52、カッファレッリ、ポルポラ先生の指導を受ける

「ターノ、今朝はまだ歌っていなかったな?」


「はい、まだですね」


 カッファレッリが答えると、ポルポラ先生のレッスンはなんとあの退屈な音階から始まった! この数ヵ月、飽きるほど歌ってきた一音ずつ上がる音階を聴きながら、地道な練習は今後何年も続くのだと私は覚悟した。


 音階を歌ってさえ、あたたかい日差しのように透明感のあるカッファレッリの声に癒されていると、


「もう少し前に響かせて」


 ポルポラ先生の端的な注意が飛んだ。


 カッファレッリは視線でうなずくと、すぐに何かを変えたらしい。途端に春の日差しが真夏の太陽に転じたかのように、魅惑的な輝きを帯び始めた。


 すごい、と危うく声に出すところだった。一言でこんなに変わるものなのか。


「次、五度」


 それだけで伝わるのかと心配したが、カッファレッリは迷わず五度上がって下がる音階を歌い始めた。声を素早く動かしても正確なピッチを保ち続ける。さすがだと感心していたら、


「もっと息を流して」


 またポルポラ先生が短く注意した。するとそれまで坂道を転がる小石のようだった音階が、風にはためく絹織物のごとく優雅なレガートに変わった。それでも依然として音程は正確なままだ。


 曲の練習が始まる前から、私はすっかり度肝を抜かれてしまった。


「それじゃあ歌おうか」


「うっす」


 返事をしながらカッファレッリは、首を曲げたり肩を回したりして体をほぐしている。


 だがチェンバロの譜面台に楽譜を広げたポルポラ先生が、音楽の始まりを告げるように視線をよこした途端、カッファレッリのまとう空気が変化した。小憎らしい美少年の顔が翳りを帯びる。目の前に立っているのは、切ない恋に身を焦がす一人の青年だった。


 ポルポラ先生が分散和音アルペジオを弾くと、カッファレッリがレチタティーヴォ叙唱を歌い出した。


「水を求めて彷徨う旅人のように

 今も僕は探している」


 レチタティーヴォとはセリフに音程がついているもの。古代ギリシャ時代に演じられた悲劇では、すべてのセリフが歌われたという。それを復興しようと百三十年くらい前にフィレンツェで貴族と学者のグループがオペラを生み出したそうだ。当時のオペラはレチタティーヴォとアリアが渾然こんぜん一体となっていたそうだが、いま人気最先端を行くナポリ派のオペラではレチタティーヴォとアリアはしっかりと分離している。


「この心は焦がれているんだ

 幻に見る理想の君を」


 普段しゃべる音域に近い高さで恋心を語るカッファレッリにドキッとする。どこか夢見るような切ない表情に、世の女性たちはきっと魅せられるだろう。


 いいなあ、レチタティーヴォ。演劇感満載で憧れる。私も早く歌ってみたい!


 ポルポラ先生が前奏を弾き始める。ゆったりとした左手の上で、右手がきらびやかなトリルを奏でる。まるでシャンデリアから光の粒が降り注ぐよう。やっぱりポルポラ先生はチェンバロもお上手だ。左手に集中すると右手がお留守になるカッファレッリとは大違い。


 だがカッファレッリが口を開いた途端、包みこむようなメッサ・ディ・ヴォーチェに私の心は鷲掴みにされた。


「君の口づけは甘い雫

 君の抱擁は恵みの海」


 彼の瞳には今、愛する人が映っているのだろう。とろけるような表情が甘い歌声にぴったりだ。


「君の吐息は優しい川の流れ

 僕の心を癒す命の水だった」


 優雅なトリルでA部分を締めくくると、哀愁漂う間奏が始まった。チェンバロの低音が奏でる短調の旋律に、右手の分散和音がすすり泣くように絡む。


「だけど今、僕は渇きにあえぎ

 タンタロスさえ経験しなかったほどの

 苦しみに襲われている」


 B部分は聴く者の心をえぐる、悲哀に満ちた短調の旋律で満ちている。


 タンタロスはギリシャ神話に出てくる人物だったはず。水を飲もうとするとその水が消えてしまうという責め句に遭うのだ。


「どうかもう一度、僕のそばに来て

 君のぬくもりを感じたい」


 カッファレッリの演技力に私の心は張り裂けんばかりだ。そんな泣き出しそうな顔で歌われたら、ぎゅっと抱きしめてあげたくなっちゃう。


 いやいや落ち着け、私。相手はあのカッファレッリだぞ。


 私が心の中でぶんぶんと首を振っていると、ポルポラ先生が曲を止めた。


「うん、B部分はいいね。A部分がね、綺麗なんだけどちょっと退屈だ」


 退屈だった!? とんでもない、と驚きながらポルポラ先生の次の言葉を待つ。


「甘い雫、恵みの海、優しい川の流れと似たような言葉が三回出てくるんだが、すべて同じように歌っていないか?」


 表現に差をつけろというわけか。


「たとえば甘い雫」


 ポルポラ先生はスタッカートを交えてカンタータの最初の旋律を弾いた。


「次は恵みの海のような抱擁か」


 アルペジオをたくさん混ぜて、大きな旋律を描き出す。確かに今カッファレッリが歌った旋律をもとにしているが、かなり編曲している。


「そして川の流れは――」


 楽譜を確認し、


「吐息か」


 先生はチェンバロの弦に手を伸ばすと何かの機構を操作した。途端に弦楽器をはじいたような乾いた音が鳴る。そういえばチェンバロの授業で、音色や音量を変えるリュートストップについて習ったっけ。


「チェンバロでもこれだけ変化をつけられるんだ。声ならもっと自在だろう」


 先生はなかなか無茶なことをおっしゃる。チェンバロのほうが十本の指で弾ける分、有利では?


 だがカッファレッリは納得したようだ。自信たっぷりにうなずいた。


先生マエストロ、Aだけもう一度お願いします」


「よし、じゃあ歌が始まる二小節前から弾くよ」


 今度はすぐに歌が始まった。


「君の口づけは甘い雫」


 カッファレッリはレガートの中でわずかなスタッカートを効かせてみせた。子音を立てて歌っているのかな? 口づけが雫みたいに落とされる様子が目に浮かぶ。


「君の抱擁は恵みの海」


 フレーズを大きく意識して、クレッシェンドしながらゆったりとしたレガートで歌う。私の目には確かに、真っ青な海が見えた。「君」の抱擁がどれだけ詩人の心を癒したのか、容易に想像できる。


「君の吐息は優しい川の流れ」


 少し息を混ぜて歌っているのだろうか? ささやくような歌い方は、発声の面から見たら完璧に正しいとは言えないのかも知れないが、「吐息sospiro」のSが際立ち、まさに溜め息が流れていくようだ。


「僕の心を癒す命の水だった」


 情感たっぷりに歌って甘い思い出を締めくくる。ただ美しいだけではない、言葉の意味がまざまざと伝わってくる歌になっていた。


 伴奏を止めたポルポラ先生は満足そう。


「そうそう、よくなったじゃないか」


 ポルポラ先生の鮮やかな指導も、それに答えるカッファレッリの機微も見事というほかなかった。




 翌週、レーオ先生の対位法の授業に出ているとき、知らない上級生に呼ばれた。言われた通りリオと二人、音楽院内のホールへ行くと、上級生たちがリハーサルをしていた。


 曲が終わるとポルポラ先生が、見たことのない男を伴って私たちの方へ近づいてきた。二十代半ばくらいの男で、どことなく見慣れない顔立ちをしている。外国人だろうか?


「オリヴィエーロ、リオネッロ。彼を紹介しよう。ハンブルクからやってきたテノール歌手で作曲家だ」




─ * ─




※「古代ギリシャ時代に演じられた悲劇では全てのセリフが歌われた」というのは1600年代当時の学説です。そう信じてオペラを創り出したらしい。


次回『オペラ・シンガー・ソングライターの〇〇〇氏登場』

さて、だーれだ? 1720年代にイタリアで学んだドイツ人作曲家です。


ヒント:ヘンデルではありません。


分かるかボケですと? 失礼しましたっ

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