68、名歌手へと至る道は鍛錬あるのみ

「オリヴィエーロ、ついに僕たちも劇場で歌えるんだ!」


 リオは榛色はしばみいろの瞳に星くずを散りばめ、声を高くした。


「でもリオ、ボクたち合唱だよ?」


 ソロでレチタティーヴォやアリアを歌えるわけではないのだ。


「合唱だって楽屋とか舞台袖とかに入れるじゃん」


 リオは声をはずませていた。


 しかしすぐに劇場稽古が始まるわけはなく、まずは音楽院内で譜読み稽古をしなければならない。合唱として歌うのは最後の一曲だけで、それ以外は舞台上に現れてセリフのない黙役を担うらしい。唯一カッファレッリだけは例外で、「はいスィ旦那様シニョーレ」など短いレチタティーヴォを歌えるそうだ。


 実にうらやましいのだが、カッファレッリは面倒くさそうな顔で不平をこぼした。


「公演が長引かなけりゃいいけどよ」


 オペラ公演は観客の入りが良ければ何日も続くが、客に見放されれば数日で打ち切られるそうだ。オペラとは、当たれば大金が舞い込むが、こければ興行師インプレザーリオを破産させる恐ろしいものらしい。


「俺様、夏にサンタニェッロ修道院で催される宗教劇の主役に抜擢されてるんだ。主役だからアリアの数も多いんだぜ。オペラの合唱なんかで拘束されたくねえよ」


 上級生たちは勉学の集大成として修道院や音楽院のホールで催される音楽劇に出演し、卒業していく。つまりカッファレッリが音楽院を去る日も近いということだ。一抹の寂しさを覚える自分の心を、私は認めたくなかった。


 待ちに待った劇場稽古が始まると、私とリオはカッファレッリがこぼしていた「拘束」の意味を思い知った。


「待ち時間ばっかりじゃない?」


 一日目でうんざりした私は、翌日からルイジおじさんが作ってくれた革の鞄に、重い石盤を入れて持って来ることにした。楽屋で対位法の宿題をこなすためだ。


 個室の楽屋が与えられるのはソロを歌うプロの歌手たちだけ。私たち学生は全員まとめて大部屋に詰め込まれていた。ソプラノやアルトの生徒たちばかりではなく、声変わりしたテノールやバスもいる。


 合唱に参加するのが二度目、三度目になる生徒は慣れたもので、カードゲームを持ち込んでいた。自由を制限された音楽院生活の中で、どうやって手に入れたのか謎である。


「リオネッロ、オリヴィエーロ、ゲームしようよ!」


 ぽっちゃりくんが元気な声で誘ってくれる。私たちが立ち上がると、ぽっちゃりくんは、


「カッファレッリもやろうよ」


 不機嫌な顔で腕を組んでいるカッファレッリにも声をかけた。


「俺様はやらん」


 付き合いの悪いカッファレッリはぶっきらぼうに答えると廊下に出て行った。


 ぽっちゃりくんについて部屋の中央へ行くと、大きな木の机に絵柄の描かれたカードがばらまかれている。少し遊んでいれば、じきに私たちの出番が訪れるだろうと思ってゲームに参加したものの、時間だけが過ぎてゆく。対位法の課題が終わっていない私は、次第に抜け出したくなってきた。


「ボク、便所」


 適当なことを言って席をはずす。静かなところを求めて廊下を歩いていると、誰かの発声練習が聞こえてきた。


 テノール歌手だろうか? 地声から裏声へとつなぐ音階を繰り返している。アルトの高音を習得しようと苦心しているようだが、ぎこちない。とてもソリストとは思えない。


 廊下の角を曲がると声の主が判明した。


「エンツォ。ここにいたんだ」


 彼は合唱のテノールパートに振り分けられていたが、そういえば大部屋にはいなかった。エンツォの声はやや女性的でテノールの声質ではないものの音程が正確だから、未熟な学生を助けるために駆り出されたのだろう。


「オリヴィエーロ」


 エンツォは発声練習を止めて振り返った。気まずそうな顔をされて、聴いてはいけないものを聴いてしまった気分になる。


「ファルセッティストたちみたいに裏声を駆使してアルトパートが歌えないかと思って」


 訊いてもいないことを、エンツォは説明した。


「そうなんだ。頑張ってね」


 適当にあしらって、私は彼の横をすり抜けた。


「ありがとう」


 エンツォがうしろで、小声で答えるのが聞こえた。ソプラノの声を失っても鍛錬を続ける彼の姿に、私の胸は少しだけ熱くなった。エンツォは作曲家を目指すことになったと聞いたが、それでも歌うことから逃れられないのかもしれない。


 ハッセさんのようにテノール歌手で作曲家というプロもいるのだから、エンツォの選択も決して非現実的ではないのだろう。


 外の空気が吸いたくなって外階段に続く扉を押し開けると、階下からたえなる歌声が湧き上がってきた。中庭でも誰かが練習しているようだ。


 オペラに出演するソリストだろうか?


 いや、違う。この声はカッファレッリだ。


 ソリストなら寒空の下に出ることなく、楽屋で歌っているだろう。


 私は大理石の手すりにもたれて、こっそり彼の練習に耳を傾けた。軽やかな歌声が、凛とした冬の冷気を震わせる。


「我が敬愛する父上、母上。

 わたくしの運命は世俗の殿方と共にあらず、

 イエス様こそ、我が人生を捧げるべきお方なのです」


 歌詞の内容から、彼が話していた宗教劇の主役が歌うアリアなのだろうと察せられた。


 真剣な歌声に聴き入っていたら、彼は歌うのをやめてしまった。冷たい空気を吸うのは喉にもよくないだろうし、練習は終わりなのかもしれない。


 と思ったら違った。彼はアジリタ――音をこまかく速く動かすフレーズの練習を始めた。


 一流の歌手になるにはアジリタの習得は欠かせない。私もリオもファリネッリのリハーサルを聴いて圧倒されたが、一体何をどうしたらあの域に達するのか見当もつかなかった。もはや生まれ持った楽器が違うんじゃないか?


 カッファレッリはまず一音ずつスタッカートでゆっくりと練習を始めた。わずかにピッチがずれても、響きが足りなくても歌い直す地道な練習が続く。


 充分にスタッカートの練習をおこなったあとで、ようやくレガートで歌い始めた。さっきまで歌っていたアリアの速さに至ってはいないものの、劇場の端まで届くであろう美声で、彼は完璧な音程でアジリタを聴かせた。


 私はかじかんだ指先をポケットに突っ込んだが、立ち去る気は毛頭なかった。選ばれた天才しか習得できないと思っていた技術が、目の前で形になってゆくのだ。


 カッファレッリはだんだんアジリタの速度を上げていく。だが単純に速度を変えるだけではなく、付点をつけて歌ったり逆付点で歌ったり、レガートを試したと思えばスタッカートに戻したりと様々な練習方法を駆使していた。


 やがて鮮やかなアジリタのフレーズが完成して、私は息を呑んだ。


 遠く大部屋からは、カードゲームに興じている生徒たちの笑い声が聞こえてくる。彼らが楽しんでいる間にも、カッファレッリはテクニックを磨いている。


「へへっ、できたぜ」


 中庭からカッファレッリの嬉しそうな独り言が聞こえた。彼は仲間たちと無為な時間を過ごすより、鍛錬に励む方が幸せを感じられるのだろう。


 努力を重ねてもエンツォみたいに報われない者がいるのは事実だが、練習もせずに名歌手ヴィルトゥオーゾへと至る者は無い。


 才能があって、なおかつたゆまぬ努力を続けた者だけがスターになるんだと心の中でつぶやいたとき、ジャンバッティスタの言葉を思い出した。


 ――歌手として成功するには運や見目の良さも重要です。だがその前にまず必要な条件がある。一に才能、二に環境、最後に本人の意志です――


 中庭ではカッファレッリがアリアを最初から、すらすらと歌っていた。



─ * ─



次回『怪しげな古書店』

エンツォが悪魔召喚の本を見つけた古書店が登場します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る