37、錬金術師フラメルの写本と悪魔召喚
図書室には西日が差し込み、陽だまりの中で埃が踊っている。
リオが図書室に足を踏み入れると、窓際に座っていたエンツォが立ち上がった。
「やはり来たか」
無言でうなずくリオの表情は、扉の隙間からのぞいている私には見えない。だが両肩がわずかに上がっているところを見ると緊張しているようだ。
エンツォは広げていた楽譜を閉じると立ち上がった。
「場所を変えよう。談話室に誰もいないとよいんだがな」
「人に聞かれたらまずい話なの?」
か細い声で問うリオに、楽譜を棚に戻していたエンツォが振り返る。
「耳にしても誰も信じないかもしれないけれどね。僕の部屋が使えれば良かったんだが」
エンツォはため息をついた。
「あいにくよくしゃべるチビデブが同室でね、彼がいつ帰って来るか分からない以上、一番不向きなんだ」
私はぽっちゃりくんの人懐っこい笑顔を思い出した。目をくりくりさせながら甲高い声でしゃべり続ける彼に聞かれたら、翌日には教師の耳にまで届いていそうだ。
「じゃあ僕の部屋は?」
リオが提案した。
「君のお友達がいるだろう?」
「オリヴィエーロはリハーサルを聴いてるからまだ帰らないよ」
「それならちょうどいい」
エンツォがうなずくのを見届けてから、私は図書室前の廊下を離れた。寄宿棟につながる渡り廊下を目指して走っていると、すれ違った上級生から、
「走るな、危ないぞ」
と声をかけられたが、今は立ち止まっている余裕などない。
渡り廊下を駆け抜け寄宿舎の二階に入る。寄宿舎内の階段を屋根裏まで駆け上がると、冬なのに汗が噴き出してきた。
肩で息をしながら古びた木のクローゼットを開ける。私たちの服はまだルイジおじさんが作ってくれた革袋に入れたままだから、クローゼットの中はからっぽだ。靴を履いたままクローゼットに入るのは嫌だったのでベッド下に隠して、私はクローゼット内に身を潜めた。
ようやく呼吸が落ち着いてきたころ、リオとエンツォが部屋に入ってきた。
「どうぞ」
リオはエンツォを窓際まで連れてきた。窓の近くには古びた机と椅子が二人分並んでいる。エンツォは片方の椅子に腰を下ろし、
「君は秘密を守れるかい?」
とリオを見つめた。エンツォの表情のない顔が、クローゼットの隙間からちょうど見えた。
うなずくリオにエンツォはもう一度、念を押す。
「今から僕がする話は、決して誰にも打ち明けてはいけない。いいね?」
「分かった」
リオはしっかりとした声で答えた。
窓の外で少しずつ傾いていく太陽が、赤みを帯びた光を投げかける。私に背を向けたリオの金髪が淡く透けて、音楽院にたくさん飾られている油絵を思い起こさせた。
張りつめた空気を震わせるのは、遠く海辺で鳴き交わす海鳥の声だけだ。私は微動だにせず息を殺していた。
「君は悪魔を信じるか?」
エンツォの低い声が静まり返った屋根裏部屋に気味悪く響く。女性の音域より低いのに、大人の男性の声でもない。聞き馴染みのない音色には現実感が欠けていた。
「神様がいるなら悪魔もいるかも知れないよね」
リオは恐れることなく答えた。
「ふぅん、意外だな。もっと驚くかと思ったんだけど」
「だって、神様が叶えてくれない願いを聞き入れてくれるって言ってたじゃん」
エンツォは食堂で、確かにそんな話をしていた。
「説明は不要みたいだな」
リオを見ているはずの二つのまなこは真っ黒い穴のようだ。暗い淵に吸い込まれそうになって、私は目をそらした。
「僕は悪魔を呼び出し、契約する方法を研究している」
エンツォの説明にリオが息を呑む気配がする。
「ナポリの裏通りにある古書店で、ラテン語で書かれた古い写本を見つけたんだ。少しずつ翻訳するうち、ニコラス・フラメルが残した文書を書き写したものだと分かった」
「ニコラス――何?」
リオが聞き返すと、
「ニコラス・フラメル。三百年以上前の時代に生きた錬金術師さ」
エンツォがすらすらと答えた。
「その写本に悪魔を呼び出す方法が書いてあったの?」
リオが震える声で尋ねると、エンツォはゆっくりとうなずいた。
「どうやって悪魔を呼び出すの?」
リオが身を乗り出す。だがエンツォは首を振った。
「まだ話せない。というよりまだ翻訳している最中だ。君にも色々と手伝って欲しい」
「僕、ラテン語の翻訳なんて出来ないよ」
「悪魔を呼び出すための魔方陣を書き写したり、儀式に必要な物をそろえたり、翻訳以外にもやるべきことはたくさんあるんだ」
リオは少し考えているようだ。ややあって、
「どうして僕に話したの? ほかのみんなのほうが歳も上で役立ちそうなのに」
不安そうに首をかしげた。
「あいつらはダメだ。みんなカッファレッリの息がかかった奴らだからな」
「そうなの?」
「そうだとも。カッファレッリをあがめやがって」
それまで無表情だったエンツォの顔に暗い嫉妬の炎が宿った。
だがリオは、
「カッファレッリの歌がうまいからじゃない?」
意外と無神経な質問をした。
「だが性格はクソだ」
「そうだね」
リオはあっさりと認めた。
エンツォはこぶしを固く握り、瞳に黒い炎を燃やしている。
「カッファレッリは僕を見下しているんだ」
「あいつは自分以外の人間すべてを見下してそうだけど」
リオは冷静な口調で事実を告げた。
「そうかもな。忌まわしい手術を受けた時点であいつも僕と何も変わらない虫けらになり下がったのに」
「エンツォは虫けらなんかじゃないよ!」
思わず高い声を出すリオはやっぱり優しい子だ。私の胸に熱い想いがこみ上げてくる。リオがいとおしくてたまらない。
だがエンツォはクククと薄気味悪く喉を鳴らした。
「もうじき分かるさ。僕たちが人間扱いされないことくらい」
「そんなふうには、思えないけれど……」
リオの声は半ばから消え入りそう。小さくなる背中を今すぐに抱きしめてあげたい。クローゼットから飛び出しそうになる衝動を抑える私の耳に、エンツォの氷のような声が刺さった。
「歌える間はな。僕たちは美しい鳴き声のためだけに飼われている鳥かごの中の
エンツォの血の気が失せた頬に歪んだ笑みが浮かんだ。
「その証拠に僕の声がどんどん低くなってアルト音域さえ満足に出なくなってから、音楽院の教師どもは目をそらすようになった」
リオははじかれたように顔を上げ、エンツォを見つめた。
「でもその、高い声で歌う歌手になれなくても指導者になるとか、作曲家になるとか――」
「人間以下になった僕がいくら努力したって人間にはなれない」
有無を言わさぬエンツォの声がリオの言葉をさえぎった。
「そんな――」
まだ何か言葉を
「お前はもう少し不幸を味わったほうがよさそうだな。名歌手になれるのなんて一握りだぞ。ほとんどは田舎の教会でせいぜい子供たちに歌を教えて終わるんだ」
「僕の
「そいつも負け犬だよ」
「違う!」
リオは叫んで勢いよく立ち上がった。派手な音を立てて椅子が倒れる。
エンツォは一瞬、大きな音に驚いて肩を跳ねさせたが、すぐ冷たい表情に戻った。
「そのうち現実が見えるだろうよ」
リオは何も答えず、震える両手を握りしめたまま立ち尽くしている。私のいるクローゼットの中からリオの表情は見えないが、きっと目にいっぱい涙をためているんだろう。
「座れよ」
微動だにしないリオに溜め息をついて、エンツォはあきらめたようにかがんだ。倒れた椅子を戻そうと片手を伸ばしたとき、
「おや?」
床に片膝をついたままエンツォが目をすがめた。
「あそこにある靴」
彼は私のベッドの下を指さした。
「あれは誰のだい?」
─ * ─
クローゼットの中に隠れているオリヴィアは、エンツォに見つかってしまうのか!?
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