34、オリヴィア、まさかのモテ期到来!?

「どうしてボクをあのピッポとかいう男から助けてくれたの?」


「ん? 俺様あいつ嫌いだし」


 カッファレッリはちぎったパンを口に放り込みながら、私の顔を見もせずに答えた。


「みんなピッポは嫌いだよ」


 カッファレッリの横から口を出したのは丸顔の少年だった。


「トランペットがうまいわけでもないのに腕力が強いからって俺たちを馬鹿にしてさ。音楽院に演奏が下手な奴の居場所なんかないっつーの」


 音楽の才能がなければ存在価値さえ認められない場所、それが音楽院なのだと私は悟った。


 太り気味の少年は、コロッとした短い指でパンをちぎりながら甲高い声で話し続ける。


「大体あいつ、先月の本番で自分のソロ度忘れして、驚いたチェンバロの子が焦って繰り返しダ・カーポ忘れちゃって、弦楽器とずれて曲が途中で止まっちゃったんだよ」


 これがカッファレッリの言っていた、自分の弾く部分を忘れて突っ立ってしまった話か。本番で演奏内容が飛ぶなんて怖すぎる。


「外部向け演奏会で失敗すると援助とか寄付とか減るんでしょ、院長が頭抱えてたって。それで今月のコンサートはピッポの奴、自信がないから自分からソロを降りたんだ」


 声の高いデブは一人でしゃべり続けた。


「奴が降りたことでプログラム自体が変更になってさ、カッファレッリが歌うことになったんだ。きっとホールは満員になるぞ!」


「カッファレッリが出るならそのコンサート、ボク聴きに行きたいな」


 私は身を乗り出した。


「フハハハハ!」


 それまで黙っていたカッファレッリが偉そうな笑い声を上げた。


「俺様の歌に酔いしれるがいい!」


「でも」


 心配そうな声はデブの更に隣に座っている少年から上がった。


「今回、内部生の席はないと思うよ」


 彼の説明によると、音楽院の演奏会では事前にチケットが販売されるそうだ。空席が出た場合は内部の学生が無料で聴ける仕組みだと言う。


「そうかぁ、満席になっちゃうか」


 私ががっかりした声を出すと、


「楽屋に入れてもらえば聞こえるかも」


 デブくんが真っ先に声を上げた。


「ホール横の教室にいたほうが聞こえるんじゃないか?」

「いや、入り口に立ってるほうがいいだろ」

「出入りする客の邪魔になるって追い出されるよ。それよりさ――」


 皆、口々にしゃべりだす。歌唱訓練を受けているせいか、彼らの声はよく通る。声変わり前の少年より重みのある声質で、かといって女性のやわらかさには欠ける彼らの声が同時に響くと、正直うるさい。


 隣の長テーブルで食事をしている寄宿生の何人かが、鬱陶しそうに振り返った。


 なんだか気まずくなって縮こまる私の肩に、カッファレッリが腕を回した。


「まあ今回、俺様が歌うのはアリア一曲だけだ。おそらく今後たっぷり長時間、俺様の歌を聴く機会があるさ」


 デブくんが、そうそう、とうなずく。


「カッファレッリがソロを務める本番で俺たち合唱ってことが多いからさ、リハーサル中にたくさん聴けるよ」


 私は教会でリオが合唱にいたときソロを歌っていた男性ソプラノを思い出して、あんな感じかと納得した。だが私の望みは――


「ボク、うしろで合唱を歌うんじゃなくてカッファレッリとデュエットしたいな」


 リオと一緒に歌ったときに味わった、声がとけあう快感を思い出す。カッファレッリとも声を重ねたい。


 だがデブはムッとした。


「カッファレッリとデュエットできるのは、同じくらいの力量がある歌手だけだね」


「ボクは真剣に勉強して、カッファレッリの隣に立つもん」


 デブを見据えて言い返す。私を抱き寄せたままのカッファレッリが、手のひらでぽんぽんと私の肩を叩いた。


「お前なかなか見どころあるじゃねえか。ピッポの奴も牛乳漬けにしたっていうし。俺様、熱い奴は嫌いじゃないぜ」


 私の蛮行は思った通りカッファレッリに知られていた。


「だがまあ今後は、その余りある熱量は全部歌にそそぐようにしろよ」


 口調こそ横柄だが、私をのぞきこんだ彼の瞳は優しかった。


「はい。気を付けます」


「素直にしてるとかわいいな、お前」


 にやりと笑ったカッファレッリが額を寄せてきた。吐息がかかりそうな距離まで綺麗な顔が近づいて、私の鼓動は早くなる。男の子同士ってこんなに距離が近いの!?


「しかもよく見るとお前、顔もかわいいじゃねえか。女装したらそこらへんの女より美人だぜ?」


 待って待って! 色々バレかけてる!?


「ボク、女装なんてしないもん!」


 私は慌てて大きな声で否定した。


「残念でしたー」


 カッファレッリがあざけるように舌を出す。


「俺たちは大体、オペラデビューは女役って決まってるんだぜ」


「そうなの!?」


 全く知らなかった。


「ああ、若い俺らが女の恰好すると、本当に少女みたいでそそるからだろ」


 平然と言い放つ彼の横顔に、わだかまりなど一切ない。


「俺様たちの仕事は観客をその気にさせることさ」


 この人は自分の魅せ方を心得ているのだと、私は確信した。


「ほとんどの客は歌手の顔しか見ていない。だが覚えとけよ」


 彼の顔に浮かんでいた嘲笑が消えた。


「四十になっても五十になっても舞台に立てるベテランってのは、本物のテクニックを身に着けてるんだ」


 真面目な横顔は、彼がどれだけ真摯に音楽と向き合っているかを物語るようだ。私は肩を抱かれたまま、鼻筋がすっと通った男らしい彼の横顔に憧れのまなざしを向けていた。


「ねえ、いつまでオリヴィエーロを抱きしめてるの?」


 怒りを含んだ声がすぐ隣から聞こえて我に返る。すっかりリオのことを忘れていた。カッファレッリの存在感は異彩を放っている。真夏の太陽のように辺りを照らし出し、周囲の人々をすべてかげにしてしまう。


「ハハハ、こいつまたきやがった」


 カッファレッリが快活な笑い声を上げたとき、少年の一人が声をかけた。


「なあカッファレッリ、バレリーナのリリちゃんとリハーサル抜け出してデートしたんだろ? 詳しく聞かせてくれよ」


 仲間にせがまれて、カッファレッリは少年たちとの会話に戻って行った。


「あの男が憎いか?」


 ぞっとするほど陰気な声が聞こえたのは、その直後だった。びくんと体を震わせたリオの向こう――ベンチの端から、中性的な低い声が聞こえてきた。


「知っているか? 神様が叶えてくれない願いでも聞き入れてくれる存在がいることを」

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