45、エンツォの身に起きた異変
「じゃあね、オリヴィエーロ。僕たちソプラノの列に行くね」
リオが私に手を振り、ぽっちゃりくんと共に行ってしまった。リオはエンツォと会わなくなってから、持ち前の明るさでたくさん友達を作っているようだ。私は教師と話すのは得意でも、同年代の男の子たちが集まっているといまいち何を話してよいか分からない。
アルトの子たちの列に加わると、
「小さい子は前列に並んで」
と声をかけられた。振り返るとややふっくらめのお兄さんが優しいまなざしで見下ろしている。ぽっちゃりくん二号だ、と思いながら、
「えっと、ボク、そんなに背小さくないし」
小声で答えた。
「ハハハ、ごめんごめん、身長じゃなくて年齢のこと」
「え、へたっぴが前の列でいいんですか?」
「へたっぴっていうか、まだ歌い慣れていない子が前に並ぶと、うしろから歌える人の声が聞こえるから安心して歌えるでしょ?」
後列にはむしろうまい人が並ぶのか。
「君、オリヴィエーロくんだよね?」
私が無言でうなずくと、
「新しい子が来たから話しかけたいなぁと思ってたんだけど、リオネッロくんだっけ、いつもあの子と一緒にいるじゃん」
ぽっちゃりくん二号は一号より年上なのに、よくしゃべるのは変わらないようだ。
「誰かが君に話しかけるとリオネッロくんが絶対怖い顔になるから、みんなで話しかけにくいよねって話してたんだ」
なんだと!? 友達ができないのはリオのせいだった!?
ぽっちゃりくん二号の隣に立った先輩も、
「そうそう。パートで別れた今がチャンスだよな」
「リオネッロくんは俺の弟と話し込んでるもんね」
「弟!?」
私は思わず声を上げた。ソプラノの列を見ると、リオはぽっちゃりくん一号にひたすら話しかけられている。
「あ、オリヴィエーロくん知らなかったんだ。俺は三男、あれは四男。去年ソプラノの次男が音楽院を卒業して、今はヴェネツィア共和国で歌ってるよ」
ちょっと待て。次男がソプラノ、三男がアルト、四男がソプラノってことは兄弟三人とも大事なものを取っちゃったってこと!?
「あれ? じゃあ長男は――」
「ハハハ、さすがに父も一人は跡取りを残さないといけないからね。長男の兄貴だけは普通の男として地元にいるよ」
あまりに私の知っている常識とかけ離れていてめまいがする。友人らしき先輩はぽっちゃり三男の肩に腕を回し、
「親父さん、大変なオペラ狂なんだろ?」
「そうそう。父自身、歌うのも演じるのも大好きで、謝肉祭シーズンには地元の劇団で――」
「君たち、いつまでしゃべってるんですか?」
ドゥランテ先生の冷え切った声が飛んできて、私たちは慌ててパイプオルガンのほうを振り返った。先生は私たちの意識が自分に向いたのを確認すると、オルガンに背を向けて座ったまま、ぐるりと皆を見回した。
「よいですか、教室と違ってここでは私と皆さんは互いに目を合わせられません」
先生に宣言されて初めて気が付いた。音楽院で練習していたときは、先生の座るポジティフオルガンをみんなで囲んでいたのだ。
「それで内陣の背面に二か所、鏡が取り付けられています」
先生が左右を指さした。あの鏡を見て歌えってことか! よく見るとオルガンの方も、譜面台の脇に小さな鏡がついている。先生自身はあの鏡で私たちの挙動を確認するようだ。先生の頭のうしろに目がついているみたいでいやだな。
「ですが今回は初めて本番を迎える生徒もいますので、合図を出してもらうことにしました」
ドゥランテ先生はテノールの方を見た。
「エンツォ、頼みましたよ」
鏡から近い場所に、いつも以上に顔色の悪いエンツォが立っていた。彼は黙ったまま、だがしっかりとうなずいた。
エンツォは先生の信頼を得ているらしい。カッファレッリはもっと大きな教会で歌うから今リハーサルに参加していないが、もし彼がいたとしてもやはり几帳面なエンツォが指名されたんじゃないだろうか? 高い声が出なくなってもエンツォには彼しかできないことがあるのに、なぜあんな卑屈になるんだろう。
それから先生は
「そちらも準備はいいですか?」
と大きな声で尋ねた。私も見上げると、中二階の
「準備できていますよ。始めましょう」
常設聖歌隊の一番前に立ったおじさんが高い声で返事したのを合図に、先生のオルガンが響き渡った。
まず音楽院から派遣されたテノールがソロで歌い出す。
「彼は不正を行わず、その言葉に偽りはなかったのに――」
テノールの上に、名前を聞きそびれたぽっちゃり三男さんが同じテキストでアルトソロを重ねる。やがてソプラノとバスが加わると、異なる色をした四本の糸が教会の高い天井へと登っていくようだ。糸は絡み合い、綾なして、一瞬ごとに響きの異なる花を咲かせてゆく。
音楽院のリハーサルでも聴いたはずなのに、教会の荘厳な響きが加わると、心の奥底に訴えかけてくる。だがソリストたちの歌声に身をゆだねる間もなく、私たち合唱の出番がやってきた。
ドゥランテ先生が映っている鏡を見るより、腕を振ってリズムを示してくれるエンツォの方が分かりやすいので、私は彼を凝視したまま歌い出すタイミングを待った。
「彼が自らの命を
バスパートの学生が常設聖歌隊のおじさんたちと声を合わせて歌い出す。エンツォがすぐに私たちに合図を送った。私たちアルトが歌い出し、エンツォたちテノールが加わる。
そしてリオたちソプラノパートが印象的な高音を響かせたとき、異変は起こった。
青白い顔で両手を振って合図を送っていたエンツォが、立ちくらみを起こしたのだ。
隣に立つ青年が驚いてエンツォを支える。エンツォは歯を食いしばりながら指揮を続ける。音楽は続いてゆく。
やがて私たちアルトパートが休みに入ると、エンツォは幾分か調子を取り戻したようだ。
だが彼の回復は束の間でしかなかった。また四部合唱となると頭を抱えだした。頭痛がするのだろうか? まるでアンナおばさんのようだ。
そのとき私はハッとした。私とリオが声をそろえて歌った後で、アンナおばさんの悪魔が去ったことを思い出したのだ。
エンツォは四声になると具合が悪くなるのではなく、リオがいるソプラノパートと私がいるアルトパートが同時に歌うと頭を押さえているのでは?
いや、ただの思い過ごしかもしれない。だって私たちは音楽院でも歌っていたのだから。しかもデュエットと合唱ではずいぶん状況が違う。愛するリオと二人だけで声をそろえるときのような甘い喜びは、合唱においては感じられないのだから。
だが今リハーサルとはいえ、夢が叶って教会で聖歌を歌っている私は、別の種類の高揚を感じている――
胸騒ぎを抑えながらも私はなんとか最後まで歌いきった。
曲が終わると生徒たちはざわめき出した。エンツォはテノールパートを歌いながら指揮をこなしていたから、ほとんど全員の視線を集めていたのだ。
ドゥランテ先生がオルガンの椅子の上でくるりと回転し、エンツォへ向き直った。
「どうしましたか、エンツォ。どこか悪いのですか?」
─ * ─
エンツォの運命や如何に!?
次回『下手くそはクビ』。ひでぇサブタイだ😱
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