59、エンツォからの手紙
夕方、昨日に引き続き配膳当番をこなすため寄宿舎へ戻ると、厨房の前には麻袋に詰められた昨日のパンが置いてあった。
管理人ジュゼッペさんが出てきて、
「大量にパンが残ったのが食事長に知られちまってな。昨日パンを食べなかった寄宿生は罰として、残り物のパンだけにしろと生徒監からお達しがあった」
苦い顔で告げた。
音楽院寄宿舎で暮らすうちに少しずつ私にも組織の様相が見えてきた。ジュゼッペさんは雇われているだけで権力はない。彼の上には食事長や生徒監、財務係がいる。そして毎日のミサを執り行う司祭や聖具係も含めて、彼らを取りまとめる副院長と院長がいるのだ。
「ボクたちは昨日パン食べましたけど?」
「うむ、だからお前たち用には特別にトマトパスタが作ってある。この鍋を運んで行って、分けて食べろ」
熱々の鍋を渡された。こっそり蓋をずらして中をのぞくと、ふわりとあふれ出した湯気が鼻孔をくすぐった。トマトとオリーブの香りに食欲を刺激される。
刻んだ黒オリーブと、削ったチーズがふんだんに入ったトマトパスタはおいしくて、私たちはご機嫌だった。
しかしほかの生徒たちは、一日経過して硬く乾燥したパンだけを無言のまま食べていた。イエス様が
翌日、朝のミサに出るため屋根裏部屋から廊下へ降りると、ぽっちゃりくんが短い脚を一生懸命ぽてぽてと動かして駆け寄ってきた。
「ピッポが退学させられたって! 寄宿舎に混乱を招いた首謀者だかららしいよ!」
「子分のガスパーレは?」
私が尋ねると、
「あいつは残ってる」
ぽっちゃりくんは丸い頬をさらにふくらませた。
なんだか納得できない。ほかの学生を焚きつけたのは、むしろガスパーレじゃないか。
ゆったりとした足取りで歩いてきたぽっちゃり兄サンドロさんが、小声で答えた。
「ピッポだけ退学させられたのは見せしめだと思うよ。音楽院としては退学者なんてなるべく出したくないんだろうね」
とはいえ大勢の生徒が食事を取らないなどという事態がまた起こるのは避けたいのだろう。
階下に降りるとガスパーレは一人小さくなっていた。誰も彼に話しかけない。いや、むしろ目も合わさず、わざと避けているようだ。
私はすぐに、彼らの間に漂う嫌な空気を察した。次のターゲットはガスパーレなのか? 結局、誰かを吊るし上げなければやっていけないほど少年たちの生活はストレスに満ちているのだ。
思春期の子供たちが狭いところに閉じ込められ、集団生活を強いられているだけで苦しいというのに、音楽という才能が物を言う分野でつねに仲間と比べられる。同時に入学した友人は先生に認められ、演奏会に出て活躍しているのに、自分は一向に芽が出ないなんてよくある話だ。挫折を味わい人と自分を比べて落ち込み、自らの才能を疑うようになると、わだかまりの矛先は弱い者へ向けられる。
そりゃ悪魔も寄って来るわ、と私はため息をついた。
寄宿舎の雰囲気が元に戻らないうちに、私とリオがデュエットで出演する演奏会がやってきた。当日になったらあまり声を出さず、出番まで体力を温存しておけとカッファレッリから言われていた。
午後になり第一部が始まると、私とリオは楽屋代わりの教室に持ち物を置き、最後の調整をするため楽譜だけ持って中庭へ出た。
「あれ? エンツォだ」
一度声を合わせたあとで、リオが空中回廊を見上げてつぶやいた。
私もナツメヤシの葉の間から二階の回廊を仰ぎ見る。
「エンツォが出てきた教室、ボクたちの楽屋だよね?」
「何してるんだろ」
演奏会に出演しないエンツォが楽屋代わりの教室に出入りする理由なんてないはずだ。
私は去年の
不安そうな顔をしているリオに、
「戻ろうか」
と声をかける。心に引っかかることがあっては歌に集中などできない。
階段を登って回廊を通り教室に入ると、
「なんだろ、あれ」
リオが、机の上に置いたままにしていた自分の服を指さした。舞台上ではスカーフと、小さなボタンがたくさん並んだベストを着用しなければならない。だが中庭とはいえ一歩外に出ると陽射しが強くて暑いので、私たちはベストとスカーフを外して教室に置いておき、白いシャツと半ズボンだけで歌っていたのだ。
「手紙?」
リオは自分のベストの上に乗せられた紙を手に取り、折りたたまれたそれを開いた。
「エンツォの字だ」
私たちは頭を寄せ合い、手紙につづられた几帳面な字を目で追った。
『かつて僕の友であったリオネッロ、
君となら同じ思いを分かち合えると期待していたけれど、君も彼らと同じだったね。
僕はもう耐えられない。彼らの視線にさらされていると、自分が醜い化け物になったように感じるんだ。
だが僕は知っている。君たちを呪う自分の心は実際、醜いのだと。
僕はずっと美しいものを愛し、焦がれてきた。
だがこの世に美しいものなどない。人の心は醜い。僕をこんな体にした奴らも、心の腐った寄宿舎の奴らも、僕たちに群がって搾取していく貴族たちも。
僕は信じている。『創世記』にあるようにもう一度、堕落した人間を洪水で流してしまうべきだと。
何度も主に祈った。だが主はどうやら、それをなさらないようだ。
僕はもう待てない。
だから悪魔に願うことにした。ヴェスヴィオ山を噴火させ、この堕落した都をもう一度、すべてを隠す白い灰で覆ってくれるようにと。何もかも綺麗さっぱり消してしまうのが、この街のためなのさ。
リオネッロ、君のためでもあるんだよ。僕は君に同情しているんだから。
君と共に翻訳しようと思っていた写本によれば、火山を噴火させる代償は僕の命ひとつで構わないようだ。実に気前の良い話さ。男としても女としても生きられなくなった僕には、もはやこれ以上命を長らえる理由などないのだから。
勿論、火山噴火で消える魂はすべて悪魔がもらっていくそうだけどね。
君が本番を迎える今日この記念すべき日に、僕は君を祝してこの街を終わらせようと思う。
さらば、ナポリよ。
さらば、
性を奪われた何百もの少年を
翼をもがれ地に堕とされた天使より』
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