51、ポルポラ先生の処方箋

「高い音に苦手意識があるのかね?」


 ポルポラ先生に問われて、私は返答に窮した。


 高い音が出せないと打ち明けたら演奏会に出られなくなってしまう? でも今のままで歌いやすいのにメロディを変えられるのは嫌だ。だが先生は私の声は高音が綺麗だと言う。私はアルトだから高い音を出すのはあきらめていたのに、テクニックの問題なの? できるものならリオやカッファレッリみたいに高い声で自在に歌ってみたい。


 頭の中で思考が高速回転する。


「こいつ、ミ♭から急に喉が締まるんスよ」


 チェンバロの椅子に足を広げて偉そうに座っていたカッファレッリが、端的に伝えてくれた。


「ちょっといいかい」


 ポルポラ先生は弟子を椅子から立たせると、自分がチェンバロの前に腰かけた。


「オリヴィエーロ、オクターブの練習はしたことあるかな?」


 意味がよく分からないから、多分知らない練習法だろう。無言で首を振る私に、


「駆け上がって駆け下りるんだ。こんなふうに」


 先生は一音だけ鍵盤を押すと、見事に音階を歌って聴かせた。重めのテノールが教室に響き渡る。大人の男の色気を感じさせるかっこよさに驚いていたら、


「歌ってみなさい」


 私のためにハ長調の音階を弾いてくれた。先生の真似をして素早く音階を駆け上がって歌ってみる。ハ長調から順に半音ずつ上がっていくようだ。


 声を素早く動かすことを意識していた私は、いくつか移調したところでハッとした。苦手なミ♭を過ぎ、さらなる高音域に達しているのではないか? 私、今ヘ長調歌ってるよね?


 さすがにきつくなってきたところで、ポルポラ先生はチェンバロを弾くのを止めた。


「君は今、高いソまで出していたよ」


 いや、さすがに今の高音は綺麗に鳴らなかった。だが確かにファ#までは出せたのだ。自分のことながら驚く私に、


「ミ♭から出せないと感じていたのは、何が原因だったか分かるかな?」


 分かるわけがない。首を振ると、


「主な原因は二つ」


 ポルポラ先生はまず親指を立てた。


「一つは息のスピードが足りていなかった」


 それから人差し指を立て、


「二つ目は、苦手だと意識することで体が硬くなってしまったのが原因だ。声帯のなめらかな動きを妨げていたんだな」


「意識の問題ってこと?」


 つい眉間に力が入る私に先生は、


「歌手にとって意識の持ち方は重要だ。声は繊細な楽器で、ちょっとした心の変化が如実に現れるものだからな」


 いたずらっぽい笑みを浮かべてカッファレッリを振り返った。


「彼のように自分の才能を信じ、自分の声を愛することだ。すると声帯はいつもよい仕事をしてくれる」


 リオがプッと吹き出したので、すかさずカッファレッリが近づいて羽交い締めにした。


「苦しい苦しい!」


 ポルポラ先生はふざけ合う二人に苦笑しながら、私に向き直った。


「オリヴィエーロ、君には三つ目の秘訣を授けよう。声を出す前から歌は始まっている。息の吸い方が肝要だ」


 私は思わずその場で息を吸う。


「うむ。息を吸うときに喉をひらくんだ。そしてひらいた喉のまま歌う。砂浜に寄せた波は止まることなく海へ戻っていくだろう?」


 先週ぽっちゃり兄弟に連れられて、リオと四人で砂浜へアサリを獲りに行ったとき見た海を思い出した。寄せては返す波のように吸気から連続して歌うイメージを持つのか。


 四人で手に入れた大量のアサリの末路はというと、消灯時間を過ぎてからこっそり厨房へ行って調理した。カッファレッリが支援者からもらったという白ワインと、厨房にあった塩とオリーブオイルで蒸して、五人で食べたのだ。濃厚なうまみが凝縮されたアサリのワイン蒸しは、今までに味わったことがないほどおいしかった。


 鍋や食器は洗ったし、貝殻はこっそり花壇に埋めた。完璧だと思ったのに私たちは翌朝起きられず、朝のミサに遅刻した罰として庭掃除をくらった。


 しかしカッファレッリだけは、伴奏者と打ち合わせがあるなどと言って逃げたのだ。潮干狩りも庭掃除も汗を流す仕事は一切せず、うまいもんだけ食い逃げするなんてずるい。それなのに私以外の三人が腹を立てていないのも理不尽だ。


 イライラしながらアサリの味を思い出していると、カッファレッリに髪をくしゃくしゃにされたリオにポルポラ先生が話していた。


「リオネッロ、君は焦点をつかんで歌えるようになったな。以前より感情豊かな声に聞こえるよ」


 褒められたリオは嬉しそうにニッと笑った。


「だが君はオリヴィエーロと比べるとピッチが甘い。彼に指摘してもらうといい」


 しゅんとするリオには悪いが、私は勝ち誇った笑みを浮かべた。


「とはいえオリヴィエーロは真面目に一音ずつ歌いすぎるから、音程は正確でもフレージングが損なわれる」


 しかし私も一瞬で撃沈された。


「リオネッロ、君のように気楽に歌えるよう、オリヴィエーロに教えてあげなさい」


 複雑な表情を浮かべるリオに、カッファレッリが追い打ちをかけた。


「お前あたまからっぽだもんな」


「違うもん!」


 からかわれたリオが頬をふくらませる。


 ポルポラ先生はいつまでもじゃれ合っている二人を引き離すと、カッファレッリに声をかけた。


「ちょっと時間があるから明日合わせる曲を聴いておきたいんだが」


「あ、ジャルディーニ氏のサロンで歌うカンタータっすね」


 カッファレッリが紙ばさみから楽譜を探している間に、ポルポラ先生は私とリオを振り返った。


「時間があるならお前たちも見学していくといい。ほかの学生が指導を受ける姿を見るのも勉強になるぞ」


 カッファレッリほど歌のうまい人が何を教わるのだろう? 確かに興味がある。


「見ていきます!」


 私は宣言して手近な椅子に腰を下ろした。


 リオはつぶらな瞳をキラキラさせながら、


「頑張ってね、カッファレッリ」


 先輩に生意気な声援を送る。


「うるせぇ」


 カッファレッリは振り向きもせずに一喝して、古びた木の譜面台に手稿譜を並べた。




─ * ─




次回『カッファレッリ、ポルポラ先生の指導を受ける』

オリヴィアたちから見たらセミプロでも、学ぶことは尽きないようです。

上級者向けレッスンの公開です笑

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