44、悪魔が求める代償

「悪魔召喚の書に書いてあるラテン語の意味が分かっちゃった」


 私は一瞬、リオが何を言っているのか分からなかった。だが、昨日の夕方もリオがエンツォに会いに図書室へ行っていたことを思い出した。それと同時に、エンツォは昔の錬金術師の写本を翻訳しているから、授業中にラテン語訳をすらすら答えられたのかと合点がいった。


「人の少ないとこ行こう」


 私はリオの背中を押して、授業終わりの生徒たちがひしめく廊下から空中回廊に出た。今の季節、わざわざ冷たい風にあたろうと外へ出る者はいない。


 リオは思いつめたまなざしのまま大理石の手すりに腕を乗せたが、冷たっ、とつぶやいて身を引いた。


「僕は昨日エンツォから、写本に描かれた魔方陣を書き写すように言われたんだ。魔方陣の下にはラテン語で説明書きっぽいのが載ってたんだけど――」


 エンツォは詳しく内容を教えてくれることはなかったと言う。だが口元にかすかな冷笑を浮かべ、


『望みを叶えるための大切な儀式さ。君が僕を信頼する気になったら教えてあげられるのに』


 真夜中の空より更に暗い瞳でささやいたそうだ。


「そのラテン語の文章が、合唱の歌詞に出てきた単語とかなり共通してたんだ」


「で、なんて書いてあったの?」


 私は待ち切れずに尋ねた。リオは中庭のどこか一点を見下ろしたまま、唇だけを動かした。


「命を代償として捧げるなら」


「どういう意味?」


 尋ねてからすぐに悟った。悪魔が望みを叶えてくれるのは、代償として命を捧げたときなのだと。


「リオ、危険だよ!」


 私はリオの腕を揺さぶった。


「エンツォは悪魔に願いを叶えてもらうために、リオの命を捧げるかも知れないんだよ!?」


「前後の単語が分からないから、もしかしたら人間以外の命って可能性もあるよ」


 リオは意外なほど冷静だった。


「写本には動物の血を捧げる儀式の挿絵も載ってたし」


「でも、もうエンツォのところには行かないで。リオ、もっと自分を大事にしてよ。エンツォを救いたいなんて意味分かんない」


 リオを説得しようと言葉を重ねるうち、涙がこみあげてきた。不安が冷たい炎をくすぶらせ、頭の芯がじりじりと焼けるようだ。


「私、エンツォがリオの命を悪魔に捧げたりしたら、絶対この手でエンツォを殺してやるんだから!」


「オリヴィア」


 中庭から視線をはずして、リオは驚いたように私を見つめた。


「リオはそんなにエンツォが好き?」


 心にもない言葉が口をついて出て行く。


「ごめん、オリヴィア。僕が悪かった!」


 リオは私を抱きしめた。いつの間にかリオの身長は伸びていて、私とほとんど変わらなくなっていた。


「オリヴィア、僕が間違っていたんだ。あんな男に費やす時間があるなら、君と過ごすべきだった」


 リオは何度も何度も私の髪を撫でた。中庭から木枯らしが吹き上がってきて、私はぶるっと体を震わせた。


「寒いね、オリヴィア。中に入る?」


 私は黙ったまま首を振った。校内に戻ったらリオと抱き合えない。もちろん回廊で抱き合っていても、中庭に面した窓からは丸見えだろうけれど。


「これからは僕、全ての時間をオリヴィアに捧げるよ」


 いや、勉強してもらわないと困る――少し冷静になると姉のような思考が戻ってきた。


「じゃあ図書室でも談話室でもいいから、一緒に勉強しようね」


 恋人らしく誘うと、


「うん、そうしよう。さっそく今日から始めよう」


 リオはあっさりとうなずいた。義弟が単純でよかったと思っていたら、


「やっぱりかわいいなあ、僕のオリヴィアは」


 とほくそ笑んでいる。やっぱりリオは義弟じゃなくて恋人かも、と思い直したところで、鐘の音が私たちを次の授業に駆り立てた。


「次、リズム読みの練習だよね。どこの教室だっけ」


 仕方なく回廊を去ろうとする私のうしろで、リオが両手を頬に当てて青ざめた顔をしている。


「リズム読み、忘れてた! またなんにも勉強してない!」


「私は昨日リオがエンツォと図書室にこもってる間、前回の授業をしっかり復習したけどね」


「ああもう先生に当てられないよう祈るしかないな。頼みますよ聖母様、守護天使様!」


 神頼みを始めるリオを見ながら、やっぱりまだ半分くらい弟なのよね、と私は心の中でつぶやいた。


 しかしリオの願いもむなしく、石盤に難しいリズムの楽譜を書いた先生は、教室を見回すと、


「じゃあリオネッロ、読んでくれるかな?」


 と胸の前で石盤を掲げて見せた。


「えぇっとぉ……」


「まずこの曲は何拍子だろう?」


 若い先生は親切に、楽譜の頭の部分を指で示してくれる。基礎授業は作曲科の学生が受け持っているから、ポルポラ先生のような威厳がない分、気持ちが楽だ。


「あっ、四分の三拍子です」


 楽曲には様々な拍子があり、複雑な記譜法によって音の長さが分かるようになっている。リズム読みの授業では音高に関係なく、音符の長さだけを歌えばよい。簡単かと思いきやそんなことはなく、私たちは音高を読めるようになる方が早かった。


 商人の子供たちは計算ができるから音価の理解も早いようだが、田舎の農村から出てきた私とリオは四苦八苦していた。まさか音楽に算数が必要だなんて知らなかった。


 私は入学するまで、音楽院では毎日歌っていればよいのだと思っていた。だが実際は、音楽理論や対位法、作曲や編曲に必要な知識まで身につけねばならず、勉強漬けになった。


 ランダムに生徒を指名していくと言う心臓に悪い授業が終わると、疲れ果てた私とリオのところへ先生がやってきた。


「オリヴィエーロとリオネッロはまだチェンバロの稽古を始めていなかったよね?」


 授業に精神力を吸い取られた私とリオが声もなくうなずくと、


「やっぱりまだなんだね。レーオ先生が僕の見ている子たちのグループに二人を加えるようにって」


 にこやかに告げた。また科目数が増えるのかと思うとめまいがする。


 毎日勉強に追われているうちに、ついに私が初めて教会で歌う日がやってきた。といってもリハーサルである。今まで学校の大教室で行っていた全体練習を、本番の場所に移すだけだ。


聖歌隊席カントリアに入れるのかな?」


 音楽院から教会までの道を歩きながら、私は隣のリオに話しかけた。歌う時はソプラノとアルトで離れてしまうが、移動中は一緒にいられるのだ。だがリオが口を開きかけた瞬間、


聖歌隊席カントリアでは歌わないんだって」


 前を行くぽっちゃりくんが振り返った。


「常設聖歌隊の人たちだけでいっぱいになっちゃうらしいよ。僕たちは内陣をぐるっと囲むみたいに周歩廊に並んで歌うんだって。ドゥランテ先生が座るパイプオルガンの椅子が、アプスの裏にあるからってのも理由みたい」


 さすが情報通、先生しか知らないような話を知っている。


 教会に到着すると、銀色に輝くオルガンのパイプが正面に立ち並ぶ壮麗な光景に目を奪われた。神父様に案内されて内陣を取り囲む周歩廊に足を踏み入れる。


 こんな神聖な場所で歌えるなんて、ときめきが止まらない。でもきっと神様はすべてお見通しなんだろうな。私が自分の姿を偽っていること、怒られたらどうしよう?


 期待と恐怖がないまぜになった私は、合唱にエンツォがいることなどすっかり忘れていた。




─ * ─




悪魔と関わっているエンツォ、教会で神聖な合唱に加われるのか?

次回『エンツォの身に起きた異変』です。

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