50、リオとオリヴィアのデュエット

 静かに息を吸うとリオは、天使の声もかくやと思わせる愛らしいソプラノで歌い出した。


「君が僕を見つめる

 その視線はまるで

 クピドがつがえる愛の矢」


 弾むような旋律に誘われて、私の心にも陽が差し込む。「愛の矢gli strali d’amor」の最後の音節シラブルmorモール」をリオが伸ばしている間に、私のパートが始まる。リオが歌った歌詞を追いかけるように同じ内容を繰り返す。


「君が僕を見つめる

 その視線はまるで」


 二人の声が重なった瞬間、細く開けた窓からふわりと朝の風が舞い込んだ。


「クピドがつがえる愛の矢」


 私が「amor」という単語を伸ばしている間に、今度はリオが次の歌詞を歌い始める。


「ほほ笑みと共に飛来して

 僕の心を捉えて離さない」


 去年まで綺麗なだけだったリオの声に、情熱が宿るようになっている。私の上できらめく翼をはためかせるリオのソプラノに目を細める心地で、私は自分のフレーズを大切に歌う。


「ほほ笑みと共に飛来して

 僕の心を捉えて離さない」


 リオが天の高みから降りてくると、最後は二人の声が重なって一旦フレーズの幕を下ろす。


 チェンバロが歌の旋律を繰り返し、第一の部分が終息する。一呼吸おいてやわらかく分散和音を奏でた。


 第二部分の始まりだ。


「いとしい君のまなざしが

 僕にそそがれたあの日から――」


 美しい旋律を味わい尽くすように、私は心を込めて歌う。荒れた庭にリオが現れた初夏の日を思い出す。リオの澄んだ瞳に映った瞬間からもう一度、止まっていた心の針は時を刻み始めた。リオと出会ってもうすぐ一年になる。


 リオが手のひらを胸に当て、優しく歌い出す。


「いとしい君のまなざしが

 僕にそそがれたあの日から

 恐れることはただ一つ」


 天井画に描かれた天使を思わせるリオの横顔に、切ないかげりが差す。


「君との別離だけ」


 私たちはそっと声を重ねた。二人の視線がふと絡み、覚えず微笑が漏れた。私たちは手を伸ばせば触れ合える距離を保ったまま、ただ見つめ合い、心の中だけで抱擁した。


 ゆったりとした第二部分が終わると、スピーディーな第三部分が始まる。十分にも満たない短い曲だが、器楽曲に見られる三楽章形式に似た構造を持っているとカッファレッリから説明された。


 チェンバロの椅子に座ったカッファレッリが私と目を合わせる。同時に息を吸うと私は歌い出した。


「どうかいつまでも

 君の魅力的な瞳の中に」


 よかった、伴奏とぴったり合っている! 前奏無しで始まるのは緊張する。


 素早く動くベースラインが小気味良い。だが伴奏するのは難しいようで、カッファレッリはほとんど左手だけしか弾いていない。でもピッチが難しい箇所だけは右手で確実に和音を弾いてくれるから問題ない。


 まるで動いている馬車に飛び乗るように、リオが正しい箇所であやまたず声を重ねる。


「どうかいつまでも――」


 リズミカルな音楽に心が浮き立つ。追いかけ追いすがり、まるで夏の海で水を掛け合うみたいに、私たちはきらめく光の中で歌いあった。


「君の魅力的な瞳の中に

 僕を捉えて離さないで」


 最後は声をそろえて締めくくる。後奏のない曲なので、チェンバロも同時に勢いよく終わった。カッファレッリが小さく安堵のため息をついたのが聞こえる。いつもあんなに堂々としているのに、意外な一面を見てしまった。


「ふむ、よいではないか」


 ポルポラ先生は私とリオを見比べながら、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「これなら再来月の外部向け演奏会に出してもよいと思うんだが、どうかね?」


「えっ」


 リオが目を丸くする。


「この曲でオリヴィエーロと一緒に演奏会、出られるんですか!?」


「うむ。オリヴィエーロとリオネッロでデュエットしてほしい。曲は――」


 ポルポラ先生は少し言いよどみ、人差し指で顎を撫でた。


「二人の声に合うよう少し編曲したほうがよさそうだが」


 私は喜びに包まれながら確認した。


「合唱じゃなくて、リオと二人でソリストとして歌えるんですね!?」


「そうだ」


 ポルポラ先生はしっかりとうなずいた。私は、やったー、と叫んで飛び跳ねたいのをかろうじて抑える。だがリオは、


「合唱じゃなくて……」


 不安そうに私の言葉を繰り返した。リオはずっと聖歌隊で歌ってきたけれど、いつも一緒に歌う合唱団の仲間たちがいたんだ。


「リオネッロ、出ておいたほうがいいと思うぜ」


 声をかけたのはカッファレッリだった。


「今のお前らなら、たとえ失敗したって許される。なぜかって、ガキにしか見えねえからな」


 ムッとする私たちに構わず彼は言葉を続けた。


子供バンビーニが歌ってるだけで目を細める大人はたくさんいるんだ。だけど俺様の歳になったらどうだ? すでに少年ラガッツォと見なされる。幼さだけで観客を笑顔にさせられる時期は終わっちまったってわけだ」


 私は内心、でもその無駄に綺麗な顔なら少なくとも、あと十年は美貌だけで観客をとりこにできそうだけどね、とつぶやいていたがしゃくなので口には出さなかった。代わりに隣のリオを見つめて可愛らしく小首をかしげた。


「リオ、ボクと一緒にコンサート、出てくれるよね?」


「もちろんだとも!」


 案の定リオはすんなり受け入れてくれた。


 満足そうにうなずくポルポラ先生に、私は気になっていることを尋ねた。


「あの、曲は少し変更になるってことですか?」


「そうだな。オリヴィエーロの声は高い音域でよく響いている。この曲は少し低すぎて君の声にはもったいない」


「えっ」


 私は絶句した。せっかく最高音がレまでしか出てこなくて歌いやすいのに!


「高い音に苦手意識があるのかね?」




─ * ─




オリヴィアは素直に答えるのか?

高音が苦手だったら演奏会に出られない? それとも指導してもらえるチャンス?

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