54、人気歌手ファリネッリの超絶技巧

 リハーサルを見学させてもらうことにしたものの、開始時刻が分かってみると寄宿舎の夕食時に重なってしまう。長引いたら夜のお祈りまでに帰って来られないかも知れない。


 管理人ジュゼッペさんからは、


「勉強のためだから外出自体は認められるが、日が暮れてからの帰寮は大人の付き添いがなければ許可できない。誰か送ってくれる大人を探しなさい」


 と言われてしまった。


「どうしよう。大人ってことはサンドロさんやカッファレッリじゃだめなんだよね」


 彼らならリハーサル自体にも興味があるだろう。だが如何いかんせん彼らも寄宿生だし、まだ十五歳くらいなのだ。


「誰か先生に頼む?」


 リオも乗り気しない顔で案を出す。


「そうだ。こういうときどうしたらいいのか、管理人の奥さんに相談してみよう」


 いきさつを話すと、彼女はあっけらかんとした調子で言った。


「そんなのあんたたちをここに連れてきたジャンバッティスタさんに頼めばいいじゃないの」


 まさかジャンなんとかの名前が出てくるとは!


「あいつがボクたちの面倒なんて見てくれますかね」


「そりゃ見てくれるさ!」


 奥さんは私の背中をバシバシとたたいた。


「ジャンバッティスタさんはここナポリでの、あんたたちの後見人なんだよ? 親代わりみたいなもんなんだから、どんどん頼りなさい」


 あの胡散臭い男が親代わりだなんてうんざりだ。いつも笑顔を絶やさないリオまで真顔になっている。


「せっかく外出許可がおりるんだから、何かおいしいもんでも食べさせてもらうといいよ。あたしから連絡しておくから安心しな」


 果たして管理人の奥さんの言う通り、ジャンバッティスタは快く引き受けてくれた。


 見学当日、私とリオは音楽院でハッセさんとのリハーサルを終えると、ナポリの中心部にある銀行家カルミニャーノ氏の邸宅へ向かった。


「セレナータ『アントニウスとクレオパトラ』は二巻物でストリングスも入る予定なんだけど、まだ全て作曲が終わったわけじゃないんだ。今日は僕のチェンバロと歌手二人だけで合わせるんだよ」


 道すがらハッセさんが説明してくれる。話しながら邸宅の前に着くと、門の前に思いがけない人物が立っていた。


「カッファレッリ!?」


 驚きの声を上げる私とは反対に、ハッセさんはすでに彼が来ることを知っていたらしく、


「待ったかい?」


 親しげに話しかけている。


「なんでいるの?」


 失礼な問いを発するリオに、ハッセさんと話していたカッファレッリが不機嫌な顔で振り返った。


「うまいと言われてる奴らの歌を聴かなきゃ何が正解か分からねえだろ」


 どうやらカッファレッリはポルポラ先生から情報を得ては、評判の高い歌手の演奏をあちらこちらへ聴きに行っているらしい。私たちが会った最初の日、朝帰りだったのも女の子と遊んでいたわけではなく、夜遅くまで個人宅で開かれた演奏会を聴いていたようだ。


 私たちは執事らしき男から丁重に迎えられた。驚いたことに屋敷の奥から貴婦人が出てきて、


「主人は今、留守にしておりますの」


 とおっしゃる。彼女の視線は明らかに、私とリオ、そしてカッファレッリにそそがれていた。


「なんて愛らしい坊やたちなのかしら」


 口調も仕草も上品なのに、舌なめずりするようなまなざしにさらされて、リオが私のうしろに隠れた。


 だがカッファレッリは優雅な所作で片足をうしろに引くと、うやうやしく貴族男性の礼をる。


「この上なく美しいマダム、お会いできて感激しております。あなた様のように魅力的な女性からお褒めの言葉をいただくとは、身に余る光栄です」


 どこからそんな最上級尽くしのせりふが出てくるんだ、この男は。


「まあ!」


 貴婦人は年甲斐もなく頬を赤らめた。親子ほども歳が離れた少年に対する反応としては、いささか気持ちが悪い。だが私もリオも、今後カッファレッリを見習わなければならないのだろう。


 両側の壁に絵画の飾られた廊下を歩いていくと、チェンバロの音に混ざって華やかな笑い声が聞こえてきた。


 執事が突き当たりの扉を開けると長身の男性がチェンバロを弾き歌いし、その横で色の黒い女性が楽譜を片手に声を合わせているのが見えた。


「やあ二人とも、調子はどうだい?」


ハッセさんが声をかけるとチェンバロの椅子から青年が立ち上がった。彼がファリネッリなのだろう。少年のようになめらかな肌をしているが、立つと身長の高さがより際立つ。ハッセさんと挨拶を交わすと、カッファレッリと雑談を始めた。二人は少し年齢が離れているものの、ポルポラ先生のもとで学ぶ兄弟弟子だったことを思い出す。


 ヴィットーリア・テージは私たちを見下ろし、


「その子たちがマエストロの言っていた音楽院の生徒さんね」


 白い歯を見せて笑った。


「そうだよ。彼らも今度デュエットを歌うから勉強になると思うんだ」


「どうぞゆっくり見ていってね」


 エキゾチックな微笑にドキッとしてしまった。肌の色から南国から来た外国人かと思ったのだが、深い音色で語られる言葉は自然なイタリア語で、生まれも育ちも国内だとしか思えない。


 執事に指示されたのか、使用人が椅子を持ってきた。座面には贅沢に刺繍された布が張られ、背もたれには精緻な彫刻が施されている。村にいたら一生、私の尻がこんな高級そうな椅子とキスすることはなかったであろう。


「今日は第二幕を確認したいんだ。クレオパトラのレチタティーヴォ『甘い望みなど捨てましょう』から始めたいんだけど、いいかな」


 ハッセさんが歌手たちに尋ねた。さっそく音楽が始まるようだ。


 ファリネッリは長い指で手稿譜をめくりながら、


「僕からですね」


 譜面の該当箇所に視線を落とした。


 ハッセさんは歌手たちと目を合わせると、チェンバロでアルペジオを弾いた。その途端、空気の色が変わった気がした。


「甘い望みなど捨てましょう。

 それこそが不幸な者に残された唯一の希望」


 ファリネッリが気品たっぷりにレチタティーヴォを演じる。衣装もつけていないのに、気高い歌声は古代エジプトの女王もかくやと思わせる。


 チェンバロが不安をあおるように不協和音を連打した。


「どれほど酷い状況でも

 わたくしは怯えも恐れも致しません」


 毅然とした態度で威厳を見せつける。


「なぜならそれが唯一の解決策なのだから」


 悲劇的でありながら取り乱すことなくレチタティーヴォを締めくくる。


 突如始まった演劇の世界に引き込まれていたら、またチェンバロが和音を連打した。そして息を吞む間もなくアリアが始まった。


「『さらば玉座よ、さらば帝国よ』と

 私は強き魂で申しましょう」


 曲調は勇ましく、小舟が急流を下るかのような疾走感で聴き手の意識を釘付けにする。


 歌の旋律は跳躍を繰り返すが、ファリネッリの歌声には一切の乱れがない。繊細で力強い一本の糸が、つねに同じ音色を保っているかのよう。


「そして『私はあなたから去り、死へと駆ける。

 自由と引き換えに命を終えるために』と」


 難解なフレーズを歌っているのに、ピッチが恐ろしく正確だ。この人の喉は、名匠が作り上げた精巧な楽器なのか?


 すでに唖然としていたのに、さらなる超絶技巧が展開された。「自由libertà」の最後の音節で素早く十六分音符が歌われる。この技法、アジリタって言うんだっけ。一体いつ息を吸っているのかまるで分からない。


 カッファレッリに解説を求めようと隣を見たら、彼は周囲のすべてを拒絶する気迫を放ってファリネッリをにらんでいた――いや、違う。恐ろしいほど真剣な瞳で凝視していたのだ。


 私とリオを指導してくれるときも彼は私たちの顔や体を観察して、「舌の位置がおかしい」とか「肩が上がった」などと指摘する。その何倍もの集中力で、彼はただひたすら見ていた。技術を盗むつもりなんだ。


 カッファレッリくらい歌えれば、ファリネッリが何をしているか分かるんだろう。でも私にはさっぱりだ。突然雲の上の歌唱を聞かされて、とてもたどり着けまいと絶望感に打ちひしがれているうちにA部分が終わった。


 身を乗り出していたことに気が付いて、背もたれに体をあずける。弦楽器のパートをチェンバロで弾くハッセさんのテクニックも相当なものなのに、ファリネッリの歌に吸い込まれてまるで意識を向けていなかった。




※作中の歌詞はフランチェスコ・リッチャルディ(1758-1842)の書いたイタリア語台本『アントニオとクレオパトラ(Marc'Antonio e Cleopatra)』から翻訳しています(次話も同様)。




─ * ─




次話もファリネッリの歌は続きます! 歌の途中で話が分かれてごめんね、ファリネッリ。

今回ファリネッリが歌った曲の楽譜とYouTubeリンクを昨日の近況ノートに載せました。一番下までスクロールしてね。

https://kakuyomu.jp/users/Velvettino/news/16818023212554896882


次回『人はなんのために音楽を聴くのか?』

想像をはるかに超える超絶技巧を見せつけられたオリヴィアが色々と思考します。

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