はい、また今度お願いします」


 エンツォが、頭の働かない私とリオの代わりに、礼儀正しく答えた。


 食事を取るよりベッドに身を投げ出したい衝動にかられながら、黙々と楽譜を片付ける。エンツォもチェンバロを弾き通して疲れたのだろう、無言で楽器に蓋を乗せていた。


 ドゥランテ先生だけがいつもと変わらず――いや、むしろ普段より溌溂はつらつとした様子で励ますように私とリオの肩をたたき、廊下へ押し出した。


「今週中にまた時間を作れるはずだから、エンツォを通して伝えるよ」


 先生は教室の扉を閉め、ジュストコールのポケットから鍵を出して施錠した。


「今日はありがとうございました」


 学生三人で礼を述べる。


 先生の背中が階段の下に消えると、突然エンツォが泣き出しそうな声を出した。


「二人とも、ごめん!」




─ * ─




エンツォは何を謝っているのか?

次回『ジャルディーニ氏の屋敷に潜む黒い影』。さっさと本番まで行きます!

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