38、成功者になることだけが幸せな人生ではない

「あそこにある靴」


 エンツォは私のベッドの下を指さした。


「あれは誰のだい?」


 私の全身から血の気が引いた。クローゼットの暗闇の中で荒くなる息を必死で整える。


 窓から差し込む夕日が部屋中を不吉なくれないに染め上げていた。


 エンツォは何も答えられないリオを振り返った。


「どうした?」


 その顔に初めて愉悦の色が浮かぶ。


 リオが静かに口を開いた。


「僕のだけど?」


 その声は震えてもいなければ上ずってもいなかった。


「二足持っているのかい?」


「そうだよ。何かおかしい?」


 エンツォはまだ何か言いたげだったが、黙って立ち上がった。リオが何食わぬ顔で倒れた椅子を元に戻しているあいだ、エンツォは窓の外を見ていた。金色に輝く海に目を細め、


「君のお友達はまだ帰って来ないようだね」 


「カッファレッリの部屋にでも行ってるのかもね。歌を教えてくれって今朝も頼んでたから」


 リオは動じず、エンツォの隣に立って外を眺めている。


「まあいい。心が決まったら言いなさい。悪魔はいつでも君の願いを叶えてくれるさ」


 エンツォは上着をひるがえし、扉の方へ向かった。


「うん。よく考えるよ」


 リオが扉を開けるとエンツォは部屋から出て行った。


 私は息を止めていたらしい。クローゼットの壁に寄りかかると、細く長い息を吐きだした。


 リオは扉を閉めるとその場にへたり込んでしまった。その瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちる。


 私は驚いてクローゼットから飛び出した。


「リオ!」


 駆け寄って行って、ぎゅっと抱きしめた。


「怖い思いさせてごめん」


「オリヴィアが謝ることじゃないよ。僕の考えた作戦だもん」


 リオはごしごしと腕で涙を拭いた。


「ちょっと緊張しただけ。

 でもあいつ、僕の先生マエストロまで馬鹿にしやがって許せないや」


 屋根裏部屋の暗がりの中でリオが怖い目をして、私はひやりとした。リオの心に悪魔が入り込んだら大変だ。だが、人を憎んではいけないなんて言っても意味はない。言動だけ変えても心に巣くう憎しみは消えないから。


 だから私はリオのやわらかい頬に手のひらを添えて断言した。


「リオの先生は立派な人だよ。オペラの舞台で脚光を浴びるだけが私たちの未来じゃない」


 彼の濡れたまつ毛がまたたいて、奥深い榛色はしばみいろの瞳が私をまっすぐ捉えた。


 私の脳裏には会ったこともないリオの先生が、小さなリオに音楽の喜びを教えている様子がありありと浮かんでいた。


「親兄弟がいる故郷に帰って、生まれ育った村の子供たちに音楽を教えたり、ナポリで見たり学んだりしたことを地元の人たちに伝えるのも一つの生き方だと思う」


 リオは怒りの消えた澄んだ瞳で、


「そうなんだよ、オリヴィア」


 静かな声で答えた。


先生マエストロ、言ってたんだ。自分に劇場は合わなかったって。人がたくさんいて、つねに騒がしくて、大勢の人間が一つのスケジュールのもとで動いていく――心の休まるときがなかったって」


 観客としてすら足を踏み入れたことのない劇場という場所へ、私は思いを馳せた。豪華できらびやかと言われる贅沢な舞台を作るのに、一体どれほど多くの人が関わっているのだろうか。


先生マエストロは教会音楽にこそ心を洗われること、遠く離れた故郷を愛していることにナポリへ来てから気付いたんだって」


 私たちはいつの間にか手をつなぎ、二人並んでベッドに腰かけて暮れゆく空を見上げていた。


 しばらくそうしていたが、ふと思い出したようにリオが口をひらいた。


「僕、あの先輩を明るい人に変えられるかと思ったけど、励ますことさえできなかった」


 エンツォの異様な様子から私たちは、彼が心に悪魔を飼っているんじゃないかと疑った。リオは自分が誘われたのを利用して、エンツォに話を聞きに行くと言い出した。私は危険だと止めたのだが、リオは首を振った。結局、私がいつでも出ていけることを条件に、私たちは計画を実行に移したのだ。


 リオは、グラデーションを描いて刻一刻と表情を変える夕空をみつめていた。


「ルイジおじさんからアンナおばさんの話を聞いたとき僕、自分がおじさんだったらおばさんを救えてたんじゃないかって思ったんだ」


「それでエンツォを救おうとしたのね」


 私の言葉にリオはまつ毛を伏せ、自嘲気味な笑みを浮かべた。


「人の心ってそんな簡単に明るくならないんだね」


 おりのように心にたまった憎しみは、他人の言葉でたやすく浄化されはしないのだろう。


 青いインクが次第に浸食していくみたいな空を見つめながら、私はふと疑問を口にした。


「あのエンツォって人、悪魔を呼び出してどんな願いを聞いてほしいんだろう?」


「声が高くなるようにとか?」


「そんなまっとうな願いなら神様にできるよね」


 リオはおびえた表情で私を見た。何を想像したのだろう。だが私も不吉な予想しか出てこない。


「誰かに相談したほうがいいのかな?」


 両手で自分の肩を抱きながら、リオは身震いした。


「管理人さんとかほかの先輩とか音楽院の先生とか――」


「でも」


 と私は恐れていることを打ち明けた。


「話したことがバレたら何をされるか分からないよ。それこそ呼び出した悪魔に恐ろしいお願いをされたら怖いじゃん」


「そうだよね。告解室の神父様なら秘密を守ってくれるけど、悪魔召喚の話を放っておくわけないしね」


 エンツォが秘密の儀式についてリオにしか打ち明けていない以上、教会が動いたら話の出どころはすぐに分かってしまう。


 何も良い案が浮かばないまま、私たちは夕飯を告げる鐘を聞くことになった。


 食堂に行けばエンツォと顔を合わせなければいけない。階段を降りたところで出会った彼は、リオに気が付くとニヤリと不気味な笑いを浮かべた。何を考えているのか分からない相手に恐怖心が募る。


 絶対に私がリオを守らなくちゃ。でもどうやって?


 思い悩んでいた私の肩に、突然誰かが腕を回した。


「よお、俺のかわい子ちゃん」


「わっ、カッファレッリ!」


 驚いた。でも迷いのなさそうな横顔を見るとホッとする。


「今夜もひよこ豆の入ったミネストローネだとよ」


 カッファレッリがうんざりとした口調でメニューを教えてくれる。寄宿舎の夕食は毎日同じメニューなのだろうか?


 彼に肩を組まれたまま配膳台まで歩いていると、周囲の噂話が聞こえてきた。


「カッファレッリが後輩をかわいがってるぜ?」


「珍しいな。女の子にしか興味のなかった奴が」


 男装が露見する危険を感じてカッファレッリの腕からすり抜けようとしたとき、私の肩がふと軽くなった。カッファレッリが朝と同じように木の盆を手に取り、私とリオに渡してくれる。


 私の横に並んだリオが盆の上にスープ皿を乗せながら、


「僕たちは配膳の当番も免除されてるのかな」


 と小声で疑問を口にした。


「どうだろ」


 私が首をかしげていると、カッファレッリが答えた。


「免除されてるのは掃除だけだぜ」


 見上げたその横顔に、わずかな陰が差したような気がする。だがそれはすぐに消え、いつもの不敵な笑みに上書きされた。


「お前ら今日、俺様のリハーサル聞きに来ただろ?」


「なんで知ってるの?」


 驚く私に、


「舞台に立つと意外となんでも見えるんだぜ」


 にやりと笑った。私も早く舞台に立って、美しいシャンデリアの下で歌いたい! そのためには――


「ねえ、やっぱりボク、君に歌を教わりたいよ!」


 私は朝よりずっと強い意志をこめて頼んだ。




─ * ─




さて次回、オリヴィアはようやく歌のレッスンを受けられる――のか?

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