46、下手くそはクビ

「どうしましたか、エンツォ。どこか悪いのですか?」


「いえ、具合が悪いはずはないのですが――」


 血の気のない頬に冷や汗を流しながら、エンツォは愕然としている。


「エンツォ、こんなことを言うのは心苦しいのですが、本番で倒れては演奏全体に影響が出ます。今回は参加を見送りなさい」


「そんなっ」


 エンツォの男性にしては細すぎる声が、震えた。すらりとした白い手を、すがるようにドゥランテ先生へと伸ばす。


 だが先生の無情な言葉は止まらなかった。


「君が倒れそうになるたび皆が動揺して演奏が乱れることに、君なら気付いているでしょう?」


 エンツォは返す言葉もなく、唇を噛んで冷たい石の床をにらんだ。うなだれた首筋に色素の薄い髪が、色あせた絹糸のように張り付いている。


 一同が静まり返る中、一人の生徒が無作法な声で緊張の糸を断ち切った。


「ま、エンツォは降りた方がいいと、おいらも思うぜ」


 私は周囲の生徒たちと同時に身を乗り出して声の主を確認した。名前も知らぬ上級生だが、立っている位置からテノールパートだろうことは分かる。


 男は意地の悪い笑みを浮かべたまま、


「エンツォの声、テノールじゃないもんな。響きがおかしいのよ。まがい物は混ざんないで欲しいわけよ、な」


 隣の生徒に相づちを求めた。


 エンツォの歌声を聴いたことのない私でも、彼の話し声が変声後のテノールと異なることは知っている。だがあまりにひどい。


「ガスパーレ」


 ドゥランテ先生の低い声が響いた。性格の悪いテノールはガスパーレという名のようだ。


「それはわざわざ今ここで、全員の前で言うことかな?」


「お言葉ですが先生、変に気を遣って事実を隠蔽するのはプロ意識に反するのでは?」


「ふむ。では私も君の考え方に従いましょうか。あとで個人的に伝えようと思っていたのですが、ここで正直に打ち明けよう」


 いつもあまり感情のこもらないドゥランテ先生の声が、ひょうのように冷たく鋭い響きを帯びた。


「君のピッチはかなり怪しい。特にクレッシェンドしたときは必ずシャープする。何度か指摘しましたが、全く直っていませんね。君も今回の本番からは外れてもらいましょう」


「えっ、なんでおいらが!? もっと歌えねえチビどもが出られるのに!?」


 私は目をそらした。それにしてもテノールパートから時々聞こえてくる、調子っぱずれに歌い上げる馬鹿でかい声の持ち主があいつだったとは。


「入ったばかりの子たちはまだ声が育っておらず、声量がないから害になりません。それに自信もないから間違えそうになったらすぐ消えますしね」


 耳が痛い。ソプラノパートにつられそうになるたび、限りなくピアニッシモにしていたのがバレていたとは。


 ドゥランテ先生は常設聖歌隊を見上げ、それから聖歌隊席カントリアの下で心配そうな顔をして事の成り行きを見守っている神父様に目をやった。


「ご安心ください。テノールパートは音楽院の卒業生に声をかけて補充します。私の教え子ですから技術も声の美しさも問題ありません」


 その言葉に神父様も常設聖歌隊のリーダーらしきおじさんも安堵した顔を見せたが、私たち学生の緊張はほぐれない。同時に二人もクビになったのだ。下手くそだったら退場させられるなんて、学生のうちから一切気を抜けない厳しい世界だと思い知って、身の引き締まる思いだ。


 ドゥランテ先生はいつもの穏やかだが人を寄せ付けない口調に戻って、改善点を指摘し始めた。


「まずソプラノパートですが、もっと旋律を歌ってください。あなたたちは普段ソリストとして鍛錬を積んでいるのでしょう? 一人で歌うときも、そんな平坦な歌い方をするのですか?」


 厳しいなあ、まあソプラノパートはメロディだしな、などと他人事ひとごとのように構えていたら、


「次にアルトパート」


 私たちに矛先が向いた。


「もっと自信を持って歌ってください。ところどころ聞こえませんよ。スピード感のある息に乗せて、声をもっと前に飛ばすのです」


 分かったふりをしてコクコクうなずいているうちに、先生はテノールパートの方を向いた。


「テノールの皆さん、もっと優雅にクレッシェンドできませんか? 腹筋や背筋を固めて歌わないでください。怒りのアリアを歌っているんじゃないんですよ」


 優雅なクレッシェンドって表現の話かと思ったけれど、筋肉の使い方が関わってくるってこと? 疑問に思っているうちに、先生は次の指導に移っている。


「バスパート、時々リズムに遅れていますよ。あなたたちだけ別の曲を歌わないでください。自分のパートだけ聴くのではなく、ほかのパートに耳を傾けるのですよ」


 全員等しくコテンパンにされた。私たちが気まずい思いをしている間、常設聖歌隊のほうでもリーダーらしきおじさんが演奏を振り返り、意見を述べているようだ。


「では三曲目から最後まで通しましょう」


 ドゥランテ先生の指示のもと、演奏は再開した。歌っている最中に一般の人が教会に入ってくる。私たちがリハーサルをしているからといって、教会への出入りを制限しているわけではないのだ。


 先生にたくさん注意を受けたせいで、自分たちの未熟な演奏を聴かせるのが恥ずかしくなる。内陣のうしろに隠れたい気分だ。


 だが曲が終わると参拝客の皆さんが拍手をしてくれた。ぱらぱらと小雨が降る程度の拍手だが、途端に喜びが湧き上がってきた。私たちの歌を聞いてくれる人がいる。きっと本番は会衆席が人で埋め尽くされるのだろう。早く大勢の前で歌いたい!




─ * ─




第二幕を最後までお読みいただきありがとうございます。

次回より第三幕となります。

★やレビューで応援してくださった心優しい皆さま、本当にありがとうございます!


次回『エンツォ、本番前に怪しい行動を取る』です。

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