06、リオネッロを襲った怪しい事故

 暑い夏が去り、季節は移ろい秋が訪れる。オリーブの実が熟して、次第に黄色く色づいてゆく。私も十一歳になった。


 リオの身に降りかかるかもしれない残酷な外科手術の話など、私は忘れかけていた。


 だが十月も終わりに差し掛かった水曜日、聖歌隊の練習に行ったきり、リオは帰ってこなかった。


 夕食になっても戻らないリオを心配する私に、アンナおばさんは面倒くさそうに告げた。


「リオネッロはパオロんちで飼ってる豚に突進されて怪我したんだよ」


 私は危うく手にしたスプーンを取り落としそうになった。


「それでリオは無事なの!?」


「この村にはちゃんと診られる医者がいないから、近くの町まで連れてってもらってるよ」


「え?」


 誰に連れて行ってもらったの? ルイジおじさんは今も私の向かいで、黙ったままスープを口に運んでいる。彼が寡黙なのはいつものことだが、私と目を合わせようともしない。


 そもそもパオロって誰? 何か妙だ。


 得体の知れない胸騒ぎが私を襲う。おなかの底から黒い霧のような不安が立ち昇ってくる。


「なんでリオは豚なんかに激突されたの?」


「知らないね。とっとと食べちまいな!」


 アンナの怒声に慣れっこになった私は、彼女の苛立ちなど意に介さず食い下がった。


「だってリオは聖歌隊の練習で教会に行ったじゃない」


「帰りに仲間の家にでも寄ったんじゃないかい?」


 友達の家に行ったら豚とぶつかるってどういう状況よ?


 この人たち、私をだまそうとしているに違いない!


「私、お見舞いに行く! リオは今どこにいるの?」


 私は勢いよく立ち上がった。


「オリヴィア、座るんだ!」


 アンナも立ち上がると、こぶしを握った。


「リオネッロのところに行くことは許さないよ!」


 振り上げられた彼女の腕に、反射的に身がすくむ。言うことを聞かなければ本気で私を殴るつもりだ。


 私は観念して椅子に座った。夜の村へ走り出たところで、リオの居場所が分からなければ会いに行くことなどできない。  


 ルイジおじさんは早々に食べ終わると、逃げるように工房へ消えてしまった。私たちがうるさくしたからだろうか?




 結局、夜遅くなってもリオは帰ってこなかった。


 ねばつくような不安にからめとられて、息が止まりそうだ。


 なかなか寝つけず浅い眠りと覚醒の狭間をさまよっていた私は、夜明け近くに馬のひづめの音で目を覚ました。


 ベッド脇の鎧戸を押し開けると、白み始めた空の下、近づいてくる馬車が見えた。


 なんで馬車?


 しんと冷えた朝の空気に頬をさらしながら、私は自分の目を疑って二度三度と瞬きを繰り返した。


 馬に荷車を引かせることはあっても、馬車なんて裕福な商人や貴族の乗り物だ。辺鄙な田舎の村では見かけない。


 その間にも馬車は、村はずれの我が家に近づいてくる。やがて朽ちかけた門の前で止まると、ドアが開いて一人の男が降りてきた。その姿には見覚えが――いやそれよりも、


「リオ!」


 男が何者かなど、一瞬にして意識の外へ吹き飛んだ。男の腕には眠ったままのリオが抱かれていたのだ。


 私はすぐにベッドから抜け出した。


「冷たっ」


 慌てすぎて素足のまま石の床に降りてしまった。


 ベッド横の椅子にかけたままのスカートを手早く履き、ベルト代わりの紐をしばる。弱い朝日の中で目をこらし、布の靴をつま先に引っ掛ける。壁にかけてあった毛糸編みのケープを肩に巻いたとき、頭上で複数の足音がした。この家に二階などないのに――


「そうだ、屋根裏部屋!」


 二週間くらい前、最近夜になると冷えるからと、ルイジおじさんが毛布を出してくれた。彼は廊下の突き当たりにある古い木戸を開け、梯子のように急な階段を登っていったのだ。


 ケープの端をピンで留める時間も惜しんで、私は部屋から飛び出した。


 開いたままの木戸をすり抜け、階段の一段目に足をかけたとき、大きな足音を響かせてアンナおばさんが降りてきた。


「オリヴィア! なんでこんなに早く起きてるんだい!?」


 非難がましい問いに答える代わりに、


「リオに会わせて!」


 懇願した私に、アンナは舌打ちした。


「見ちまったのかい」


 見てはいけなかったの?


「いいかいオリヴィア、リオネッロはまだ眠っている。今は安静にしてなくちゃいけない時なんだ」


「安静にしてなさいって町のお医者様が言ったの?」


「医者?」


 意外そうに眉を上げてから、アンナは二度三度と首を縦に振った。


「そうそう、お医者様が言ったのさ」


 怪しい。どうすれば嘘つきな大人の口を割ることができるだろうかと、私が次なる質問を考えていると、上から重い足音が響いてきた。階段をきしませて降りてくる男の姿が、彼自身が手にしたランタンの光の中に浮かび上がる。さっき馬車に乗っていた男だ。見覚えがあるのはなぜだろう?


「お疲れ様です、奥様シニョーラ。リオネッロくんはよく眠っているようです」


 そうだ、この気取った話し方。思い出したぞ!


「あんたは――」


 私は震える手で男を指さした。


「ああオリヴィア、こちらの殿方シニョーレがお医者様だよ」


 嘘だ。アンナは確実に嘘をついている。


「アンナおばさん、覚えてないの? この男、半年くらい前に老神父様と一緒にいたじゃん!」


「さて? なんの話かねぇ?」


「どうして嘘をつくの? 何を隠してるの!?」


 必死で問いかけると、アンナの目が吊り上がった。だが大きく開けた口から怒声が飛び出す前に、


「ハハハ、これは愉快だ」


 怪しげな男が胡散臭い笑い声を上げた。


「賢く気丈なお嬢さんですな。怖がりなリオネッロくんより、よほど歌手に向いていそうだ」


「だめだよ」


 アンナおばさんが振り返った。


「このはもう行き先が決まってるんだから」


「え?」


 私は耳を疑った。今、なんて言った?


 不安のかたまりが喉まで上がってきて、息が浅くなる。


「ご安心下さい、奥様シニョーラ


 男は木戸を閉めながら、変わらぬ口調で告げた。


「私のお客さんが求めるのは少年だけですから」


「フン、あたしゃあんたの商売に興味はないけれど、リオネッロは大丈夫なんだろうね? あんな傷ものにしちまって」


 アンナの言葉を脳が拒否しているのか、グワングワンと耳鳴りが始まった。呆然と立ち尽くす私の前で、アンナは階段に至る木戸を錆びついた錠前で閉ざした。


「今さら引き取れないなんて許さないからね?」


「これは手厳しい。しかしあなたが不安に思うのも当然です」


 男はジュストコールのポケットから小さな革袋を取り出した。


「これでリオネッロくんに栄養のあるものでも食べさせてあげなさい」


「うひょっ」


 アンナは間の抜けた声を出して革袋を受け取った。紐を解いて中を確認する。


「ひい、ふう、みい……」


 小声で何やら数えながら、心ここにあらずのまま廊下を去り、自室に消えていった。


 私は背の高い男を見上げた。遥か上でにやつく顔をにらみつける。


「リオに何をしたの?」


「お嬢さん、落ち着いて聞いてください。あれは不幸な事故だった」


「嘘よ。リオは豚とぶつかってなんかいないでしょ」


 男は目を伏せ、静かに首を振った。


「私はその場にいなかったから分からない。ただ言えるのは、すでに事はされた。少年には新しい人生が待っている」


 男はわざと難しい言葉を並べて私をはぐらかした。


 私は木戸から下がる錠前を調べ、


「鍵は持ってないよね、おじさん?」


 期待せずに尋ねた。


「あいにく」


 案の定、男は肩をすくめた。


 ケープを留めるピンで鍵をはずせるだろうか? 試してみる価値はある。私は自分の部屋に向かって暗い廊下を走った。


 ピンを手に部屋を出るとき、鎧戸の向こうに止まったままの馬車が見えた。あの胡散臭い男が、ジュストコールの裾をはためかせ、気取った調子で歩いてゆく。刺繍に使われた金糸が朝日を受けて輝いている。


 その背中を追いかけて、ルイジおじさんが走って行く。二人が何事か話しているのを視界の端にとらえながら、私は部屋を出た。




─ * ─




屋根裏部屋に閉じ込められたリオ。オリヴィアは会いに行けるのか!?

そしてリオの様態は?

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