58、愚か者どもの嫌がらせに傷つく者と、傷つけられない者

 普通の少年たちがミネストローネの入った寸胴鍋の前に立ち、リオとエンツォがパンを配るため準備していると、ピッポが厚い唇を吊り上げた。


「おいおい、キモいカマ野郎は自分たちの食べるものだけ配れよ。俺たちのメシに触んな」


 肩を震わせてうつむいたエンツォを、リオが心配そうに見上げる。


 私は自分たちだけが食べるゆで卵の前に立っているからピッポの攻撃対象には含まれないが、心の中で地獄に落ちろと繰り返した。


「俺、今日パン食えねえわ」


 ピッポはわざとらしく眉尻を下げて困り顔を作った。


 無表情を決め込んでミネストローネをすくう配膳の少年に、


「ひよこ豆、増やしてくれよ。俺、パン食えねえんだからさ」


「いや、あんたが勝手に食べないだけじゃん」


 私はすぐに口をはさんだ。


「えー?」


 ピッポは実に嫌味たらしく困惑し、


「玉無しが配ったパンなんて食べたら俺の玉まで腐っちゃうもぉん」


 ねっとりとした声で言い放った。私がミネストローネを配っていたら熱々のやつをお見舞いしてやるところだが、あいにく私と寸胴鍋の間にはリオとエンツォが立っている。しかも大切な本番前だと思うと、私の怒りも冷めて行った。


 ピッポのうしろに並んでいた彼の子分らしき愚か者が、


「おいらもパンいらねぇ」


 と辞退する。よく見れば去年の降誕祭ナターレで合唱をクビになったガスパーレだ。


 三番目に並んでいた少年も、ミネストローネだけもらうと慌てて席に戻って行った。


 だが次の子は腹が減っていたのか、エンツォからパンを受け取ろうとした。しかしそこで、ガスパーレが振り返った。


「お前、玉無しが感染うつるぞ?」


「え」


 少年はパンに伸ばした手を引っ込めた。


「お前そのパン食ったら、明日からカマ野郎な」


 にやりと残酷な薄笑いを浮かべる。少年は怯えて、


「ま、間違えたんだ! 食べないよ!」


 大声で弁解した。


 それから目を疑うほど馬鹿らしいことが起きた。すべての少年がパンを拒否したのだ。ただし私たちを除いて。


 盆を持って並んだサンドロさんは悲しそうに目を伏せ、あきらめたように首を振っていた。彼の弟ぽっちゃりくんは、片手で兄の服をつかんで泣き出しそう。


 エンツォは放心状態で立ち尽くし、リオは広げた麻袋の中に積みあがったままのパンを見下ろしていた。


 暗い空気を破ったのは、良く通る高い声だった。


「パンすげぇ残ってんじゃん! 俺様、育ち盛りだから三個もらうわ」


 カッファレッリはいつもの、美少年であることを忘れさせる悪ガキ然とした笑みを浮かべて、自分の盆にひょいひょいとパンを積み重ねた。


 続いて無愛想な配膳係の少年から、木製の大きなさじを奪い取り、


「俺様、豚肉パンチェッタが好きなんだよ。全然入ってないじゃんか」


 文句を言いながら寸胴鍋の底をあさった。味出しに入れてあっただけなのだろうサイコロ型に切られた欠片を、いくつかすくいあげた。


 カッファレッリは周囲に興味がなさすぎて、この異様な雰囲気に気付いていないのか?


 いや、そんなわけはない。


 私は思い出した。去年、初めてカッファレッリのリハーサルを聴いた日――エンツォが悪魔召喚の話をリオに打ち明けるのをクローゼットの中で聞いた日を。配膳当番の話をした途端、カッファレッリの横顔に一瞬だけ影が差したのだ。


 過去にもエンツォに対する嫌がらせはあったのだろう。私が寄宿舎に来てからも片鱗は垣間見えたが、今日ほど大規模なものは初めてだ。エンツォがパンを配っている日に運悪く、最初にピッポとガスパーレが料理を取りにきたことが原因か。


 最後に私とリオもひよこ豆と人参、とろけた玉ねぎとじゃがいもを盛り付けた。


 それから大量に残ったパンを嫌な気持ちで見下ろしながら、


「二個もらっちゃおっか」


 私は隣のリオをこっそり誘った。


「だね」


 リオもうなずいてパンに手を伸ばした。


 私たちは毎日おなかをすかせている。育ち盛りの私たちに寄宿舎の食事は足りないのだ。


 それなのに嫌がらせのため食欲を乗り越えるなんて、あり得ないほど愚かだ。


 エンツォは真っ青な顔をしたまま、ふらりと食堂から去って行った。


「待って――」


 慌てて追いかけようとしたリオを私は止めた。


「きっと食欲ないんだよ」


 エンツォが暗い目でリオを見下ろしていることに、私は気づいていた。エンツォから見たら、充実した毎日を送り演奏会への出演が決まったリオは、きっと裏切り者なのだ。二人きりにさせたくない。




 翌日、音楽院の教室に現れたカッファレッリに、リオは昨夜のことを相談した。


「あまりにひどいと思うんだ。大人になんとかしてもらえないのかな」


 偽カストラートである私よりずっと、リオのいきどおりは強い。


「ああ?」


 カッファレッリは大して興味もなさそうに、チェンバロの譜面台に楽譜を並べながら、


「お前らが来るずいぶん前に、サンドロが管理人ジュゼッペに話してたんじゃねえかな。でも大人が介入してきてもあいつら、より巧妙にバレないように嫌がらせするだけだぜ」


「そんなぁ」


 意気消沈するリオに、


「あいつらは単に、俺様たちに嫉妬してる可哀想な奴らだろ」


「嫉妬だって?」


 リオは驚いて顔を上げた。


「そうだぜ。俺様たちは特権階級だから無理もないがな。あいつらが嫌がらせしてくるたび、俺様はすごい存在なんだって実感するぜ。せいぜい俺様の人生の引き立て役になってもらおう」


 ベストの裾を払って、カッファレッリはチェンバロの椅子に座った。


「カッファレッリは奪われたと思ってないの?」


「は?」


 今度はカッファレッリがポカンとする番だった。


「君だってあの手術を受けたんでしょ?」


 リオは目をそらすことなく、まっすぐカッファレッリを見つめた。


 彼はにやりと笑った。よくぞ訊いてくれたという顔だ。


「リオネッロ、よく聞け。俺たちは毎日何かを選択している。選ぶたび、ひとつずつ可能性の扉は閉まっていくんだ。何も捨てずに何かを得ることなんてできないんだよ」


 リオは口をはさまず、真剣な顔で話に耳を傾けていた。


「ほとんどの凡人は人生を賭けるほどの才能を持たずに生まれてくる。だからその他大勢と同じ選択をしてつまらねえ人生を歩むんだ。俺様は天才だから突き抜ける方を選んだ。早めにいらねぇ扉を閉じたってだけだよ」


 この男、心の底から本気で自分を天才だと信じてるんだ。だから誰にも傷つけられないし、どんな努力も当然の投資だと思って続けられる。


「奪われたんじゃなくて、自ら捨てたってこと?」


 リオは食い下がって確認した。私はうなずいて、つい口をはさんだ。


「みたいだよ。彼の理論によれば、人生っていうのは誰もが毎日、可能性を失っていくことだって。たとえ自ら選ばなくても」


 カッファレッリは満足そうにうなずいた。


「選ばずにボケーッとしてるやつこそ奪われ放題なのさ。そしてある日、自分の人生を生きていなかったことに気付いて、あのジャンバッティスタみたいにみっともねえ恨み言を抜かす大人になる」


 ムール貝に夢中になってたくせに聞いてたんだ。


「くだらねぇこと言ってないでさっさと始めるぞ。本番近いんだろ」


 彼は自分の発声練習を始めた。


「くだらないのかな!?」


 リオが大きな声を出した。リオは深く傷つけられたんだと、私もカッファレッリも思い知らされた。だから彼は歌うのをやめて、もう一度リオに向き直ってくれた。


「俺様にとっちゃくだらねえな。考えたってアホ共の行動が変わるわけでもねえ。もし悔しいってんならリオネッロ、その感情をどうやって歌に乗せるか考えろ。表現を深めるかてにしろ」


 そうだ、カッファレッリは私にも、怒りのエネルギーさえ音楽に向けろと言ったんだ。だから私は怒りも悲しみも覚えておいて、歌に昇華させようと決意した。


「言いたいことがあるんなら音楽で伝えろ。俺たちが少女みてぇな声でわめいたって誰も聞きゃあしねえ。だが歌声なら、奴らの心に入り込める」


 リオはハッとした。カッファレッリの歌声が持つ説得力を思い出したのだろう。


「そうだね。このモヤモヤ、利用させてもらうよ。歌の表現に生かしてやる」


 リオの目にようやく覚悟の光が宿った。


「じゃ、始めるか」


 私たちはカッファレッリと声を合わせてウォーミングアップを始めた。




 私とリオの中では一旦解決した今回の事件だが、エンツォにとってはまだ終わっていなかったのだ――




─ * ─




次回『エンツォからの手紙』です(ピッポの末路もちらりと語られます)。

いよいよ演奏会当日、なぜかエンツォから置き手紙が届きます。

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