25、音楽院へ行こう

「服装はこのままでいいですか?」


 私は古びたジャケットと半ズボンを指差して尋ねた。


「構いませんよ。学費を払わない貧乏人枠なのに、あまり綺麗な格好をしているのもどうかと思いますからね」


 ジャンは私たちを貧乏人扱いした。彼が身に着けた刺繡の入った服や袖口からのぞく贅沢なレースを見れば私たちとの差は歴然としているのだが、それでもいい気分はしない。


 私とリオは手をつないで、ジャンのあとについてナポリの街を歩いた。大勢の人が行き交い、土埃を上げて馬車が通り過ぎる大通りを歩いていくと、見上げるほど大きな城門が現れた。二つの塔に挟まれた大理石の城門をくぐる。にぎわう道の先、左手に宮殿と見まごう重厚な建物が見えてきた。


「あれが音楽院?」


「そっちはナポリ王国の裁判所や評議会が入っている建物ですよ。地下牢もある」


 ジャンはにやりと笑って私たちを震え上がらせてから、


「サントノフリオ音楽院はあちらです」


 と右手前方を示した。管楽器の音や甲高いソプラノの歌声が聞こえてきて、私たちにもそれが目指す建物だと知れた。 


 ジャンが守衛らしき男に声をかけると、すでに話が通っていたようで、すんなり建物に入れてもらえた。


 幾何学模様を描くフロアタイルが日差しを反射し、白い壁には音楽家たちの肖像画が並んでいる。大理石の階段を登っていると、外まで漏れていたけたたましい管楽器の旋律に、様々な弦楽器の音が混ざってきた。


「すごいね! いろんな楽器の音が聞こえるよ!」


 リオははしゃいでいるが、私は不安になった。


「こんなところで歌の練習をするなんて、周りの音につられちゃいそう」


 小声でつぶやいたつもりが、前を行くジャンにも聞こえていたようだ。


「オリヴィエーロの言う通り、このような環境では生徒たちの正しい音感が育たないのではないかと、私も危惧しているんです」


「年々生徒が増えてのう」


 ジャンの隣を歩く守衛さんが溜め息をついた。


「部屋数が足りないんですわ」


 外から見た音楽院は四階立てくらいの立派な建物だったはずだ。こんな大きな建物の部屋が足りなくなるくらい、大勢の子供たちが音楽を学んでいるなんて、やっぱりナポリってすごい。しかもジャンの話によると、音楽院は街に複数あると言う。


 守衛さんが重そうな扉を開けると、中庭を見下ろせる回廊に出た。冬とはいえ強い日差しを受けてナツメヤシの葉が揺れる様子は、南国のようだ。大理石の手すりから身を乗り出す間もなく、私たちはまた建物の中に入った。


「まだ先生マエストロはいらっしゃっていないようですね」


 天井の高い部屋に入った守衛さんは、扉のところに立ったまま私たちを室内に通した。


「声をあたためて待っていれば、じきに来なさるでしょう」


 守衛さんが出ていくと、リオは部屋のすみへ走って行った。


「楽器が二つもあるよ!」


「これはオルガンだよね。教会で見たことあるもん」


 私は縦型の木箱のような楽器に近寄った。


「それはポジティフオルガンですね」


 ジャンが説明してくれる。


「あっちはチェンバロです」


 と指さしたのは、大きな三角形の箱を三本の脚に乗せたような楽器だった。


 ジャンは三角形の天板を持ち上げ、続いて鍵盤の上を覆う蓋を開けた。


「調律は――」


 鍵盤に指をすべらせて適当に和音を弾くと、ギターの弦をはじいたかのように軽やかな音色が舞い上がった。高い天井の下、音の粒が踊っているみたいだ。


「大体あってますね。さ、二人とも」


 ジャンが私たちを見た。


「ポルポラ氏が来る前にウォーミングアップをしましょう」


「ジャンおじさん、楽器弾けたんだね! ちょっとかっこよく見えるよ!」


 リオは褒めたつもりなのだろうが、ジャンは苦笑した。


 私たちは彼の弾く音階に合わせて母音歌唱ヴォカリーズをした。中低音をささやくように歌っていたリオは、音域が上がるにつれて声量を増していく。やがて私には出せない高音に到達すると、気持ちよさそうに歌い上げた。


 リオの声は高い天井に漂う雲のように、広い部屋を満たした。


「ふむ、リオネッロ君の声はどうもふわふわしすぎている」


 だがジャンは苦言を呈した。


「オリヴィエーロは音程がフラットしがちですね」


 私のほうにも指摘が飛んできた。


「もっと音程に気を付けて歌いなさいってこと?」

「僕はどうしたらいいの?」


 私とリオが同時に質問すると、


「さあ?」


 ジャンは首をかしげた。


「解決方法が分かるなら、私も声楽教師になれますよ」


 彼が苦笑したところで勢いよく扉が開き、四十くらいの男が慌ただしく部屋へ入ってきた。


「すっかり遅くなってしまった。道が混んでいて馬車が走れなくてね」 


 彼がニコラ・ポルポラだろうか? 挨拶しようとする私たちを手で制して、彼は首元のスカーフをゆるめながら、


「ジャンバッティスタ、君の手紙を読んだよ。もう事が済んでるっていうのは穏やかじゃないね」


「いやぁ、彼らの母親にせかされまして」


 ジャンの言葉が終わらぬうちに、男はまた次の言葉をたたみかけた。


「君の耳は確かだからうるさいことを言うつもりはないが、順番が逆だと言っているんだ」


「そうは言ってもポルポラ先生、子供を連れてナポリまで行ったり来たりするのはなかなか難儀ですよ」


 どうやらポルポラ氏は私たちの声を聴いてお墨付きを与えてから、手術をすべきだと言ってくれているようだ。少年たちの将来を考えてくれる、ジャンとは違うちゃんとした大人なのかもしれない。


 ポルポラ氏は壁際に置いてあった木の椅子にどっかりと腰を下ろし、


「確かに旅は金も時間もかかるがな」


 と苦い顔でうなずいた。


「それで先生、予定通り二人の歌を聴いてもらえますよね?」


 ジャンが念を押し、言葉を続けた。


「この学校でも先生の母校でも、二人を突っ込んで欲しいんですよ」


「とにかく二人の声を聴かせてくれ。話はそれからだ。伴奏は君が弾くのかね?」


 ポルポラ氏の問いに、ジャンは首を振った。


「彼らはアカペラで聖歌を歌いますので」


「よし」


 ポルポラ氏は気合を入れるように自分の両ひざをたたくと、私たちに向き直った。


「歌いたまえ」



─ * ─



次回、オリヴィアが歌います。

プロに声を聴いてもらうという緊張のシーン。うまくいくかな?


近況ノートにイタリアの音楽院で撮影したチェンバロの写真を載せました。

https://kakuyomu.jp/users/Velvettino/news/16817330669193275851

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