36、カッファレッリの歌声

 午前中いっぱいアルファベートの練習をし、昼食は寄宿舎に戻って取った。生徒たちの授業時間はそれぞれ異なるので、厨房の前に具をはさんだ小さなパンが並んでいるのだ。私は一つ、リオは二つ食べた。厨房の中では管理人の奥さんの指示の下、近所の女性たちが働いているようだ。


 午後は楽譜の読み方を教わることになっていたので、また教室棟に戻った。


 私たちが勉強から解放されたのは数時間後のことだった。ずっと椅子に座っている経験なんて一度もなかった私たちは疲れ果てていた。畑を耕しているほうがマシかも知れない。


「ちょっと外の空気吸いに行こう」


 リオを伴って空中回廊に出ると美しい音楽が聞こえてきた。音楽院では絶え間なく楽器の音がしているが、鑑賞にえうる音楽となっているのは稀なのだ。同じフレーズを何度も反復練習していたり、そろわないアンサンブルの合間に先生の叱責が飛んでいたりと、耳が心地よくなるものではない。


「誰か歌ってるね」


 リオの言う通り、チェンバロ伴奏と弦楽器のアンサンブルの上で明るい歌声が響いていた。私が大理石の手すりをつかんで身を乗り出して音の出どころを探していると、リオが斜め向かいの棟を指さした。


「あそこにホールみたいなのがあるよ!」


 ガラス窓の中は吹き抜けになっているようで、高い天井からシャンデリアが下がっているのが見える。


「あのホール、どうやって行くんだろう?」


 ヴァイオリンの速弾きに心が浮き立ち、私は軽やかなリズムに引き寄せられていった。


 空中回廊をリオと二人で歩いていると突然、壁の扉がひらいた。隙間から音楽があふれ出してくる。


「オリヴィエーロ、リオネッロ、いいところに来たね」


 顔を出したのは朝食のときカッファレッリの隣に座っていたおデブさんだった。扉の先はホールの二階部分に取り付けられた、壁の内周を巡る回廊のようだ。彼のうしろに吊るされたシャンデリアのロウソクは舞台側の数本が灯されているだけ。ホール内は窓から差し込む午後の陽にやわらかく照らされていた。


「次回の学外向け演奏会のリハーサル中なんだ。ちょうどカッファレッリが歌ってるところだよ」


 私とリオはおデブの少年に導かれてホール内の回廊に足を踏み入れた。手すりの間から舞台上を見下ろすとチェンバロの前に座っているのは今朝、私たちに声をかけてくれたレーオ先生だった。彼がひとつうなずくと同時に、止まっていた音楽が再開する。ヴァイオリンの生徒二人が息を合わせて優雅な旋律を奏でる。


「なんだか舞曲みたい」


 私の感想に、


「三拍子だからかな?」


 ぽっちゃりくんが答える。彼もちゃんと音楽の知識があるようだ。これからは心の中でデブ呼ばわりするのはやめよう。


 舞台から、


「ヴァイオリン、クレッシェンド!」


 という声が聞こえた。レーオ先生はチェンバロを弾きながら演奏指示を出しているようだ。


 盛り上がった前奏が「デクレッシェンド!」の指示と共に終息すると、カッファレッリがわずかに前へ進み出た。


「春の野を吹き抜けるそよ風に

 僕の心を乗せて

 君に想いを届けよう」


 きらびやかな歌声が舞台上に咲いた。花弁が風に吹かれて舞い上がるようにホールを満たし、私の鼓膜へ降り注ぐ。目の前に花々が咲き乱れる野原と、七色の羽をはばたいて飛び交う妖精たちが見えるようだ。


 私がカッファレッリの歌声に聴き惚れていると、ぽっちゃりくんが真剣な顔でつぶやいた。


「あれっ、いつの間にか短調になってる。レーオ先生の曲って転調が巧みなんだよな」


「これ、レーオ先生が作曲したの?」


 私の問いに、ぽっちゃりくんは舞台から目を離さずにうなずいた。


「そうだよ。彼のカンタータの中のアリアだね」


 太陽が似合いそうなレーオ先生が、こんなに華やかでみやびやかな曲を作るなんて、と思っていたら、


「ちょっと季節外れなんだけど急遽プログラムを入れ替えたから、みんながすでに演奏できる曲ってことで、このアリアになったんだって」


 ぽっちゃりくんは情報通なのかもしれない。


 短い間奏をはさんで、曲は次の部分へ進んでいくようだ。


「フィッリ、僕の宝物。

 僕の心は君だけのもの。

 どうか受け取ってくれ」


 声に切ない響きが加わって、ぎゅっと胸をしめつけられる。なんて甘い歌い方をするんだろう。


 手すりの間から舞台上のカッファレッリを見下ろすと、切ない表情をしていてドキッとしてしまった。


 弦楽器が前奏の旋律を繰り返すと、また最初のフレーズが戻ってきた。


「春の野を吹き抜けるそよ風に

 僕の心を乗せて

 君に想いを届けよう」


 私は歌詞に耳を傾けながら、


「これ、さっき歌ってたのと同じ? ちょっと違うメロディ?」


 とぽっちゃりくんに尋ねた。


「ダ・カーポ・アリアっていってABA´形式になってるんだ。つまりB部分の最後まで演奏したらもう一度カーポに戻るんだよ。で、歌手は作曲家の書いたメロディを編曲して歌う。ここが聴かせどころだ」


 先輩らしく説明してくれた。


 カッファレッリの歌声は高く舞い上がり、きらきらと光が舞い落ちるようにこまかい音符を歌って降りてきた。駆け上がっても駆け下りても彼の音色は魅力を失わず、私はますます惹きつけられる。歌い上げるときは恋の躍動感を、声量を抑えたときは愛する人への優しさを見事に表していた。


「すごい」


 思わず口にした私に、


「だろ? あれが俺たちの目指す姿さ」


 ぽっちゃりくんは自慢げだ。


 だがカッファレッリはまだ学生なのだ。歌とはどれほど奥深い芸術なのだろう。


 曲が終わると私は感嘆のため息をついた。


 私のうしろでリオがぽつりと、


「僕、負けないから」


 とこぼした。


 舞台上ではレーオ先生が、


「問題なさそうだな。じゃあ次、リコーダーソナタに行こう」


 チェンバロの上の楽譜を取り換えている。


 カッファレッリが舞台袖に消えるのを見届けると、 


「オリヴィエーロ。僕、図書室に行ってくるから」


 リオはホールから出て行った。




─ * ─




図書室には、あの陰気な先輩エンツォがいたはず。

リオは何を考えているのか?


次回『錬金術師フラメルの写本と悪魔召喚』です。

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