35、レオナルド・レーオ先生登場

「知っているか? 神様が叶えてくれない願いでも聞き入れてくれる存在がいることを」


 言葉を続ける青年のほうを振り向くことなく、リオはふるふると首を振った。


 私はリオの肩越しに声の主を盗み見る。やや目じりの下がった目元に日焼けしていない白い肌、細い鼻梁からは神経質な印象を受けるものの美男子と言って差し支えない。だが彼の黒い瞳は闇一色で一切の光を拒絶していた。


 相づちさえ打たないリオに青年は言葉を重ねた。


「僕はエンツォ。いつもは大体図書室にいる。消したい奴がいるなら僕に会いに来い。とっておきの儀式を教えてやるから」


 エンツォはクククと耳障りな忍び笑いをもらして席を立つと、盆を配膳台に返却して食堂を出ていった。


 一方私たちは食後の祈りを終えてから自室に戻った。


 だが私は屋根裏へ上がる前にカッファレッリの部屋を訪ねた。


 扉をたたくと、


「誰だ?」


 中から聞こえる不機嫌そうな声に、


「オリヴィエーロとリオネッロです」


 と答えながら扉を開ける。


「ボクたち、あなたから歌を教わるようにってポルポラ先生に言われたんだ」 


「ああん? 俺様は今眠いんだ」


 カッファレッリはベッドの上にいた。


 リオも隣から参戦してくれる。


「あと音楽院の中も案内してもらえって」


 だがカッファレッリはベッドの上でごろんと寝返りを打った。


「午後からにしろよ」


「なんで」


 とつい口調が強くなる私。


「俺様のリハーサル、午後からだから」


 実に自己中心的な答えが返ってきた。


「歌手にとって睡眠は不可欠なんだぜ?」


「じゃあ夜更かししなきゃいいじゃん」


 私のもっともな指摘には答えず、


「案内してもらうのなんかほかの奴に頼めばいいだろ? 守衛でも誰でもできることを俺様がやる必要はねえよ」


 偉そうにのたまった。


 朝食のときにしゃべりまくっていた声の高いデブにでもお願いするしかないんだろうか。名前も知らない先輩にものを頼むなんて気が引ける。あれこれ考えたまま扉の前に立ち尽くしていると、


「音楽院でする勉強は歌の実技だけじゃないんだぜ。守衛に初登校だって言ってこい。どこかの教室に突っ込んでくれるよ」


 カッファレッリが適当な解決策を示した。


「分かった」


 私が扉を閉めようとすると、カッファレッリが起き上がった。 


「お前ら音楽院の場所は分かるんだよな?」


「うん、ポルポラ先生に声を聴いてもらったとき行ったから」


「それ、外から行ったんだろ? 寄宿舎の二階から渡り廊下で教室棟につながってるんだぜ」


 それは知らなかった。私はリオと並んで廊下を歩きながら、


「カッファレッリって面倒見が悪いわけでもなさそうだよね」


「そう?」


 リオの冷たい声が返ってきた。二人には仲良くしてほしいけれど、原因は私にあるような気がする。




 結局私たちは館内で迷い、敷地外に出てから音楽院へ向かった。


 玄関前に到着した私たちは逡巡しゅんじゅんしていた。手続きはジャンが済ませたから正式に入学できたのだろうけれど、入ってよいものか戸惑ってしまう。


 勇気を出して扉を押そうとしたとき、


「あれ? 君たちどこの子だい?」


 うしろから声がかかった。振り返ると三十歳くらいに見える大人の男性が立っていた。健康的な小麦肌と凛々しい眉の下に輝く瞳が精悍せいかんな印象だ。


「ボクたち、今日からここで勉強することになったんです」


 私とリオは自己紹介し、ポルポラ先生に声を聴いてもらって入学を認められたこと、カッファレッリに教われと言われたことを話した。


「そうかそうか、新しい生徒さんか」


 男性の顔に親しみやすい笑みが浮かんだ。


「ようこそ、小さな音楽家ムジコたち。僕は音楽院で教えているレオナルド・レーオだ」


 先生だった!


「カッファレッリを紹介されたのか。それはちょっと大変だね」


 レーオ先生はフフと笑いながら扉を開けた。


「先輩が後輩を指導するのは、音楽院では珍しいことじゃないんだけどね。教えることで正しいやり方と間違ったやり方を聞き分ける能力が身に付くし、テクニックを言語化する力が育つだろう?」


 ふんふんと話を聞くことしかできない私たちに背を向け、レーオ先生は守衛さんに声をかけに行った。大小二つの鍵が下がった輪を指に引っかけて戻ってくると、


「授業まで少し時間があるから話そうか」


 私たちを伴って教室へ向かった。


 階段横の扉を開けると、中央に古びた椅子が五脚ほど輪を描くように配置されている。その前には木の譜面台。教室奥には鍵盤楽器チェンバロも置かれていた。  


「適当に座って」


 言われたままに私とリオが腰を下ろすあいだ、レーオ先生は壁際に並んだ木製キャビネットの鍵を開けていた。


「君たち文字の読み書きはできる?」


 私は無言で首を振り、リオは、


「読むのは少し」


 と自信なさそうに答えた。


「楽譜は読める?」


「なんとなく」


 リオがまたもや不安そうに返事をする。


「じゃあこれからたくさん新しいことを学べて楽しいね」


 レーオ先生はキャビネットから石盤を出し、譜面台に乗せると石筆でMUSICAと書いた。


「読めるかな?」


 尋ねられたリオは、


「ム、ムシ――」


 と首をひねっていたが、ぽんと手をたたいた。


「あっ、音楽ムジカ!」 


「当たりだ」


 レーオ先生はにっこりと笑って、MUSICA音楽の横にCANTOと綴った。


「じゃあこれは?」


「カン――カントだね!」


「よくできました。じゃあちょっと難しいの行くか」


 先生は口の中で、


「難しい単語、そうだな……、もうちょっと難しい――」


 とつぶやいていたが、やがてDIFFICILEと記した。


「これは読めるかな?」


 リオは指さされた文字を凝視し、


「ディ……ディフィ――」


 と首をひねっている。私はハッとして、


難しいディッフィーチレ!?」


 思わず尋ねていた。


「おお、正解だ。君は字を読めないと言っていたけれど、とても勘が鋭いようだね」


 褒められた私は複雑な気持ちで目をそらした。だって先生は単語を書く前に「もっと難しい単語パローラ・ピウ・ディッフィーチレ」とつぶやいていたのだ。


「二人とも音楽の勉強と並行して国語の授業にも出た方がよさそうだな」


 文字を学べる喜びにときめきながら、私はしっかりとうなずいた。一方リオは、おねだりするような上目遣いになって、


「僕、教会で歌ってたとき歌詞は耳から覚えられたよ」


「プロになってからもずっと誰かに発音を尋ねる歌手になるつもりかい?」


 レーオ先生は苦笑した。私がすかさず、


「リオ、私が覚えて教えてあげる」


 と言うと、リオはプライドを傷つけられたのか、


「自分で勉強します」


 と宣言した。先生は満足そうにうなずいてから、


「アルファベートを覚えることが正しい発音で歌うことにもつながるからね。君たちはローマあたりの出身かい?」


「どうして分かったんですか?」


 驚く私に、レーオ先生はニッと笑って、


「君たちが話している言葉のアクセントから」


「えーっ、僕たちなまってる!?」


 リオはいささかショックを受けたようだ。


「ハハハ、みんなそれぞれお国訛りがあるものさ」


「そういえば僕、街の人たちの言葉、ちょっと聞き取れなかったかも」


 リオの言う通り、ナポリの街角で商店の人同士が交わす会話は方言がきつすぎて理解しづらい。


「ああ、ナポリ方言だな。あれは真似しなくていい。君たちが歌うときに使うのはトスカーナ大公国の発音だ」


「トスカーナ大公国?」


 私がオウム返しに問うとレーオ先生は満足げにうなずいた。


「君たちが暮らしていた教皇領のすぐ北にある国だ」


「なんでトスカーナ方言で歌うんですか?」


「よい質問だ。今から約四百年前、ダンテ・アリギエーリがトスカーナ方言で著した『神曲』が標準イタリア語となったからなんだ」


 おお、なんだか勉強っぽくなってきた! 目を輝かせる私の横で、リオはあくびをしていた。


「ハハハ、ちょっと退屈だったかな」


 レーオ先生が笑ったとき、扉があいて生徒が入ってきた。挨拶をする彼に先生が、私たちを図書室横の教室に連れていくよう頼む。


「ああ、詩人の先生が小さい子たちに文字も教えてるんでしたっけ」


 私たちを先導して構内を歩きながら年長の学生が、台本作家を目指している詩人の先生について教えてくれた。音楽院で教えるかたわらテノールとして歌も学んでいるそうだ。


「そうそう、ここが図書室だよ」


 目的の教室に着く前に、彼は両開きの扉の前で足を止めた。


「写譜された楽譜や詩集が置いてある。貴重なものばかりだから持ち出しは禁止されているけれどね」


 少しだけ扉をひらいて中をのぞかせてくれた。手前に座っている司書らしき人と先輩が会話している間に、私は広い室内を見回した。冬の朝の透き通った光が差し込む窓辺にエンツォがいた。




─ * ─




次回『カッファレッリの歌声』

オリヴィア、リハーサルを見学できました!

カッファレッリの歌声はいかほどのものなのか?


レオナルド・レーオ(Leonardo Leo)も実在の作曲家です。

興味がある人へ朗報! YouTubeに彼のオペラ『L'Alidoro』が上がっています!

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