48、初めての本番はクリスマスミサ
私はときめきを胸に抱きながら教会を見回した。音楽と芸術の都ナポリにおいては小さな教会だと聞いていたが、磨き上げられた幾何学模様の床にはロウソクの灯りが反射し、立ち並ぶ大理石柱の間には聖書の場面を描いた緻密なレリーフが見え隠れしている。こんな美しい場所に私の声が響き、大勢の人々に聴いてもらえるなんて、想像しただけで喜びがあふれてくる。
神父様が姿を現したので、私はきょろきょろするのをやめた。私たちが歌う前には、通常のミサのように神父様のお話があるのだ。
神父様の紹介を待って、私たちは静かに立ち上がり定位置についた。いつもの仲間たちが、いつもとは違う表情をしているのが、くすぐったいような不思議な気分だ。
リハーサルで何度も立った定位置につく。姿勢を正して前を見ると、たくさんの目がこちらを向いていてますます緊張が高まった。
曲が始まってもまずはソリストが歌うから、余計にお客さんたちが気になってしまう!
と思っているうちに合唱の加わるタイミングが近づいてくる。ドゥランテ先生の連れてきた卒業生が安定した指揮を披露してくれるおかげで、私たちは落ち着いて歌い始められる。
練習の通り正確に、一曲ずつ先生の指示を思い出して丁寧に歌う。
四部合唱の分厚い音の
あぁ、でもお客さんたちが私を見ている! いや、私を見ているわけではないと頭では分かっている。音の出どころに視線が行くのは人間の自然な反応だし、その発信源が人間なら首から上を見るのは当然のこと。私だってさっきまで神父様の顔を見るとでもなく眺めていた。
それでも無数の視線をそそがれるのが、こんなにゾクゾクするなんて。いや、この緊張はもしや快感なのでは!? だんだん楽しくなってきたぞ。気持ちが盛り上がってすっかり気分よくなったところで、音楽は結末を迎えた。
曲が終わった瞬間、ふと現実が戻ってくる。一瞬の静寂ののち拍手が沸き起こった。普通、ミサで聖歌隊が歌っても拍手はしないから、教会の高い天井に砂粒がはじけるように拍手の音がこだまするのは、不思議な気分だ。
大成功とまでは行かないまでも大きなミスもなく、練習通り歌えたのではないだろうか?
非日常感あふれる興奮に包まれたまま席へ戻るとミサが再開した。
地元の教会とは少し違うけれど、やはり
隣に座っていたサンドロさんが、そっと肩に手を回してくれた。ずっしりと重い彼の腕のあたたかさに今は救われる。太い指があやすようにゆっくりと私の二の腕をたたいてくれる。流行り病で帰らぬ人となった一番上の兄さんみたいだ。兄さんは普通体型だったけど。
サンドロさんのもっちりとした白い手が、私を過去から連れ戻してくれた。ちらりと見上げた横顔には、いつもの穏やかな微笑が浮かんでいる。
私は落ち着きを取り戻し、ミサの途中で歌う常設聖歌隊の声に耳を傾けられるようになった。
ソロを歌っているのはリーダーらしきおじさんだ。安定したソプラノでびっくりしてしまった。そういえば話し声も高かった気がする。
「あの人、音程正確だよね?」
こっそり耳打ちすると、サンドロさんもうなずいた。
「相当歌い慣れてるね」
彼も同意見だったことに安堵すると同時に、神聖な音楽にただ心をゆだねることができなくなってしまったことに気が付いて寂しくなった。毎日微細なピッチに耳を傾けて練習しているせいで、歌を聴くときには自然と分析してしまう。
「もっと大きな教会でも歌えそうなのに」
私がぽろりと生意気な意見を述べると、サンドロさんはクスっと小さく笑った。
「しょっちゅう旅するような生活はしたくないのかも」
上を目指すなら、イタリア半島にとどまらずヨーロッパ中を視野に入れて、遠い土地まで旅して歌う覚悟が必要なのか。
聖歌隊のアルトパートには裏声で歌う変声後の男性も混ざっているようだが、ソプラノパートは全員、自然なソプラノだった。そう、彼らの声はごく自然に聞こえるのだ。
本番の緊張がほどけて眠くなってきたころ、ミサは幕を閉じた。笑顔を交わし合い、
「
と声を掛け合う。真夜中の教会はしんしんと冷えているはずなのに、あたたかい雰囲気で満ちている。
「疲れただろ。夜遅いもんな」
サンドロさんが私を支えるように立たせてくれた。ソプラノの席からリオとぽっちゃりくんが人をかき分けてパタパタと走ってくる。
今の私には恋人がいて、個性豊かな先輩たちがいて、素晴らしい先生に囲まれている。地上では二度と家族に会えないし、故郷からは遠く離れてしまったけれど、決して一人じゃない。
参拝者たちが私たちを囲み、
「良かったよ」
「今夜は私たちの教会に歌いに来てくれてありがとうね」
と声をかけて下さる。歌うことで初対面の人ともコミュニケーションを取れるんだ。それも一度にこんなたくさんの人と。音楽って素晴らしいな。
評価を確認するようにドゥランテ先生を探す。先生は笑顔で常設聖歌隊のソプラノ・ソリストのおじさんと握手を交わしていた。おじさんの横にはリオくらいの年頃の少年が立っている。
「ねえ、音楽院の
少年がドゥランテ先生に話しかけたので、先生のうしろに立っていたリオが思わず、
「パパ!?」
と驚きの声を上げた。ドゥランテ先生が慌ててリオの頭に手を置くと同時に、おじさんはほがらかに笑った。
「驚くよな。息子といっても兄の子を養子にもらったんだ」
「俺のパパはパパだってば!」
抗議の声を上げる少年を、ソプラノのおじさんは力強く抱き寄せた。二人は確かに親子の絆で結ばれているようだ。息子にとっては歌のうまい自慢の父親なのだろう。
正確なテクニックを持ちながら、彼が小さな教会で歌い続けている理由が察せられたような気がした。皆それぞれ自分の幸せを選んで生きている。
荷物を置いた物置へ戻ると、
「みんな、良かったですよ。よく頑張りましたね」
ドゥランテ先生が珍しく笑顔を浮かべたので、私は心底安堵した。
上級生たちに引率されて、白い息を吐きながら寄宿舎にたどり着いたとき、ふとエンツォのことを思い出した。コンサートでもミサでも何も起こらなかったのだ。
あのときエンツォが何をしようとしたのか、私たちが知ることになるのは数ヵ月先――私とリオが初めて音楽院のコンサートでデュエットする日まで待たねばならない。
冬から早春にかけての本番ラッシュが終わったある日、私とリオのレッスンに突然ポルポラ先生が顔を出した。初夏に予定された音楽院コンサートの打ち合わせのためにやって来たそうだが、私たちのところに寄ってくれた理由は明らかだった。
カッファレッリの指導のもと、私たちがどのくらい上達したのか聴きに来たのだ。
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