17、「ジャンなんとか」を説得するぞ

「私、リオと一緒に音楽院へ行きたいの」


「これは驚いた」


 ジャンはようやく振り返った。眉をわざと八の字にした困り顔で、片頬にひきつった笑みを張りつけている。


「まったく娘の説得など父親の仕事だろうに」


 小声で毒づいてから、


「お嬢さん、リオネッロくんの行く音楽院は男子だけが学ぶところなんですよ」


「知ってる。だから私もリオの服を着ていくの」


「ハハハ、これは困ったな。才能のある少年だけが入学を許されるんです」


 小馬鹿にしたような笑い方に腹の底が煮えくり返るのをこらえて、なんとかお願いする。


「才能があるかどうか、私の声を聞いて判断してください」


「私は忙しいんだ。田舎娘のリサイタルにつきあう暇はない」


 男は慇懃いんぎん無礼な笑みを引っ込め、尊大な態度で言い放った。


 だがリオが一歩、前へ出た。


「オリヴィアと一緒じゃなきゃ僕は音楽院へ行かないよ」


「愚かなことを――」


 男は忌々いまいましそうに舌打ちして工房を振り返ったが、ルイジおじさんが出てくる気配はない。


「リオネッロくん、馬鹿なことを言うもんじゃない。歌手にならなければ君は一生、片端者か〇わものとしてそしりを受ける人生を歩むんだぞ?」


「歌手になったって陰で色々言われるんでしょ。僕の先生マエストロが半人前のくせにって言われてたの知ってるよ」


 リオの言葉に男は一瞬、目をそらした。歌手になっても軽んじられるのは事実だからだろう。だがすぐに気を取り直し、


「歌声で人々を魅了できれば同時に賞賛も得られる。つまらぬ悪口を言われたって、富も名声も君のものだ」


 大げさに両手を広げて説得を続ける。


「こんなつぶれかけた家じゃなくて、大きな街に豪邸を建てられるんだぞ。将来の成功を君は、姉から離れたくないなんていう子供じみたわがままでふいにするのか?」


「オリヴィアは姉じゃない」


 リオはきっぱりと否定した。続けて私も言葉を添える。


「私たち、血はつながってないんです。リオはルイジおじさんの親戚で、私はアンナおばさんの遠縁だから」


「ほう」


 男の口から感嘆の声が漏れた。


「これは面白い。姉弟きょうだいでもないのに一緒にいたいとはどういうことだね?」


 男は下世話な好奇心をむき出しにして中腰になった。両手を膝に置いてリオの瞳をのぞきこむ。


「僕はオリヴィアを愛しているからだ!」


 リオは一切ひるむことなく、私を抱き寄せた。


「私もリオから離れたくないの!」


 リオのこめかみに頬を寄せた私を指さして、男は下卑げびた笑い声を上げた。


「ヒハハハハ!」


 腹を抱えてのけぞる姿に、私たちは抱き合ったまま呆然とする。


「お嬢さん、こりゃ傑作だ! あんたそのガキがもう男じゃないって知らないのかい?」


 私を抱きしめるリオの体が一瞬びくんと跳ねた。私の全身にリオの痛みが走る。


「なんてことを!」


 頭に血がのぼって視界がぐらりと揺れた。


 私はリオの腕からすり抜けると同時に右足を蹴り上げていた。足の甲が男の股間を強打する寸前、


「だめーっ、オリヴィア! 今はおさえて!」


 リオがうしろから私を抱きしめた。


「この人を怒らせちゃだめだよ!」


 リオが耳元で叫ぶのを聞きながら、私は獲物に襲い掛かろうと身構える獣のごとく男をにらみつけた。


「お前の玉もつぶしてやる!」


 男の顔からは笑みが消えていた。どこからか取り出した絹のハンカチで額をぬぐいながら、


「とんでもないじゃじゃ馬だ。リオネッロくんはこれを愛しているって言うのかい?」


「愛してるよ」


 リオは即答した。


「オリヴィアはじゃじゃ馬なんかじゃない。ただ心が強い女性ってだけだ。それも僕を守るために強くなってくれたんだ。本当は聖母様みたいに優しいんだよ」


 私のうしろから淀みない弁舌が流れ出す。リオの愛が私の全身を包み込み、怒りを霧散させてゆく。私は震えながら泣いていた。


「オリヴィア、我慢してくれてありがとう」


 リオは少しだけ背伸びして、私の頬にキスをくれた。


 男の頬にまた詮索せんさく好きな笑みが戻ってきた。


「お嬢さんはリオネッロくんが今後どんな差別に遭っても、隣にいて彼を支えられるのかい?」


「もちろん」


 怒気をはらんだ声で答える私に続けて男は念を押した。


「五体満足な男に心を奪われないって誓えるのか?」


「当たり前でしょ」


 男はわずかに逡巡しゅんじゅんしてから、最後の問いを投げかけた。


「男の幸せを奪われたリオネッロくんと共に君は自分の、普通の女の幸せもかなぐり捨てると言うのかい?」


「くだらない。女の幸せとか馬鹿みたい」


 私はリオと二人で華やかな舞台に立つんだ。普通の幸せなんて興味はない。


「仕方ありませんね。確かにあなたの恐ろしく負けん気の強い性格は歌手に向いています」


 私のわがままに根負こんまけしたのか、男はしぶしぶといった様子でため息をついた。


「歌を聞いてあげるから少し心を落ち着けなさい。泣いていたら歌えない」


 男は肩をすくめると、くるりと背を向け工房の方へ歩いて行った。入り口からルイジおじさんに声をかける。おじさんが戸口に現れると、二人は工房の中へ入って行った。


 一体二人は何を話しているんだろう? 私のことだろうか?


 リオに話しかけようとしたとき、家の中から恐ろしげな声が聞こえてきた。


「あたしのお金……、もう誰にも奪わせない――ギャッ」


 アンナが床に散らばった聖なるメダルに指を伸ばして、のたうち回っている様子が目に浮かんで、私はぞっとした。


 だがリオはクスっと笑って、


「豚さんは人間の言葉をしゃべったらいけないよね」


 無邪気な冗談を言った。  


 しばらくするとジャンなんとかは、ルイジおじさんと連れ立って工房から出てきた。手入れされていない中庭を横切りながら、玄関前に立つ私たちに向かって手を叩く。


「それでは聴かせてもらいましょうか。自慢の歌声を」




─ * ─




オリヴィアは歌声でジャンバッティスタを納得させられるのか!?

次回はオリヴィアがソロで歌うシーンです。

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