53、オペラ・シンガー・ソングライターのハッセ氏登場

 ポルポラ先生のうしろから男が一歩進み出て、私たちにほほ笑みかけた。


「こんにちは、少年たち。僕の名はヨハン・アドルフ・ハッセだ。君たちに会えてうれしいよ」


 右手を差し出されたが、申し訳ないことに名前の発音が聞き取れなかった。狼狽したのが顔に出たのか、言い直させてしまった。


「イタリア風に言うと、ジョヴァンニ・アドルフォ・ハッセだね」


「ハッセさん、ボクはオリヴィエーロです。お会いできて嬉しいです」


 彼の大きな手を握り返しながら、横にいるポルポラ先生をちらりと見上げる。なぜこの人を紹介されたのか分からなかったからだ。


「オリヴィエーロくんたちが今度デュエットする曲あるだろう? あれは私が五年くらい前に書いたもので、君たちの声に合わせて書き換えたかったんだが、最近作曲の仕事が立て込んでいてね。彼に頼もうと思っている」


 ポルポラ先生はハッセさんに視線を送った。


「そういうわけでぜひ君たちの声を聴かせてもらいたいんだ。ああ、本番の伴奏も僕が弾くからよろしくね」


 ハッセさんは流暢なイタリア語で話した。私とリオはうなずいたものの、不安そうな顔をしていたのかも知れない。


 ポルポラ先生がハッセさんの背中をたたきながら、


「安心したまえ。彼はすでに本国でオペラ作曲家として活動していた上、自分で書いたオペラにテノール歌手として出演しているんだ。さらにチェンバロの名手でもある」


 と持ち上げた。


「だがさらなる研鑽を積むために留学している才能ある若者だ。明日のスターだぞ」


「だとよいのですが」


 ハッセさんは笑っていたが、まんざらでもないようだ。


 ポルポラ先生の話を聞きながら私とリオがハッセ氏に抱いた印象は、将来有望な外国人くらいのものだった。だがこの日の彼は本当に、ナポリで注目を集める直前だったのだ。


 数か月後には劇場から絶え間なくオペラ作曲を依頼されるようになるなんて、このときはまだ知るよしもなかった。


 ホールでのリハーサルが終わるのを待って、私とリオはハッセさんの伴奏でもう一度デュエットを歌うこととなった。音楽院のホールに立つという夢が、伴奏合わせで叶ってしまった。


 憧れていたものの、ホールはあまり自分の声が返ってこなくて歌いにくい。美しい会場が必ずしも歌いやすいわけではないと学ぶはめになった。


 ハッセさんの伴奏はポルポラ先生より右手で和音を多く弾くタイプで、音程は取りやすいものの声量に気をつけないと負けてしまいかねない。


 歌の伴奏譜は通奏低音といって、左手で弾くベースラインと、和声を表す数字しか書いていないのだ。チェンバロ奏者は即興的に右手を重ねていくから、奏者によって弾く伴奏は異なる。


「うん、いいね」


 私たちが歌い終わるとハッセさんは、灰色のふわふわとしたカツラをふぁさりと揺らして振り返った。


「リオネッロくんはちょっと低音域が弱いのかな」


「うっ、これでもしっかりしてきたはずなんですが」


 作曲家といっても相手が若いマエストロだからか、リオがちゃんと自分の意見を言う。


「そうかぁ」


 ハッセさんはちょっと笑ってから楽譜をめくった。


「君の声は軽やかなフレーズに合ってるし、高音のキラキラした響きをもっと聴かせたいね。ちょっと重すぎる箇所を書き換えよう。それからオリヴィエーロくんは――」


 楽譜を眺めながら、


「高い声が綺麗に鳴るアルトだね」


 断言されてしまった。ポルポラ先生の耳を疑っていたわけではないが、アルプス山脈の向こうからやって来た外国人テノールにまで言われたら、高音の練習を頑張らないわけにはいかない。


「ソプラノの六度下を歌ってるところは低すぎるな。三度下くらいにして二人の声がハモる部分を増やそう。オリヴィエーロくんの声はしっとりとした女性的な響きが魅力的だからな」


 私の性別が露見しかねないことをおっしゃるので、ひやひやさせられた。




 一週間くらい経って、ハッセさんは書き換えた楽譜を持ってきてくれた。写譜前なので一部しかないから、彼が弾くチェンバロの横に立って歌った。といっても私もリオもまだ譜読みが早くないので、ハッセさんが透明感あふれるテノールで歌ってくれるのをオクターブ上で真似しているうちに覚えてしまうのだが。


「いいねいいね。うん、すごくいい曲だ」


 ハッセさんは自分の編曲に大変満足しているご様子。 


「これで写譜家コピスタに回そうと思うんだけど、どうかな?」


「お願いします!」


「うん、僕この曲好き!」


 私とリオの声が重なった。 


「そういえば二人とも、人気歌手の歌をちゃんと聴いたことはあるかい?」


 帰り際、ハッセさんが楽譜を鞄にしまいながら尋ねた。顔を見合わせる私とリオに、


「作曲中のセレナータを今度、歌手たちと合わせる予定があってね。ソプラノとアルトのデュエット曲もあるから、君たちの勉強になると思うんだ」


「セレナータ?」


 リオが首をかしげると、


「ナポリのさる銀行家から作曲を依頼されてね。ああ、セレナータっていうのは個人の邸宅でやる小さなオペラみたいなものだ。衣装くらいはつけることが多いんだけど、劇場じゃないから舞台機構はない。今回は避暑を兼ねて、カルミニャーノ氏がカントリーサイドに所有する邸宅の広い中庭で行うよ」


 カルミニャーノ氏というのが銀行家の名前らしい。


「小さなオペラ?」


 リオがまたオウム返しに問う。


「うん、上演時間も九十分程度になる予定なんだ」


 普通、オペラは三時間も四時間もやっているものらしい。


「歌手も二人しか出ないしね」


 付け足したハッセさんに、


「え、二人だけなんですか」


 私は驚いて聞き返した。


「そう。でもその二人が超人気で話題沸騰中の若手歌手なのさ」


 ハッセさんは素晴らしい歌手たちと仕事ができることを誇っているようで、胸を張った。次の言葉を待つ私たちに、


「舞台は古代。三頭政治が敷かれている頃のローマ帝国だ。三人の執政官のうちの一人、アントニウスを演じるのが女性歌手ヴィットーリア・テージ。深いコントラルトで素晴らしい声の持ち主さ」


 女性アルトが男性役を歌うのか、と思っていたら、


「そしてアントニウスを骨抜きにしているエジプトの女王、最高の美貌を誇るクレオパトラを歌う男性ソプラノが、あのファリネッリなんだ!」


 登場人物と歌手の性別が逆になるってこと!?


「ファリネッリ? なんか聞いたことあるな」


 リオは首をかしげて記憶をたどっている。


「ファリネッリはニコラ・ポルポラの弟子だよ。まだ二十歳はたちそこそこだが、すでに素晴らしい声と名人芸で大絶賛されている」


 思い出した。ジャンなんとかが、カッファレッリよりファリネッリのほうがうまいと弁舌を振るっていたのだ。


「聴いてみたいな!」


 リオが身を乗り出した。




─ * ─




プロローグから男女逆転していた本作ですが、作者の趣味ではないのです!

バロック音楽においてはよくあることだったのです!


ちなみにオペラが三、四時間続くのはバロック時代の話。ロマン派のオペラはもっと短くなります。


次回『人気歌手ファリネッリの超絶技巧』。映画化もされたファリネッリ、ようやく登場です。

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