29、ベッドの上で愛し合う二人!?
部屋は思ったより広々としていた。両側の壁に二段ベッドが備えられ、部屋の四つ角には一つずつ、小さな机と椅子が置いてある。中庭に面した窓から斜めに差し込む陽だまりの中、ベッドの一段目に無造作に置かれた服と楽譜が見えた。ガエターノとかいうポルポラ先生の弟子はまだ帰ってきていないようだ。
「わぁ、ヴェスヴィオ山が見える!」
私は窓から身を乗り出し、無理に明るく振舞った。落ち込むリオにどんな言葉をかければいいか分からなかったから。大丈夫だよ、なんて気休めは意味をなさない。彼が奪われたものは二度と取り戻せないのだから。
うしろからリオのわざとらしい溜め息が聞こえた。
「僕は毎日『普通の子供じゃありません』って札つけて外を歩くのか」
私はドキリとして肩を震わせた。自分の失言を謝るべきだろうか?
観念した私が口を開きかけたとき、
「顔を上げな」
奥さんの静かな声が部屋に響いた。
「あんたは何しにこの街へ来たんだい?」
驚いて振り返ると奥さんは床に膝をつき、両手をリオの肩に置いて、うつむく少年の顔を下からのぞきこんでいた。
胃が痛くなるような沈黙が部屋を支配した。どこか遠くから楽器の音と誰かの笑い声が聞こえてくる。
「歌の勉強をするためです」
やがてリオは低い声でぼそぼそと答えた。
「プロの歌手になるためだろう?」
奥さんがたたみかけるとリオは、不機嫌そうに口を曲げたままうなずいた。
「だったら役に立たない羞恥心なんぞ今のうちに捨てちまいな。そんな感情はあんたの首を絞めるだけだよ」
ふくれっ面したまま返事をしないリオが、年相応の子供に見える。
「いいかい、よく考えてごらん。今あんたが歌っても、人はボーイソプラノだと思うだけだ。だが五年後も十年後もあんたはその高い声で歌い続けるんだよ? 口を開いただけで観客は、あんたの体がどうなっているか想像できるんだ」
残酷な宣告を、私は窓枠に手を置いたまま微動だにせず聞いていた。歌うことは自らの内面をさらけ出すことだと、私は数少ない経験から気付いていた。だが彼らがさらけ出さねばならないものは、あまりに重い。
「本当だ」
リオは夢から醒めたように顔を上げ、奥さんと目を合わせた。
奥さんは大きな手でリオの巻き毛を撫でる。
「誰にも傷付けられない
念を押されてリオは、しっかりとうなずいた。長いまつ毛の下で大きな瞳はうるんでいたが、彼の口元には揺るがない決意が宿っていた。
奥さんは立ち上がると、私を振り返ってにやりと笑った。
「そっちの子はまるで他人事なんだね?」
「えっ、あ――」
咄嗟に言い訳が思いつかない私に、
「まあいいさ。秘密を抱えるのは大人になった証拠さ。困ったことがあったらあたしに言うんだよ」
カラッとした調子で言う奥さんの横顔は、あたたかい午後の日差しに照らされていた。
部屋を出る前にもう一度私を振り返り、
「今はいいかも知れないが、あと数年経ったら困ったことも出てくるだろう? 男には話せないことなんかがね」
小声で付け加えた。
心臓が跳ねあがり、息を止めている間に奥さんは出て行った。
「管理人さん、いい人だね!」
すっかり機嫌を直したリオが笑顔で話しかけてくるが、私は冷や汗をぬぐいながら深呼吸した。
私の男装は一瞬で見抜かれてしまった!
「ねえねえオリヴィエーロ、ベッドは上と下、どっちの段がいい?」
リオが私の服を引っ張る。
管理人さんにバレてしまったものは仕方がない。悪い人じゃなさそうだし、今回のことを教訓にこれから気を付けるしかない。
私は頭を切り替えて二段ベッドを見上げた。
「面白そうだから上」
下の段で寝たのでは今までと変わらない。新しい経験をしてみたい。
「よかった。僕、怖いから下が良かったんだ」
リオは安堵の笑顔を浮かべて、ベッドに腰かけた。私は木のはしごを登って、上の段に上がってみる。天井が近い、と思っていたら後からリオもよじ登ってきた。
「リオも上がよくなったの?」
私の問いには答えず、リオは短くなった私の髪に触れた。
「綺麗な髪」
頬の横に垂れた一房を細い指の上に乗せ、唇を近づけた。私はぎょっとして、
「なに?」
と身を引く。
「オリヴィア、僕のこと嫌いになっちゃった?」
「まさか。でもだめだよ、本名呼んだら」
「今は二人きりだよ?」
にじり寄ってきたリオが、私の耳元でささやいた。生暖かい彼の吐息がくすぐったくて、私は体を震わせた。
「僕に触れられるの、いや?」
リオの瞳は不安そうに揺らいでいる。
「何言ってるの。嫌なわけないじゃん」
私はリオを安心させようと、彼のくるくると巻いた金髪を撫でた。
「オリヴィアってなんてかわいいんだろ」
リオは突然、私を抱きしめた。予想以上に力強い彼の腕の中で、私は戸惑うことしかできない。
「ちょっと、リオ――」
「オリヴィアは僕だけの女の子。みんなが美少年オリヴィエーロだと信じている君を、僕だけが独り占めするんだ」
リオと触れ合っている部分がどんどん熱くなってきて、私の胸には甘い喜びが花開こうとしていた。さっきはただの子供に見えたリオが、今は魅惑的な青年になってしまった。もう、リオってよく分からない!
ようやく体を離してくれたと思ったら、片手で私の肩を抱き、もう一方の手で私の頬を撫で始めた。何か話さなきゃと思うのに、私は蛇に睨まれた蛙のように動けない。
突然リオの顔が近づいてきたと思ったら、突然ぺろりと舌を出して唇を舐められた!
「ひゃっ」
驚いてのけぞる私に、捨てられた子犬のような顔を見せ、
「逃げないで?」
と懇願するリオ。ちょっとあざといんじゃないかな!?
「いきなり舐めたら汚いでしょ?」
お姉さんらしく
「僕、汚い?」
泣き出しそうな顔をされてしまった。私はたじろいで、
「違うよ……」
と小さな声で否定する。だがうつむいていたリオは肩を震わせていた。笑ってるの!?
「さっき僕を普通の子供じゃないって言ったおしおき」
まだ根に持ってたんだ!
「ごめんって」
気まずさも手伝ってちょっと不機嫌になる私を見て、リオはフフと笑った。
「オリヴィア、僕が傷ついた顔すると罪悪感にさいなまれるでしょう?」
なんか難しいことを言い出した!
「罪は蜜の味がするよねえ?」
こてんと首をかしげたリオが、また顔を近づける。
「ちょっと――」
「僕のパパはママにこうしてた」
リオの唇がふわりと私の唇に重なった。全身から力が抜けていき、気付いたら私はベッドに横たわっていた。私に覆いかぶさるようにして抱きしめてくるリオに、
「ターノとかいう人が来たらまずいって」
注意する私の言葉も弱々しい。
「平気だよ。僕らが抱き合ってても、小さな男の子二人がじゃれ合ってるようにしか見えないもん」
リオの体温が伝わってくるのが心地よくて、まぶたが重くなる。幸せな気持ちでいっぱいになって、私はふわふわしたまま目を閉じた。
─ * ─
仲睦まじくベッドの上で抱き合う二人。しかし次回、部屋にターノが入ってきます。
そりゃそうだ、ここは彼の部屋でもあるんだから……
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