20、記憶を失ったアンナおばさん
「あんた、あたしの部屋にこんなたくさん、ありがたいメダルが落ちてたんだよ」
傾いた戸口から
ジャンはあからさまに顔をしかめ、後ずさる。彼には目もくれず、アンナはリオを見て嬉しそうな顔をした。
「おや、かわいい坊やだね。どこの子だい?」
想像もしなかった問いに、リオも私もぎょっとする。ルイジおじさんを見上げると、彼も固まっていて全く使えそうにない。
「アンナおばさん、私たちを覚えていないの?」
誰も言葉を発さない中、仕方ないので私が尋ねた。
「知らないねえ、ルイジ――」
ふと夫を見上げたアンナが息を呑んだ。
「ルイジさん、どうしちまったんだい!? いきなりそんな
驚きのあまりメダルを胸に抱き、目を皿のように丸くしている。落ち着かない様子で辺りを見回し、
「それにここはどこだい? お
訳の分からないことを口走る。
記憶を失っているのだろうか? いや、ルイジおじさんのことは認識していた。
「この廃墟みたいなボロ家は誰の家だい?」
あんたの家よ、と心の中で答えながら、私はアンナの背中を追った。彼女は物珍しそうに壁や天井に視線を走らせ、薄暗い家の中へ入ってゆく。よたよたと台所へ向かい、壁際に置いてあった水瓶に何気なく視線を落とした瞬間、
「キャー!」
アンナは若い女性のような悲鳴を上げた。二歩三歩と後退し、たれ下がった尻がテーブルに当たったところで立ち止まった。片手をテーブルについて体を支えると、手の中から銀色のメダルがこぼれ落ち、黒ずんだ天板の上を転がった。
「化けもんが――水瓶の中に化けもんの顔が浮かんでる!」
震える指で水瓶を示した。
私とリオが今朝汲んできた水だ。今夜の夕飯もこの水で煮炊きするんだ。化け物の顔なんか追い出さなきゃ!
私は鼻息荒く水瓶に近づくと、意を決して水の中をのぞきこんだ。
暗い水面に映っているのは、背中まで伸ばしたブルネットの髪を二つ結びにした田舎娘――私自身の顔だ。
「化け物なんていないけど?」
振り返ると、アンナはまだテーブルに後ろ手をついたまま震えていた。
「いや、確かに見たんだ。醜い老婆が映っているのを――」
「えっ、それ自分の顔じゃないの?」
口に出してからしまったと思うが、もう遅い。アンナは激しく
「う、嘘だ」
恐怖に歯を鳴らしながらも、もう一度水瓶の中を見下ろした。
「これがあたしだと言うの!? あたしのつややかな栗色の髪はどこ? 染みひとつなかった肌は? 白い歯も、輝いていた瞳もどこに消えてしまったんだ!?」
長いあいだ憎しみに心を蝕まれ続けたせいか、アンナおばさんの第一印象は醜悪な老婆そのものだった。よく見れば私の母さんと十歳も変わらないだろうと分かる。母さんだって小じわくらいあった。だがアンナの容貌には年齢を重ねたのとは明らかに違う、目をそむけたくなるような異様さが漂っていた。
「ああ! こんな姿でルイジさんの前に出られない!」
アンナは絶叫しながら両手で顔を覆い、のけぞったままよろめいた。
「おっと」
寄りかかられないよう素早く避けた私の横を、うしろから走ってきた大きな影がすり抜けた。
倒れてきたアンナを支えられずに、古い椅子が派手な音を立てて倒れる。彼女の体が床に投げ出される寸前、
「アンナ」
駆け寄ったルイジおじさんが妻の肩を抱きとめた。おじさんのひざの上で、アンナは目をつむったまま動かない。あまりのショックに気を失ったのだろうか。
妻の顔をじっと見下ろすルイジおじさんはいつも通り無表情に見えたが、通り過ぎさまちらりと盗み見たら唇を嚙みしめていた。涙をこらえているのか、悔しがっているのか、悲しんでいるのか私には分からない。それより家の前にジャンを待たせたままだ。私は足早に廊下を戻った。
リオは戸口に立って冷たいまなざしを台所に向けていたが、私に気が付くとすぐに笑顔を浮かべた。きっと私には、胸の内にひそむ汚い感情を見せたくないのだろう。私は気づかないふりしてリオにほほ笑みかけた。
ジャンなんとかは手にした絹のハンカチで盛んに額をぬぐっている。暑くもないし彼自身、汗もかいていないのに恐れおののくあまり挙動不審になっているようだ。つい数週間前に商談をした相手が記憶を失って別人のように振舞うのだから、震えあがるのも当然かも知れない。
「そ、それではリオネッロ、オリヴィエーロ。一週間、遅くとも十日以内には馬車で迎えにきますからね、旅支度をして待っているように」
早口で告げると、表に待たせてあった馬車へと逃げ帰って行った。ステップに足をかけたところで振り返り、
「オリヴィエーロ、ルイジ氏から秘密のものを受け取るように」
「秘密のもの?」
おうむ返しに尋ねる私に、
「ルイジ氏に頼んでおきました。使い方は彼に聞きなさい」
とだけ言い残して馬車に乗り込んでしまった。
─ * ─
ルイジおじさんから受け取るべき秘密のものとは?
次回、明らかになります!(多分)
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