49、またとないチャンスが巡ってきた
日増しに陽光が強さを増していく。
私はまだ静かな朝の音楽院で一人、歌の練習をしていた。少し日が高くなれば廊下でも回廊でも、楽器を持った生徒や歌手の卵が現われてところかまわず音を出す。自分の音色に集中できないのだ。
サンドロさんに相談したら、なるべく早く練習を始める秘訣を教えてくれた。寄宿舎の集団生活のつらいところは、まるで修道院のように祈りや食事の時間が決められていること。だが朝食が終わり次第、練習場所に駆けつけられるよう早起きして準備しておくという単純な作戦が意外と有効だった。
チェンバロの和音を弾きながら、響きを感じて声を出す。チェンバロの授業では調律の仕方も教えてもらった。今では正しいピッチを確認しながら発声練習できるようになった。
一音ずつ登っていく、いつもの音階で丁寧に声をならしていく。
「やっぱりミ♭のあたりで硬くなるなあ」
顎から耳の下あたりにかけて、指先を当てて確認しながら声を出す。
「何が原因だろう? 姿勢かな、呼吸かな」
いつも注意されることを思い出してみる。とりあえず壁にかけられた鏡の前に立ち、姿勢を整える。
伸びてきたブルネットの髪は、憧れのカッファレッリを真似してうしろで一つに束ね、リボンで結んでいる。農作業から解放されたおかげですっかり白さを取り戻した肌はきめ細かく、深い緑の瞳を引き立てていた。首元にスカーフを巻きジャケットを羽織った鏡の中の私は美少年そのものだ。
私は鏡の前で思わせぶりに流し目をしてから目を伏せてみた。
「ふふっ、かっこいい」
思わず独り
「いけない、いけない。練習するために早起きしたんだった」
私が理想とする男性高音歌手オリヴィエーロは顔が美しいだけではない、最高に歌がうまいのだ。
姿勢を正して鏡の前に立つ。大勢のお客さんが私を見ていると想像すれば、自然と背筋が伸びる。ゆったりと息を吸って、もう一度挑戦――
練習に集中していたら突然、扉が開いた。
「オリヴィエーロ、置いてかないでよ!」
頬をふくらませたリオが部屋に飛び込んできた。
「だってリオの準備、遅いんだもん」
リオは私と違ってやすやすと高い声が出るから、危機感がないのだろう。生まれ持った楽器が違うのだ。私は努力で補って、リオの隣に立たねばならない。
リオは息を整えるとウォーミングアップを始めた。カッファレッリは気まぐれなので指導に現れることもあれば、結局来ないまま午後を迎えることもある。それでも彼がやって来る場合に備えて、私たちは喉をあたためておく。
リオが声を出している間、私はカッファレッリから渡された楽譜を確認することにした。五ヵ月間退屈な発声練習に耐えた暁に、ようやく曲を与えられたのだ。五年ほど前にカッファレッリとサンドロさんがデュエットした曲だそうだ。
幸いアルトパートの最高音はレまでで、私が苦手とするミ♭から上は出てこない。だが目の前で発声練習をしているリオの声を聴いていると、落ち込んでしまう。ソプラノのリオと比べても意味がないことは分かっているのだが、彼はなんの引っかかりもなく高い音を歌う。
最近カッファレッリの指導が功を奏して、リオは中低音域でもしっかりとした声を出せるようになってきた。すると私の方が優れている部分というのが見当たらないのだ。
「オリヴィエーロ、デュエット曲あわせてみようよ」
リオに誘われて我に返った私は、
「うん、そうしよう」
浮かない気持ちを隠して立ち上がった。
リオと二人で練習していると、扉の向こうからカッファレッリの話し声が近づいてきた。誰かと一緒だとは思ったけれど、扉が開いて私とリオは驚いた。
「久しぶりだね、オリヴィエーロ、リオネッロ」
気さくに声をかけてくれたのはポルポラ先生だった。
「音楽院には慣れたかい?」
先生はおそらく楽譜が入っているであろう重そうな鞄を机に置くと、私たちに笑顔を向けた。
思いがけない来訪者に緊張して、はい、としか答えられない私たちを代わる代わる眺めて、
「リオネッロは少し背が伸びたかな?」
「はいっ、伸びました!」
リオは実に嬉しそう。
「オリヴィエーロはちょっと垢抜けたね」
短い間にそんな変わったのだろうか? というか以前の私、芋くさかった!?
カッファレッリは私たちが手にした古い楽譜に視線を落とし、
「お前ら今日そのデュエット、ポルポラ先生に聴いてもらうからな」
いきなり宣言した。私とリオは顔を見合わせる。
「リオネッロ、お前のを貸せ」
カッファレッリは有無を言わさずリオの手から楽譜を奪うと、チェンバロの譜面台に乗せた。
「声あたたまってるよな? すぐに歌えるか?」
チェンバロの椅子に座りながらカッファレッリが尋ねる。
「歌えます」
リオが無駄なことを言う前に私は即答した。せっかくポルポラ先生に聴いてもらえるチャンスなのだ。
「えっ――」
驚いたリオの口から反論が飛び出すのを封じて、
「リオ、一緒に楽譜見よう」
私は譜面台を二人の間に移動させ、甘えるようにリオの腕を引いた。リオの身長が伸びたので、私が顎を引いて彼を見れば上目遣いという技が使える。甘えるように見つめると、
「もちろん!」
リオは簡単に承諾した。
カッファレッリが前奏を弾き始める。白い指が黒い鍵盤をなめらかにすべる
前奏を聴きながら、すぐ隣に立ったリオの集中力が研ぎ澄まされていくのを感じる。このデュエットはソプラノから始まるのだ。
静かに息を吸うとリオは、天使の声もかくやと思わせる愛らしいソプラノで歌い出した。
─ * ─
歌の途中で切りたくなかったので今日はここまで!
次回、『リオとオリヴィアのデュエット』新曲です。宗教曲じゃなくて世俗曲ですよ!(つまり恋の歌)
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