24、ようこそ、ナポリ王国へ

「これがナポリ王国――」


 下船するのも忘れて私は船の上に立ち尽くしていた。


 暮れなずむ空に黒々と、大きな山が影を描いている。裾野に広がる無数の建物は、一様にあかく染め上げられていた。


 隣でリオもぽかんと口を開け、


「おっきな山」


 とつぶやいた。


「ヴェスヴィオ山です」


 ジャンにしてはいささか神妙な口調だ。


「百年近く前に噴火して数千人が犠牲になった」


「ええっ!?」


 リオがおびえた声を上げる。


「もう噴火しないよね?」


「さあ? いつ火を噴くか誰にも分かりませんね」


 ジャンの言葉に私たちは、恐ろしいところに来てしまったと震えあがった。


「でも」


 と私は眼下に広がる家々を見下ろした。ヴェスヴィオ山の裾野から海岸まで建物に埋め尽くされている。


「危険なのになんでこんなに大勢の人が暮らしているの?」


「ナポリにはすべてがあるからですよ!」


 ジャンは瞳に情熱を宿して両手を広げた。


「音楽や美術といった芸術の中心地というだけではない。古代から脈々と受け継がれてきた歴史と伝統、美しい海に温暖な気候、おいしい食べ物! たとえ火山灰に骨をうずめることになっても、この街で生きる価値がある!」


 ジャンに乗せられたリオは高揚し、目を輝かせた。


「僕たちは芸術の中心地で勉強できるんだ!」


「まあ宗教音楽に関しては、あなたたちのローマのほうが中心かも知れませんがね」


 ジャンは落ち着きを取り戻した。行ったこともないローマを「あなたたちの」などと言われてもしっくりこない。


「私の見たところ現在、音楽の都と呼べるのはここナポリとローマ、それからヴェネツィアの三都市でしょうな」


 またジャンの講義が始まったようだ。下船した私とリオは桟橋を歩きながら、おとなしく耳を傾けた。


「ヴェネツィア楽派の明るく洗練された音楽も魅力的ですが、私はナポリの哀愁を含んだ音を愛している」


 目の前に広がる喧噪からはとても、哀愁なんて想像できなかった。


「ここナポリこそ、今ヨーロッパ中を熱狂の渦に巻き込んでいるオペラを学ぶにふさわしい土地です。ナポリ楽派の人気は国際的ですからな。宗教音楽に偏ったローマで音楽を学ぶより何倍も得難い経験を積めるでしょう」


 ジャンはなめらかな弁舌でナポリを褒めちぎる。


 ローマでも音楽を学べたのなら、恐ろしい火山に見下ろされた遠い土地まで来なくてもよかったんじゃないかしら、などと思っていたら人ごみの中から商人風の小男が近づいてきた。


「シニョール・フィオレンツァ、お待ちしておりました」


 とジャンを見上げてから、私とリオに視線を落とした。


「おや? 少年は二人でしたかな?」


「事情が変わりましてな」


「そうでしたか。いやいや何も問題ございませんよ。ベッドを二つ用意させますから。二人とも大層な美少年で、こりゃ将来の人気も確実ですな」


 小男が笑うと、彼のふくらんだ頬が西日を照り返した。


「二人の声が育てば、ですがな」


 ジャンはさりげなく反論した。音楽愛好家ではない人たちにとって歌手なんて、顔が良ければ売れると思われているのだ。唇をかんでうつむいた私をのぞきこむように、ジャンは少し腰をかがめた。


「こちら、君たちが今夜泊まる宿の主人です。ニコラ・ポルポラに声を聴いてもらえる日が決まったら迎えにいくから、それまでいい子にして待っていなさい」


 そうか、ジャンとは一旦ここでお別れなのか。彼を信頼していたわけではないが、またほかの大人の手にゆだねられると思うと不安がせり上がってきた。リオも同じ気持ちのようで、私とつないでいた手に力がこもる。


「綺麗な少年たち、心配ご無用ですよ。うちには楽器もあるし、中庭で自由に歌えますから」


 小男はすぐに私たちの変化に気付き、また笑顔を作った。


 通りの向こうに馬車が姿を現すと、ジャンは片手を上げた。


「迎えが来たようです。それでは皆さん、良き夕刻をブォナ・セラータ


 ジャンが姿を消すと、小男の態度が変わるんじゃないかと危惧していたが、全くそんなことはなかった。


「さあ、美しい坊やたち。我々は歩いて宿に向かいましょう。なぁに、すぐ着きますからご安心を」


 私たちの歩幅を気遣ってか、男はゆっくりと歩を進めた。


 宿に着くと男の指示のもと、中庭に面した部屋にベッドが運び込まれていった。


 仕事を言いつけられないのが落ち着かなくて私はつい、


「ボクにできる仕事はありますか?」


 などと尋ねてしまった。


「何をおっしゃいますか。未来の名歌手に仕事など言いつけたらフィオレンツァさんに怒られてしまいますよ」


 宿の主人は相変わらずほくほくと笑っていた。 


 夕食はたこのトマトスープ煮込みだった。玉ねぎやセロリなどの香味野菜とオリーブオイルの香りが混ざりあって、蛸の旨味を引き立てている。窯で焼いたパンは香ばしく、表面は固くても中はすっと溶ける不思議な食べ心地で最高だった。


 その夜は旅の疲れのせいか、泥のように眠った。


 翌々日、ようやくナポリの空気にも慣れてきたころ、ジャンがひょっこりと姿を現した。


「ニコラ・ポルポラ氏から連絡がありました。今日の午後、彼が以前教えていたサントノフリオ音楽院に立ち寄るそうです。君たちの声を聴いてもらえるチャンスですよ」


 宿の主人によって受付に呼び出された私とリオは、ジャンの言葉に息を呑んだ。ついにこの時が来たのだ。




─ * ─




次回、ニコラ・ポルポラ登場!

ちなみに実在する作曲家です。バッハと同世代ですよ~♪


地中海の港が夕焼けに染まる時間帯の写真を近況ノートにUPしました。

https://kakuyomu.jp/users/Velvettino/news/16817330669146423036

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