40、カッファレッリの声楽指導
「……オリヴィエーロの前で恥かいちゃった」
リオがぽつんとつぶやいた。
歌に関しては私のことをあまり気にしすぎず、かっこつけないで欲しい。だが今、カッファレッリも聞いているところで何を言えば正解なのか分からない。
カッファレッリは私たちの前に戻ってくるとリオを見下ろした。
「俺様でさえ今もポルポラに発声を見てもらってる。舐めてかかるな」
「でもさすがに――」
私は気になっていることを尋ねた。
「さっきの退屈な音階はもう歌ってないんでしょ?」
カッファレッリはますます楽しそうに口角を吊り上げた。
「俺様はいつも一日の最初にあれを歌って、その日のコンディションを確認するんだぜ」
決して嘘をついているようには見えない。私が絶句していると、チェンバロの前に座ったマルコさんが優しい声音で話し始めた。
「歌でも楽器でも基礎練習が大切だよ。何年も基本を積み重ねて、プロになっても大切にするものだ。土台のない家はすぐに倒れてしまうだろ?」
私と一緒にリオも素直にうなずいている。
ホールで歌っていたカッファレッリは、大空を飛び回るカモメのように気持ちよさそうで、生まれたその日から自由自在に歌っていたんじゃないかと錯覚しそうになった。でも本当は、地道な鍛錬を積み重ねて習得した技術だったんだ。
きらめくシャンデリアの華やかさには程遠い舞台裏を知ったとはいえ、あきらめるわけにはいかない。
「音階からしっかり学びたいので一から教えてください」
私がまっすぐ見上げてお願いすると、カッファレッリは満足そうにフフンと笑った。
リオもすぐに、
「僕も!」
と声を上げた。
「ようやくやる気になったか」
カッファレッリは腕組してリオを見下ろした。それからマルコさんに、
「ありがとな」
と声をかけた。意味が分からず状況を見守る私たちの前で、マルコさんはチェンバロの椅子から立ち上がる。
「それじゃあカッファレッリ、あさってのリハーサルでな」
部屋から出ていき、廊下から私たちにウインクした。
「子供たち、よく学べよ」
閉まる扉を見ながら呆然としていると、カッファレッリがどっかとチェンバロの椅子に腰を下ろした。
「えっ、カッファレッリ、チェンバロ弾けるの?」
思わず失礼なことを口走ると、あきれ顔で見上げられてしまった。
「お前たちも楽器は一つ必修だからな」
「楽器一つって自由に選べるの? 何が一番簡単かな?」
ずる賢い質問をする私に、カッファレッリはわざとらしく溜め息をつき、
「歌手は特別な理由でもない限りチェンバロを学ぶんだよ」
「え、なんで――」
と言いかけた私の言葉は、
「ヴァイオリンはだめなの? 僕、ヴァイオリンの音好きなんだぁ」
リオの無邪気な声にさえぎられた。
「お前らなんのために楽器を学ぶか分かってるか?」
問われて私たちは沈黙する。
「自分の歌の伴奏もできないようじゃあ一人で練習できないだろ」
「えっと、つまり?」
きょとんとするリオに半ばいら立ちながら、
「ヴァイオリンはリコーダーやオーボエと同じように旋律楽器なんだよ。つまり俺ら歌と同じくメロディを奏でるんだ。チェンバロやオルガン、リュートなんかは伴奏ができるだろ?」
確かに父さんは時々ギターで弾き歌いをしていた。和音を弾ける楽器なら、和声の響きを確認しながら練習できるってことか。
「じゃあ始めるぞ。一人ずつだ。どっちからやる?」
カッファレッリに問われて、私は即座に答えた。
「ボク行きます!」
「よし。じゃあ基本中の基本、メッサ・ディ・ヴォーチェからだ」
なんだそれは。ポカンとする私に、
「一つの音符を長く伸ばす練習だが、小さい音からだんだん大きくして、そこからまた小さくしていく。見本を聞かせる」
カッファレッリは椅子に座ったまま小声で歌い出した。音量は小さいのになぜこんなに凛とした音色なのだろうと不思議に思ううち、陽が登るように声量が増していき、真昼の太陽のごとく輝きだした。だがまたすぐに波が引くように声が遠ざかっていく。繊細な音色はかすかな余韻を残し、やがて元の静寂が訪れた。
まさか曲を歌わなくても声そのものにこれほど力があるとは。美しさに打ちのめされていたら、
「分かったか? ピアニッシモで始めてクレッシェンドしてフォルテに達する。そこからまたデクレッシェンドしてピアニッシモに戻すんだ。やってみろ」
私が歌う音高を示すためか、チェンバロで和音を弾いた。
さっきよりさらに単純になったから簡単だろうと私は声を出した。
だが―― 声を最大まで大きくしたところで力尽きてしまった。
「息の配分を考えて歌え」
それから半音ずつ音高を変えて、単純な練習が続いた。
途中でたびたびカッファレッリが見本を聞かせてくれるものの、ポルポラ先生のように理論的な指示を出してはくれない。
「俺様の声をよく聴け。響きを感じろ。自分の声にも響きを探すんだ」
彼の声に含まれているきらきらした成分を私の声にも見つけて、それを増幅させろということだろうか?
聞いているだけのリオはすっかり飽きた顔をして外を眺めているが、私は動いてもいないのに汗をかいていた。息をコントロールして少しずつ吐くというのは、なかなか疲れるのだ。
「よいだろう。次、リオネッロ。ボケっとしてるんじゃないぞ」
一言余計なカッファレッリに意地の悪い声を出されて、リオはムッとしながらもチェンバロの前へ出てきた。
私はふらふらと壁際に戻り、椅子にもたれかかった。
リオはいかにも、僕はできるもんと言いたげな表情で姿勢を伸ばして立っていたが、歌い出すとあっという間に息がなくなった。
「ふわふわした声を出すな。こうやるんだよ」
カッファレッリがまた歌って聞かせるが、リオは飲み込めていないのか、何度歌っても息が続かない。
「ねえリオ」
私はつい口をはさんだ。
「ポルポラ先生は、リオが声に空気を混ぜすぎてるって言ってたよ。たしかもっと焦点を集めて歌えって」
出過ぎた真似をしてカッファレッリに怒られるかと心配したが、むしろ逆だった。
「お、さすがポルポラ。いつも的確な処方箋をくれるからな」
カッファレッリは楽しそう。一方でリオはまたプライドを傷つけられた顔をしている。村にいたときは私の歌の先生はリオだったのだから、当然かも知れない。
でも私はリオが困っていると思ったから、ポルポラ先生の言葉を思い出させてあげたのにな。
リオはポルポラ先生に指導を受けたときの感覚を思い出したのか、明らかに息が続くようになった。だが私と目を合わせてくれない。
なんでリオってあんな無駄にプライド高いの? と私が不機嫌になっていたら、カッファレッリから声がかかった。
「オリヴィエーロ、充分休んだか?」
「あ、はい!」
「喉が痛かったりしないよな?」
「それは平気」
私が即答すると、カッファレッリは微笑を浮かべてうなずいた。
「じゃあ交代だ」
私とリオは無言のまますれ違った。
そしてまた地道な練習が再開したのだが――
今度は私の息が切れるとカッファレッリがチェンバロを弾いた。私はすぐに気が付いた。同じ音を伸ばしているはずが、ピッチが下がっていたことに。
ショックを受ける私に、
「耳は悪くないようだな」
「どうして低くなっちゃうんだろ……」
カッファレッリは何も答えずに立ち上がった。そしてなぜか、窓の外を眺めているリオの方を見た。
「リオネッロ、俺様が発声するところをよく見ていろ」
リオに指示を飛ばしてから、美声を響かせてメッサ・ディ・ヴォーチェを聴かせた。
歌い終わるとすぐ私に真似するよう、顎で示す。意味が分からず、私も下手くそなメッサ・ディ・ヴォーチェのなりそこないを歌った。
「リオネッロ、俺様とオリヴィエーロ、何が違うか分かるか?」
カッファレッリの質問は私ではなくリオに飛んだ。
「えっ」
目を白黒させるリオに畳みかける。
「ちゃんと見てたんだろうな? 姿勢、首の位置、口の開け方、視線の向き――何も気付かねえのか?」
「すみません、もう一度……」
消え入りそうなリオの声を合図に、カッファレッリと私は同じことを繰り返した。
「どうだ?」
カッファレッリに問われてうつむくリオを見ながら、私はハラハラする。大好きなリオとの関係がこれ以上気まずくなるのは絶対嫌なのに、なんでカッファレッリはリオを追い詰めるような質問をするの!? 優しいリオが私に指摘なんかしたいわけないじゃん!
「何を遠慮している? お前ら友だちなんだろ? 男同士だろ?」
カッファレッリの冷ややかな声がリオを襲った。
─ * ─
まずいぞ、今度はリオの反応でオリヴィアの男装がバレる危機!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます