39、リオネッロの試練

 翌朝、私とリオはカッファレッリに指定された教室で彼を待っていた。


「来ないね」


 内心のいら立ちを隠さない私に、


「オリヴィエーロもこっちおいでよ。市場が見えるよ!」


 小さなバルコニーに出たリオが、楽しそうに指さした。


 落ち着かない私は机と椅子の間を行ったり来たりしながら、


「読み書きの授業に出ないでここに来たのに」


「先生、歌の勉強優先でいいって言ってたじゃん」


 座りっぱなしの授業をさぼれてリオはむしろ嬉しそう。だが私は早くみんなに追いつきたいのだ。リオは教会で聖歌を学ぶ中でラテン語に触れ、アルファベートも自然に覚えていたから、私ほどの焦りはないのだろう。


 教会の鐘が時間の経過を告げる。あきらめて読み書きの先生のところへ戻ろうかと思った時、教室の扉が開いた。


 遅かったですね、の一言くらい言ってやろうと身構えていたが、紙ばさみを抱えたカッファレッリの横に知らない人物がいたので、私は口をつぐんでしまった。


 手近な机の上に紙ばさみを放ったカッファレッリはこちらを見向きもせず、一緒にやってきた年上の男性に私たちの分からない話を語り続ける。


「それで先生マエストロは新曲をお披露目したいとか言うんだが、まだオケパートを書いていないそうなんだ。写譜の時間も考えると厳しいだろ?」


「そうだね、僕と君は先に楽譜をもらえそうだが、オケと充分にリハの時間を取れないと、ろくな結果にならないと思うよ」


 若い男性は話しながら片手をあげ、私たちにほほ笑みかけた。


 すかさずリオが青年の前に飛び出し、屈託のない笑顔で自己紹介をする。私も慌ててあとに続いた。


 年上の青年はマルコという名で、オルガン科を卒業したそうだ。今はオルガン奏者や伴奏の仕事をしながら作曲を学んでいるという。彼が手早く鍵盤楽器チェンバロの蓋を開け調律を終えると、カッファレッリが何か指示を出した。


「了解。いつものだね」


 マルコさんはすぐに合点し、シャラランと和音を弾いた。


 カッファレッリは私たちに向き直り、


「いいか、お前ら。俺様が今から見本を見せるから後に続いて歌うんだ」


 私たちの返事も待たずに、マルコさんを振り返ってひとつうなずいた。


 カッファレッリと同じように歌うなんてそんな難しいことできるわけないと思ったけれど、彼が歌って聞かせたのは単純な音階だった。一段ずつ階段を登るように隣の音符に移動し、七段分登ったと思ったら上から同じように降りてくるだけ。楽勝じゃん、と心の中でつぶやき、真似をする。


 最初の音に降りてきて終わりかと思ったら、マルコさんの弾く和音が半音上がった。


「同じことを繰り返せ」


 カッファレッリの指示が飛ぶ。


 半音ずつ高くなる音高に私がちょっときついかなと思い始めたとき、リオがぐいーっと伸びをした。


「ねえ、発声練習はもういいから曲を歌いたいよ」


 リオの要求に、カッファレッリがニターッと口の端を吊り上げた。


「そう言うと思ってたぜ」


 カッファレッリは机のほうへ大股で歩いて行き、革製の紙ばさみの中から楽譜を取り出すと、リオとマルコさんにそれぞれ一部ずつ渡した。


「まず俺様が見本を聞かせる」


 カッファレッリのその言葉だけで意図をくみ取ったのか、マルコ氏は前奏の途中から弾き始めた。


 カッファレッリが歌い始めると私はすぐに気が付いた。彼が昨日リハーサルで歌っていた曲だ!


 また聴き惚れているとカッファレッリは途中で歌うのをやめてしまった。


「次はお前の番だ、リオネッロ」


「そ、そんな――」


 楽譜を手にしたまま啞然あぜんとするリオに、マルコさんが同情のまなざしを向けている。


「始めてくれ」


 カッファレッリが頼むとマルコさんはちょっと肩をすくめ、さっきと同じところから弾き始めた。


 歌が始まる部分になってもリオは口をぱくぱくさせるばかりで声を出せない。かわいそうで見ていられず、私は目をそむけた。


 マルコさんは伴奏を途中で止めると、もういいだろうと言うようにカッファレッリを振り返った。


「分かったか?」


 泣きそうな顔で立ち尽くすリオに、カッファレッリが問う。


「だ、だって僕、楽譜まだちゃんと読めないもん!」


 必死の抵抗を試みるリオに、


「だから楽譜を読めるように勉強するんだ」


「楽譜が読めるようになるまで曲は歌えないの?」


「曲を歌う前に声を作る」


 断言するカッファレッリに、


「そんなに時間がかかるもの?」


 リオは懐疑的だ。なんせ彼は美声をかわれてここへ連れてこられたのだ。


「お前はよい楽器を持っているから歌手になることを運命づけられた。だがどんな楽器でも演奏法を学ぶ必要がある」


 カッファレッリにはリオの内心など、お見通しのようだ。彼自身も才能ある子供だったからだろう。


「今のお前は子供の合唱の声で歌っている。それをソリストの声に育てていく必要がある」


 なるほど、確かにリオの声は澄んでいて綺麗だけれど、カッファレッリのように聴く者の心を鷲掴みにする力強さはない。村にいたとき教会で歌っていた男性ソプラノも、リオよりずっと声に力を持っていた。美醜の問題ではなくソリストの歌い方か、合唱向きの声かという違いだったのかも知れない。


「大体リオネッロ、お前はまだ正確なピッチとリズムで歌うことも、アジリタやトリルを歌うテクニックもないだろう?」


「アジリタ?」


 問い返すリオに、


「細かい音符を歌うテクニックだよ。とにかく何年もかかるから曲の練習と並行して学ぶんだ。楽譜を読めるようになる方がずっと簡単だ」


 言い聞かせてカッファレッリは、不機嫌そうなリオの手から楽譜を回収した。チェンバロの譜面台に立てかけてあった分も束ねて紙ばさみにしまっていると、


「……オリヴィエーロの前で恥かいちゃった」


 リオがぽつんとつぶやいた。




─ * ─




次回『カッファレッリの声楽指導』

基礎訓練の大切さをリオに思い知らせたところでいよいよ稽古の始まりです。

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