第三幕、歌手オリヴィエーロの躍進Ⅰ

47、エンツォ、本番前に怪しい行動を取る

 本番を前にして、私は自分の体調に気を配るようになった。毎日歌い、学び、寄宿舎に帰ってからも集団行動で心の休まるときがない。自室に引っ込んでからは別の意味で胸が高鳴りっぱなし。せめてしっかり睡眠を取って、喉の調子を保たなければならない。


 リオがエンツォと会わなくなって、私はすっかり彼のことなど忘れていた。本番前だというのにチェンバロの授業も始まって、忙しい日々に追われていたのだ。




 ついに教会で歌う日がやって来た。夕方、私たち音楽院の学生は出番になったらすぐ周歩廊に出られるよう、前方の列に陣取ってミサの始まりを待っていた。振り返るとすでに半分以上の席が埋まっている。リハーサルのたびに寒い思いをさせられた教会が、今は人いきれであたたかい。


 こんなたくさんの人に聴いてもらえるなんて、と喜びに打ち震えていたら、


「オリヴィエーロ!」


 愛らしい声が私を呼んだ。


「どうしたの、リオ」


 振り返るとリオとぽっちゃりくんが、息を切らせて駆け寄ってきた。


「オリヴィエーロ、俺の兄貴知らない?」


 ぽっちゃりくんが手の甲で額の汗をぬぐいながら尋ねた。


「サンドロさんならさっきドゥランテ先生に呼ばれて行ったよ。ソリストだけ集められてるみたい」


 答えながらぽっちゃりくんの顔を見上げた私は、彼が首元にスカーフを巻いていないことに気が付いた。


「あれ?」


 私が首元に手をやり指摘しようとすると、


「そうなんだ」


 リオがぽっちゃりくんと困ったように顔を見合わせながらうなずいた。


「荷物置き場に忘れてきちゃったんだって」


 教会敷地内に据えられた物置のようなところに、私たちは上着や持ち物を置くよう指示されたのだ。


「教会まで歩いてたら暑くてさ、はずして上着のポケットに入れたまま忘れちゃって」


 ぽっちゃりくんの言葉に、むしろ寒いでしょ、と驚いたが、彼と私では体型が違うから体感温度がまるで異なるのだろう。


「今リオと一緒に取りに行ったんだけど、場所が分からなくて戻ってきたんだ」


 それで兄を頼ってアルトパートの場所までやってきたらしい。


「ボク多分覚えてるよ」


 私は立ち上がった。物置横にトイレがあったから場所はしっかり把握している。どうも私は男どもよりトイレが近いらしいので、一人で急いで行って戻れるよう道順を頭に叩き込んでおいたのだ。


「日が暮れたら分からなくなっちゃってさ」


 側廊を並んで歩きながら、ぽっちゃりくんが言い訳する。


 裏口から小さな中庭に出ると、教会内のざわめきがまるで夢だったかのように遠のいて、冷たい月明かりが私たちを包んだ。小さく切り取られた夜空を仰げば、ガラスの破片を散りばめたように星々がまたたいている。


「こっちだよ」


 私は庭を横切って物置に近づいた。重い木の扉を押すと、ランプをつけたままの室内に思いがけぬ人物がいた。


「エンツォ?」


 リオが驚いてその名を呼ぶ。


「聴きに来てくれたの!?」


 素直なリオは嬉しそうな声を上げたが、私はエンツォの行動に違和感を覚えた。私たちの歌を聴きに来たなら楽屋に入る必要はないはずだ。


 エンツォは何か紙片のようなものをポケットに押し込んでから、作り笑いを浮かべて答えた。


「ああ、そうだよ。楽しみにしている。もうじき始まるんだろう?」


「うん。もう中で待った方がいいよ」


 親切に教えるリオに、


「みたいだな」


 エンツォはうなずいて、扉脇に立った私たちの方へ歩いてきた。横をすり抜けるときリオを見下ろした瞳が、獲物を狙う蛇のように狡猾な光を帯びた気がして、背筋があわ立った。


 エンツォが物置から出ていくと入れ違いにぽっちゃりくんが中に駆け込み、壁にかけてあったコートに走り寄った。ポケットからスカーフを引っ張り出し、


「あった! よかった。戻ろう」


 首に結びながらポテポテと走ってきた。


 中庭に出ると、ぽっちゃりくんは注意深く周囲を見回してから口を開いた。


「あいつ、手紙みたいなの持ってたよね。誰かの持ち物から盗んだのかな」


 彼にしては珍しく小声で話す。


「えっ」


 リオは全く気付いていなかったようで、息を呑んだ。


「違うような気がする」


 私は断言した。扉を開けたとき、エンツォは皆の上着や鞄を見回していた。何かを探すように――


「誰かの持ち物の中に忍ばせようとしていたんじゃないかな。分からないけど」


「じゃあ恋文!?」


 ぽっちゃりくんが予想だにしない推理を披露した。男しかいない学園でなぜその発想に至る!?


「いくらなんでもそんな、教会の敷地内で大胆すぎるよ!」


 リオは深刻そうな声を出してはいるが、おそらく楽しんでいる。あきれ顔の私と目が合うと、


「相手がオリヴィエーロだったらどうしよう!」


 非常に危なっかしいことを口に出した。私は少年同士がするようにリオの肩に腕を回して抱き寄せ、口を封じた。


「オリヴィエーロ、美人だからあり得るかもね」


 ぽっちゃりくんがまじまじと私を見る。


「みんな、男にしておくのは勿体ないって言ってるし」


 これは大変だ。


「やめてくれ」


 私は必死で男っぽく振舞った。


 リオとぽっちゃりくんと並んで足早に教会内へ戻りながら、私はエンツォのことを考えていた。リハーサルで私とリオが同時に歌っても、彼の中にいるかも知れない悪魔に変化はなかったのだろうか? それともさっきの怪しい行動は悪魔と無関係なのだろうか?




─ * ─




次回『初めての本番はクリスマスミサ』

うまくいくかな? 初めて経験する本番、オリヴィアは何を感じるのか?

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