31、食堂に悪魔の気配

 カッファレッリの足音が遠ざかると、リオがほっぺをふくらませた。


「あんな奴と同じ部屋で生活したくないから、別の部屋にしてもらったほうが助かるね」


「それは私も同感」


 リオと二人きりになった途端、つい普段の言葉遣いに戻ってしまった。二段ベッドから下りながら溜め息をつく。


「でも彼に歌を教わらなきゃいけないのよね」


「ポルポラ先生が口添えしてくれたからって、あいつ本当に僕たちに教えてくれるかな? 門限だって守ってないし、いかにも不真面目そう」


 窓の外に広がる空は朝焼けに染まっている。私は管理人の奥さんから聞いた話を思い出して、


「罰として仕事を言いつけられるのかな」


 彼が出て行った廊下の方を見つめた。


 リオはフフンと意地の悪い笑みを浮かべ、


「あの女好き、斧で薪割してる最中にうっかり残ってるものも切り落としちゃえばいいのに」


 かわいい声で恐ろしいことを言った。


 ほどなくして廊下を大股で歩く足音が近づいてきたと思ったら、勢いよく部屋の扉が開いた。


「屋根裏の使用許可をもぎ取ってきてやったぜ」


 片手に箒と塵取りをつかんで立つカッファレッリが恩着せがましいことを言った。


「案内してやるからお前らの荷物背負って、枕と毛布持って俺様についてきな」


「屋根裏ってベッドとか机とか置いてあるの?」


 疑いのまなざしを向ける私に、


「安心しな。ちょっと前まで暮らしてた奴らがいたんだから」


 カッファレッリは偉そうに答えて廊下へ出た。


 男装が露見する不安を抱えながらカッファレッリと同室で過ごすより、リオと二人部屋のほうが安心だ。私はルイジおじさんが手作りしてくれた革袋を背負うと、丸めた毛布を胸に抱いた。


 私とリオの前を歩くカッファレッリは、階段を登りながら張りのある声で話した。


「夏に一人逃げて先月一人巣立ったから、空き部屋になって日も浅い。軽く掃除すりゃあいい」


 こじんまりとした木の扉を開け、壁に箒と塵取りを立てかけた。私たちを屋根裏部屋に残して去ろうとした彼に、リオが声をかけた。


「今、夏に逃げたって言ったの?」 


「ああ、たまにいるんだよ。ここの環境が我慢できなくなっちまう奴がさ」


「えっ」


 私は驚いて声を上げた。


「音楽院ってそんなに厳しいの?」


「いや、逃げ出す奴らは指導自体がきついわけじゃないんだろ。愚か者共のやっかみに耐えられねえんだよ」


 私は意味が分からず黙っていた。


「だけどここでやっていけなかったら外でも生きていけえねよ。寄宿舎で受ける洗礼は社会の縮図だからな」


 カッファレッリは落ち着いた声で言い残し、私たちに背を向けた。階段を降りた彼の姿が見えなくなると、リオは待ちきれない様子で小さな窓へ走っていった。


「オリヴィエーロ、海が見えるよ!」


 声を弾ませるリオの隣に私も駆け寄って、二人で頬を寄せ合い窓の外を眺めた。一階分上がっただけなのに、見える景色は大違いだ。赤茶けた屋根が連なる先にナポリ港の入り江がのぞいている。木造船が大きな帆をふくらませて行き来するのが見えた。


 屋根裏部屋は天井が低いせいか意外とあたたかく、隠れ家のようで心地よい。木製の梁の下には古い本棚が置かれ、手書きの楽譜が残されていた。屋根の勾配が低くなったあたりにシングルベッドが二つ並んでいる。


 私が箒で埃を掃き、リオが持つ塵取りにごみを集めていると、誰かが階段を登ってきた。


「掃除しているのかい? あたしも手伝うよ」


 部屋の外から聞こえた声の主は管理人の奥さんだ。


 私は箒を持ったまま扉を開けて挨拶した。


「おはようございます」


「あれ? あんたが掃除してるのかい? カッファレッリはどこ行ったんだね?」


「部屋に戻ってるんじゃないですか?」


 優しかった管理人の奥さんの目が途端に吊り上がった。


「なんだって? あの子は自分で掃除するって言って箒を持って行ったんだよ! あんたたちを部屋から追い出したのは、あの子のわがままなんだから!」


 下の階へ降りて行こうとする奥さんに、私は自分で掃除すると伝えた。カッファレッリに任せたらいかにもいい加減な仕事をしそうだ。今後私が使う部屋なのだから、自分が心地よく過ごせるよう綺麗にしたい。


「ならいいけれど、ポルポラ先生がお許しにならなきゃあんたたち、元の部屋に戻される可能性もあるんだよ? ジャンバッティスタ氏の話によると、相部屋はポルポラ先生の意向だっていうからね。カッファレッリが先生に話すと言っていたけれど、どうなるか分からんさ」


 奥さんは一人で話し続けた。腰をかがめて手早くベッドの下を掃きながら、大仰おおぎょうな溜め息をついた。


「まったくカッファレッリときたら顔もいいし歌声も素晴らしいが、とんでもないわがまま坊やときてる。先生も手を焼いてるんだろうよ」


 リオがここぞとばかりに口をはさんだ。


「あいつ昨日の夜も門限破ってるし、罰として何か仕事させられるんでしょ?」


「それがねぇ、あの子は音楽院への貢献度が高いから、ほかの寄宿生のようにおしおきするわけにはいかないんだよ」


「貢献度?」


 リオが険のある声で問い返す。


「彼はここに住んではいるけれど、半分プロみたいなものなんだ。音楽院も寄宿舎も貴族の方々の寄付で支えられているが、それだけじゃ足りない。音楽院では有料の演奏会を企画したり、生徒をオペラの合唱に貸し出したりしてるんだよ」


 生徒に稼がせて運営資金にててるってことか。


「人気の少年歌手として一等稼いでるのがカッファレッリなのさ」


 一番の稼ぎ頭だと考えれば、彼には個室を使う権利があるのかも知れない。


 ベッドにシーツをかけていると、時を告げる鐘の音が聞こえてきた。


「朝食の時間だよ」


 管理人の奥さんが教えてくれる。


「あとはあたしがやっておくから、食堂に行っておいで」


 私とリオは奥さんに礼を言って屋根裏部屋を後にした。


 一階まで階段を降りると、食堂の方から子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。開けたままの大扉からのぞくと高い天井の下には、すでに寄宿生が大勢集まっている。


「好きなところに座っていいのかな」


 リオが少し不安そうに私の手を握った。長テーブルの左右には木のベンチが置かれ、すでに席についている子もいれば、木の盆を両手に持って空席を探している子もいるようだ。


「あそこで食べ物もらえるみたい」


 私が指さした入り口近くでは、寄宿生の一人が配膳台に乗った大きな寸胴鍋からホットミルクを配っている。


「当番制なのかな」


 小声でリオに話しかけながら大広間を見回した私の視界に一瞬、黒い影がよぎったような気がした。以前にも味わったことのある、嫌な感覚がよみがえってくる。


 これ、なんだっけ……そうだ、アンナおばさんにも感じていた違和感。空気が悪いわけじゃないのに息がしづらい。


 でもなぜ? と不思議に思っていると、リオが私だけに聞こえるようにつぶやいた。


「ここにも悪魔憑きがいるのかな」




─ * ─




次回「入学早々そうそう退学の危機!?」

オリヴィア、さっそく悪魔の影響を受けかけてピンチです!

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