28、寄宿舎へ行こう

「彼らに話していないのかい? 私がすでに音楽院の教師を引退してるって」


 私は耳を疑った。リオは彫像のように動けなくなってしまった。


「悪いが少年たち、私は今や売れっ子のオペラ作曲家なのだ。しがない音楽院教師だったのは過去の話さ」


「もう、教えてないんだ……」


 私はがっかりして消え入りそうな声を出した。


「いや、プライベートで特別に見ている若い歌手たちがいるにはいるが――」


 正直者の先生が歯切れ悪く白状して目をそらすと、リオが飼い主によじ登る猫のようにすがりついた。


「それなら僕たちも弟子にしてよぉ」


「こらこら、先生に迷惑をかけてはいけません」


 ジャンが引きはがしに来た。


「よいですか? ポルポラ先生は今や大先生なんです。お金持ちの商人や貴族の子息、もしくはすでに完成した歌手しか見ないんですよ」


「ジャンバッティスタ、君の言い方には棘があるよ」


 ポルポラ先生は困った顔で否定し、


「何人かの歌手は幼いころからずっと見ているから、途中で投げ出さないだけさ」


 それから小さく、そうだ、とつぶやいた。


「ターノを君たちに紹介しよう。私の弟子の中で一番優秀な歌手だ」


 突然の展開についていけない私とリオのうしろで、ジャンバッティスタが腕を組みながら、


「ターノというと――ああ、ガエターノですか?」


「うむ。彼ならソプラノだから私と違って模範歌唱を聴かせられるだろう」


「そりゃそうですが、先生の一番優秀な弟子って彼じゃないのでは? 私はファリネッリだと思いますがね」


 ジャンは突然饒舌になった。


「今年の謝肉祭シーズンにローマでファリネッリが出演しているオペラを見てきましたが、めくるめく超絶技巧、上から下まで満遍まんべんなく響く美しい声、聴く者を癒す優しい音色――」


「分かった分かった」


 ポルポラ先生に止められて、ジャンの口からあふれ出ていた言葉の奔流はようやく収まった。まだ語り足りないジャンに、先生は持論を展開した。


「私はガエターノこそ今後ファリネッリを越える逸材になると信じている。ターノの歌には強い信念が宿っているんだ」


「そりゃ彼は自分を天才だと信じていますからな」


「それだよ君!」


 ポルポラ先生は人差し指を振り下ろした。


「自らの才能の信奉者となり、己の才能のために人生を捧げる――あるべき芸術家の姿だと思わんかね?」


「あの問題児が『あるべき芸術家の姿』ですかねえ」


 腕組みしたままジャンが浮かべる皮肉な笑みを見ながら、私は青ざめた。一体ターノってどんなやつなの!?


 手を取り合いおびえる私たちをなだめすかすように、ポルポラ先生は笑顔で見下ろした。


「ガエターノの歌に対する姿勢は、オリヴィエーロくんの参考になると思うんだ」


 母さんの声を真似してきた私が見習うべきってことかな。


「それに彼はソプラノといっても少し重めだから、オリヴィエーロくんが低音域を高い位置で響かせる見本を聞かせられるはずだ」


 確かに声変わりした大人の男性であるポルポラ先生の指導では、そのまま歌声を真似することはできないだろう。


 続けて先生はリオと目を合わせ、


「リオネッロくんの歌声に熱い情熱を宿すためにも、ターノの歌は役立つはずだよ」


 と説得してから、苦笑を浮かべたままのジャンにてきぱきと指示する。


「ターノは今、寄宿舎の四人部屋を一人で使ってると言っていたからな、この子たちが同じ部屋で暮らせるよう管理人に頼んでくれ。ターノには忍耐を学ばせなきゃいかんから、後輩の世話をさせるのはちょうどいい機会だ」


 スカーフを結びなおすと出口に向かって歩きながら、私たちを振り返った。


「ターノに音楽院を案内してもらいなさい。君たちに歌を教えるよう、私から言い含めておくから」


 私たちはポルポラ先生の思い付きから、天才肌の問題児に歌を教わることになってしまったらしい。


 その日の午後、ジャンが手続きを進めてくれて、私たちは今夜から寄宿舎で寝泊まりすることになった。


 寄宿舎は大きな四角い建物で、広々とした中庭を囲んで建っていた。私たちはまず管理人さんから寄宿舎の生活について説明を受けた。


「門限を破ったり無断で外泊したりすると罰を受けるから注意するんだよ」


「罰?」


 私がオウム返しに問うと、


「そのときによって違うけれど、夏なら庭の草刈り、冬なら暖炉の薪割りとかね。あたしの夫が仕事を言いつけるよ」


 管理人は住み込みの夫婦だった。老夫婦と呼ぶのはいささかはばかられるが、六十近い年齢に見える。


 私たちが外泊をすることなんてないだろうから右から左に聞き流してしまったが、事前に所定の手続きを踏めば外泊も許可されるらしい。


 それから管理人の奥さんは、食堂や水場などを案内してくれた。


 寄宿舎の大階段を登って長い廊下に出ると、片側に同じ大きさの扉が並んでいる。


「うわぁ、なんか迷いそう」


 不安げに見回すリオに、管理人の奥さんは目を細めた。


「安心おし。あんたたちの部屋があるのは最上階だから部屋数が少ないんだ」


 同時に階段の上をあおぎ見た私とリオに、


「あんたたちソプラニスタの卵は特別扱いだからね。湿気のひどい一階には寝かせないし、寝具もあたたかいものが与えられるんだよ。共有部分の掃除当番だって免除されるのさ」


 恰幅のよい奥さんの言葉に私は驚いた。


「普通の子供たちとは扱いが違うってことですか?」


 リオがちらりと私を見た。一瞬意味が分からなかったが、「普通の子供たち」という言葉が彼を傷付けたのだ。


 奥さんは気にも留めず、


「そりゃそうだよ。あんたたちはただでさえ体に負担をかけてるんだ。大事にしてやらなくちゃいけないから、食事も服も特別待遇さ」


「食事まで?」


 と尋ねた私の声に、


「服?」


 と問うリオの言葉が重なった。


「食事は一品、栄養のあるものを追加するようにしている。服ってのは音楽院の制服のことさ」


「制服なんてあるんだ」


 リオが驚きの声を上げた。私もまったく知らなかった。


「そうだよ。あんたたちの服は、普通の子供たちに支給されるのとは違う、ちょっといいヤツだね」


 へえ、と間抜けな声を出した私の横でリオが、


「ちょっと待って」


 と硬い声を出した。


「それってまさか服装だけで、ほかの生徒たちにも街の人たちにも僕が――その、そういう男だって分かっちゃうってこと?」


「音楽院の生徒たちはそりゃ分かるだろう。町の者は――まあ、知っている者は知っているだろうね」


 奥さんは何でもない風を装って答えた。だが急にまばたきが増えた横顔から、彼女がリオの反応を気にしているのは明らかだった。気まずい沈黙が流れ、私たち三人の足音だけがいやに大きく響いた。


「嫌だな」


 足元を見ながら歩いていたリオがつぶやいたのと、


「この部屋だよ」


 奥さんが扉を開けたのは同時だった。




─ * ─




次回「ベッドの上で愛し合う二人!?」

そうか、部屋で二人きりになるから――いやいや三人目のルームメイトがいるはずでは?

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