69、怪しげな古書店

 私は室内に入ると足早に大部屋へと戻った。


 皆と一緒に机を囲んでいたリオを引っ張り出す。


「廊下でデュエットの練習しよ」


「へっ?」


 リオは驚いて手からカードを取り落とした。


「オリヴィエーロ、急にどうしたの?」


 それでもリオは席を立ち、私についてきてくれた。


「いい、リオ? ボクたちは天才じゃない。ちょっといい声を持って生まれただけ。突き抜けるには練習の積み重ねしかないよ」


「そうだね。チャンスが来たら全部つかめるように準備しておこう」


 リオは意外にも力強く答えた。


 私たちが廊下の隅で練習し始めてしばらくすると、ぽっちゃり兄のサンドロさんが呼びに来た。彼は廊下の角を曲がってエンツォにも声をかけ、さらに外階段から中庭を見下ろしてカッファレッリを呼んだ。サンドロさんのようにみんなの調整役になる人もまた、必要なのだろう。


 さんざん待たされた挙句、今日の練習は舞台上の位置確認に費やされ、たった一回歌っただけで終わった。オーケストラピットに管弦楽はおらず、伴奏はポルポラ先生の弟子が奏でるチェンバロのみ。オペラの華やかなイメージとは程遠い。


 劇場からの帰り道もサンドロさんは子供たちをまとめ、


「馬車が来るから端に寄って」


 などと注意を配って歩いていた。だが普段、抑えつけられている子供たちは、ここぞとばかりに自由を謳歌する。


「あの道、怪しくね?」


「行ってみようぜ!」


 ぽっちゃりくん含め数人が薄暗い小道へ走って行った。


「お前ら、寄り道するなよ。サンドロが困ってるだろ」


 バスのお兄さんが大きな声を出すが、先輩の静止に聞く耳を持つ彼らではない。


「いけない、あの古書店は――」


 うしろでエンツォのか細い声が聞こえた。


「まさかあの本を買った店?」


 リオが振り返ると、エンツォは不安そうにうなずいた。悪魔召喚の写本が置いてあったのは、あの古書店なのか。好奇心に駆られてつい私も走り出す。


「オリヴィエーロ、待ってよ!」


 うしろから追いかけてくるリオの声には、非難の色が混ざっている。


 しばらく雨など降っていないというのに、陽の差さない細道は湿っぽく、古い古書店の前には汚れた水がたまっていた。野良犬の小便かも知れない。好奇心に取り付かれた少年たちは果敢に水たまりを飛び越え、間口の狭い古書店に突撃した。


「なんかカビ臭ぇ!」


「暗くて本なんか読めないじゃん」


 傍若無人なガキどもが大きな声を出したので、店奥の机で本を読んでいた老人がのろのろと顔を上げた。


 私も割れや欠けの目立つタイルを踏んで店内に立ち入る。外から夕陽が差し込み、並んでいる本の背表紙をぼんやりと照らし出す。どの本にも埃が積もり、長い間触れられていないようだ。


「あれ? この本だけちょっとマシ――」


 なぜか埃をかぶっていない一冊に手を伸ばしかけたとき、


「だめだ」


 頭の上からエンツォの声がした。


「まさかこの本が?」


 彼を見上げて尋ねる私に、


「そうだ」


 と、うなずいてからエンツォは身震いした。


「でも僕が一冊買ったんだ。手書きの写本だから一冊しかないはずなのに、どうして同じ本がまた並んでいるんだろう」


 低いのに細い声でつぶやくエンツォのうしろから、息を切らせたリオが顔を出した。


「エンツォの持っていた本がまたここに戻ってきたってこと!? 月のない闇夜に本が空を飛ぶとか」


「僕の持っている本は今もベッドの下に隠してあるよ」


 エンツォはあっさりと、リオの子供らしい発想を打ち消した。


「ポルポラ先生に相談したら、信頼できる神父様にゆだねようってことになったんだけど、人選が難航してる」


 エンツォが教会から罪に問われないよう、ポルポラ先生は細心の注意を払ってくれているようだ。


 店の奥で目をしばたいている店主に、私は声をかけた。


「この本、誰から買い入れたの?」


 私が指さす本を確認するため、年老いた店主は机に置いた両手で体を支えながらよたよたと立ち上がった。


「ここにある本はほとんど全て、わしの兄や父が集めたものなんじゃよ。誰かから買い付けるということはしておらんでな」


 お爺さんはおぼつかない足取りで近づいてくると老眼なのか、顔を近づけたり離したりしながら背表紙を凝視しだした。


「はて。こんな本は見たことがないぞ」


 店主は本棚から写本を抜き出し、首をひねりながらページをめくった。


「何年も前からこの店の蔵書は増えておらぬのじゃ。わしの知らない本が紛れ込んでいるだなんて、誰かが無断で店に入ってきて、こっそり本棚に押し込んだのだろうか?」


「僕がこれと同じ本を購入したときも、あなたは『見慣れぬ本じゃのう』などとおっしゃっていましたよ」


 エンツォの指摘にもボケた爺さんは小さな目を見開き、


「ほう」


 などとつぶやいて、手の上の写本を物珍しそうに眺めている。だがその本は、うしろから伸びた白い手にかっさらわれた。


「ジジイ、この本は没収だ」


 写本はあっという間に、少女の声をした暴君の手に収まった。


「カッファレッリ、お金払わなくちゃだめだよ」


 真面目な指摘をするリオに、


「俺様があずかってやるって言ってるんだ。こんな気味のわりぃもん、芸術の都ナポリにふさわしくねぇからな」


「触れるだけで悪影響を受けたりはしないかい?」


 今度はエンツォが不安げに尋ねた。


「ああん?」


 カッファレッリは自分以外の全てを見下すような目線をエンツォに送り、


「クマだかアクマだか知らねえが、敬虔な俺様には効かねえな」


 誰か突っ込んでやれよ、と言いたくなるようなセリフを吐いた。


「その本、どうするの?」


 リオが心配そうに見上げる。


「決まってんだろ。しかるべき人間に報告するんだよ」


 音楽院敷地内の寄宿舎に戻るとカッファレッリは言葉通り、礼拝堂付きの司祭に写本を手渡した。


 それから数日間は何事もなく過ぎた。私もリオも写本のことなど忘れて、日々の勉強に追われていた。


 だが一週間ほど経ったある日、学生全員が大広間に呼び出された。



─ * ─



次回『悪魔召喚を企んだ者は? 写本の作り手が明らかに』です!

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