56、誰も興味がないジャンバッティスタの人生

「ねえ、ジャンバッティスタ。『アントニウスとクレオパトラ』ってセレナータのあらすじ、知ってる?」


 前菜として供されたフレッシュチーズの盛り合わせを前に、私はジャンバッティスタに尋ねた。リオは早速とろけそうにやわらかいチーズを口にして、


「すごいミルクの味がする! 寄宿舎で出るチーズとまるで違う!」


 歓声を上げた。ほかの生徒たちが豆と野菜の煮物だけの日も、私たちだけはチーズや卵、時には鶏肉やハムが添えられる。


 ジャンバッティスタはリオを無視して語りだした。


「まだ見てもない、台本が発売されてもいないセレナータのあらすじなど分かりませんが、史実に基づいた恋物語なら、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れたアントニウスとクレオパトラが二人の愛と精神的な自由を貫く話でしょうね。きっとクレオパトラはローマ帝国に服従するくらいなら気高く自死を選ぶ、そんな筋書きでしょう」


 なるほど、それでクレオパトラは「死へと駆ける」と宣言し、アントニウスは苦しんでいたのかと納得していたら、リオが無邪気な質問をした。


「ねえ、ヴィットーリア・テージって肌の色が濃かったけど何人なにじん?」


「彼女はトスカーナ大公国の都フィレンツェの出身ですが、確か父上がアフリカ系の血を引いているんですよ」


 音楽通のジャンバッティスタがすらすらと答える。


「そっか。アフリカ系なら彼女がクレオパトラ役のほうが合ってない? なんでファリネッリがクレオパトラ?」


 純粋な疑問を投げかけるリオに、ちゃっかりテーブルを囲んでいるカッファレッリが、


「観客は若くて美しい男性ソプラノが女の恰好するのを見たいからに決まってんだろ」


 意地の悪い笑みを浮かべた。ジャンバッティスタまでがワイングラス片手にうなずいて、


「リオネッロ、君たちはせっかく性別を超越した天使になったのですから、それを生かさない手はないのですよ」


 どの口が言うか、と突っ込みたくなるようなことを言い出した。明らかに不満そうな顔をしながらも反論の言葉を探して口をつぐむリオに対し、


「いいですか? 私とて君くらいの年齢の頃は愛らしい金髪の巻き毛に、小鳥のようにさえずる喉、そして薔薇色の頬を持っていたのです」


 芝居がかった調子で語りだす。ワインで喉をしめらせながら、


「でも今やすべてを失った。カツラを脱げば生え際はつむじに達し、ソプラノで歌おうとすればかすれた不気味な裏声が出るだけ。毎朝カミソリを当てているのに夕方には青々とする頬は肌のきめも失われ、香水でさえ隠せないオッサン臭に苦しめられる」


 ジャンバッティスタは酒のせいか妙に饒舌だった。


「失ったって、ジャンおじさん。そんな、僕は――」


 当然ながらリオは抵抗した。カッファレッリはナイフとフォークを使ってムール貝を殻から外す作業に専念している。彼が興味を持つのは美しい俺様と音楽だけなのか。少なくともジャンバッティスタの人生になんて、道端に落ちた犬のクソほどの興味もないのだろう。


「リオネッロ、私だってねぇ、少年のころ聖歌隊で歌っていたら声がかかったんだ。だけど父が反対した。『うちは裕福だ。子供を売り飛ばして歌手にする乞食どもとは違う』ってね」


「お父さんに守ってもらえてよかったね」


 リオが冷たく言い放つが、ワインを飲み干したジャンバッティスタは止まらない。


「私は父の命令で大学に進み、法律を学んだ。だが私の魂はいつも音楽と共にある。歌への憧れと情熱を忘れた日はない」


 困惑したリオは可哀想に、何も言えなくなってしまった。沈黙が気まずくて、私は全く違う話題を出した。


「ねえ、カッファレッリ。役柄と声種の話だけど、ソプラノが女性役、アルトが男性役ってことなのかな」


「必ずしもそうとは言えねえな。法則性があるとしたら、身分の高い役や美しい役は声が高いんじゃねえか?」


 カッファレッリは全く動じることなく、かごの中のパンを手に取りながら答えてくれた。


「そうなんだ。テージさんの声は太くて男性役にぴったりだったよね」


「オリヴィエーロお前、ヴィットーリア・テージの声を真似しようとするなよ?」


「え、どうして」


 私はパンかごに伸ばした手を止めた。


「お前の声はアルトとしては軽い。テージのように胸に響く大きな声じゃないからな。でもそれが魅力だ。最近ちゃんと頭に響くようになってきたんだから、その路線で行け」


 有無を言わさぬ調子で断言された。


「僕はファリネッリを真似していい?」


 リオがしっかりとした声で尋ねた。今までどこかふわふわしていたリオとは異なる意志のこもった声だったが、


「は? できるもんならやってみれば」


 カッファレッリは突き放した。


 だが最近のリオはカッファレッリに負けたりしない。


「君はファリネッリを真似しないの?」


「するもんか。俺様はあんなお上品な歌を歌うのはごめんだね」


 カッファレッリはパスタを巻きつけたフォークを握りしめた。


「俺様は頭ん中お花畑のお貴族様に本物の怒りや悲しみのなんたるかを教えてやるのさ。爪痕つめあとを残すなんてなぁ甘い甘い。聴く者の心をえぐる歌を歌ってやるぜ」


 そうだ、カッファレッリの歌には超絶技巧というほどのテクニックはまだないが、人の心をわし掴む魅力と色香を備えている。心に斬りこんでくる彼の歌声を、私は決して拒絶できないのだ。




 私とリオの演奏会が来週に迫ったある日、レーオ先生からプログラムの順序変更を告げられた。


「オリヴィエーロとリオネッロのデュエット、第二部の後半になったから」


「えっ、下級生は第一部じゃなかったんですか!?」




※ハッセ作曲のセレナータ『マルカントニオとクレオパトラ』は、シェイクスピア作『アントニーとクレオパトラ』と取材した歴史は同じですが、あらすじは違うようです。




─ * ─




次回『本番直前に波乱の気配』です。

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