43、ドゥランテ先生による合唱の授業

「ねえオリヴィア、エンツォも僕の友情があれば嫉妬心から抜け出せるかな?」


 私はこれ見よがしに溜め息をついた。


「リオは本当に優しいね。他人を救うことをあきらめないなんて」


「オリヴィア、怒ってる?」


 リオが眉尻を下げて、指先で私の頬をつつく。


「怒ってない。私が好きになったのは、そういう馬鹿みたいに優しいリオだから」


 でも危ういとは思っている。


「馬鹿みたいって……」


 不満そうな彼に、


「だってリオ。本気で悪魔を呼び出そうとするなんて、もうエンツォは心に悪魔が住んでるかも知れないよ?」


「そしたら救えないか」


 リオはまるで自分が傷を受けたように痛ましい表情をした。


 私が厳しい言葉で禁止すれば、リオは引き下がるかもしれない。でも彼の内面は決して弱くないから、私に隠れてエンツォと会うに違いない。私の知らないところでリオが危険を冒すのは耐えられない。


「じゃあリオ、エンツォに会う前には必ず私に場所と時間を伝えること。帰ってきたら何を話したか報告すること。いい?」


「オリヴィア、お姉ちゃんを通り越してお母さんだね」


「くっ」


 リオが心配ばかりかけるからでしょ!? と言いたいのを私は必死でこらえた。ここでへそを曲げられたら困る。


「私は大切なリオを失いたくないの」


「分かったよ、オリヴィア。ちゃんと約束する。僕を愛してるから心配してくれてるんだもんね」


 リオは甘いまなざしのまま親指でそっと私の唇をなぞった。私はリオとロマンティックな雰囲気を楽しみたかったが、睡魔が襲ってきてあらがえなかった。リオと抱きしめ合う安心感の中、眠りに落ちた。




 翌日からもカッファレッリの声楽指導は続いた。淡々と解決法を示してくれたポルポラ先生とは違って、カッファレッリは私たちの歌が改善されないと次第にいら立ってくるから困るのだが、うまくいったときはまるでパズルのピースがはまったように嬉しそうな顔をする。


 一緒に解決策を探しているみたいで、私とリオも稽古にのめりこんでいった。


 しかし午前中に歌って体力と集中力を使うと、午後の座学は眠くなる。朝は声が出づらいこともあり、順番を逆にしたかったが、午後からは頻繁にカッファレッリのリハーサルが入るのだ。


「冬は歌手にとって稼ぎ時だから仕方ねえな」


 カッファレッリはこぼしていた。十二月下旬には降誕祭ナターレ、二月にはオペラシーズンとなる謝肉祭、そして早春には復活祭パスクアがあるからだそう。私の住んでいた農村でも旅芸人の一座がやって来たのは、農閑期の冬だったことを思い出す。


「カッファレッリのソロが聴けるチャンス!?」


 私は目を輝かせたが、


「俺様は聖歌隊の一員として合唱を歌うだけだな。普段は資金力で劇場に負ける教会も、この時期ばっかりは大盤振る舞いするから学生じゃなくてプロを雇うんだよ」


「そうなんだ……」


 私は少しがっかりして、


「ナポリっていくつも教会があるから、一つくらいって思ったんだけど」


「一人の歌手がハシゴして歌うからなあ」


 びっくりだ。降誕祭ナターレのミサといえば夜遅く始まって深夜まで続くものなのに、歌手の都合に合わせて午後の早い時間からミサを行う教会まであると言う。プロ歌手にとってはまさに稼ぎ時なのだろう。


 いつかは私とリオも、なんて思っていたら、小さな教会の合唱に参加するようにと声がかかった。少人数の地元民で構成された常設聖歌隊に、音楽院の子供たちが加わって花を添えるそうだ。


 私とリオは合唱曲の練習のため、宗教音楽の作曲と合唱指揮を担当しているドゥランテ先生の授業に出ることとなった。


 短期間で長いラテン語の聖歌を仕上げられるのか不安だったが、ドゥランテ先生が詩句を読み上げてくれるし、ラテン語も楽譜も読める子たちが率先して歌ってくれるので耳から覚えられる。


「このテキストはイザヤ書五十三章から取られています。さて、イザヤ書のオリジナルは何語で書かれているかな?」


 表情に乏しいドゥランテ先生がポジティフオルガンを囲んで立った生徒たちを見回すと、ほとんど全員が下を向く。


「エンツォ、分かるかな?」


 今回テノールで参加しているエンツォは、どうやら先生と目を合わせていたらしい。


「イザヤ書は旧約聖書なのでヘブライ語です」


「正しい。ただ旧約聖書は一部、アラム語の部分もありますが。とにかくこのラテン語のテキストは、ヘブライ語原典から翻訳されたものとなります」


 込み入った話が始まった途端、ソプラノの列に立っているリオが船をこぎ出す。隣のぽっちゃりくんに優しく腕をたたかれ、目をこすっている。


「では合唱パートの最初のフレーズを翻訳できる人はいますか?」


 オルガンの前に座ったドゥランテ先生が質問すると、また目をそらす生徒たちの中、すっと長い手が上がった。


「エンツォ、君はよく勉強していますね。訳してみなさい」


「『彼が自らの命をとがの代償として捧げるなら』となります」


 エンツォがすらすらと訳した途端、それまで下を向いていたリオが勢いよく顔を上げた。目を丸くするリオに、隣のぽっちゃりくんも驚いている。私もリオの示した反応に全く心当たりがない。


「『彼』とは誰を差しているか分かる人」


 授業は淡々と進んでいく。


「イエス様のことだよね?」


 手を上げると同時にぽっちゃりくんが答えた。


「旧約だろ? イエス様出てくるか?」


 別の生徒がぽっちゃりくんに意見する。先生は正解とも不正解とも言わずに説明を始めた。


「旧約聖書が成立した時点では、まだイエス様はお生まれになっていません。ただイザヤ書は救世主メシアの訪れを預言しています。ですので結果的には、『彼』とはイエス様のことになります」


 なるほど私たちが預言の書を歌ったあとで、イエス様がお生まれになったとされる深夜の時間帯を迎えるのか。救い主の訪れという神秘を追体験できる構成になっているのだ。自分がその秀逸な構成の一部としてミサに加われるなんて夢のようだ。


「さてみんな、私の楽譜が見えるように近づいてくれ。全パートを見てほしい」


 ドゥランテ先生の呼びかけで、生徒たちは先生のうしろに集まって楽譜をのぞきこむ。


「ここは何度になっているかな?」


 先生が楽譜を指さすと、


「えーっと、五、六、七度!」


 ぽっちゃりくんの高い声が聞こえた。


「惜しいですね」


「減七じゃないか?」


 また別の子が提案した。


「その通り。とがという単語の苦しみを表すために、不協和音である減七が当てられています。では意味を理解したところで最初のフレーズを――」


 先生が言いかけたところで時を告げる鐘が鳴った。生徒たちは急に集中力がなくなる。


「仕方ありませんね。続きはまた明日やりましょう」


 生徒たちが騒がしくなると、リオが私のところに駆け寄ってきた。


「オリヴィエーロ、大変なことに気付いちゃった」


「どうしたの?」


 リオは私の腕を引っ張ると教室のすみに連れていき、耳打ちした。


「悪魔召喚の書に書いてあるラテン語の意味が分かったんだ」




─ * ─




リオは何を知ったのか?

次回『悪魔が求める代償』です。

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