27、ポルポラ先生の声楽指導

「音感も悪くないようだが、響きを下につけるくせがある」


 ポルポラ先生は教師らしい口調でゆっくりと話し始めた。


「下?」


 と首をかしげる私に、


「うむ。胸に響かせる割合が多すぎるのだよ。君の先生はバスかアルトだったのかい?」


 質問に答えられず、私は沈黙した。私の歌の先生って誰なんだろう?


「君はまだ体も小さいから、本来もう少し軽い響きの声が自然だろう。おそらく君の先生の声は――」


 ポルポラ先生は言葉を探すように窓の外に目をやってから、また私に視線を戻した。


「君にとって母なる大地を思わせるような、どっしりと包み込むような魅力があったんじゃないか?」


「そうなんです!」


 私は大きな声で肯定していた。


「母さんの声はあたたかくて、大きなゆりかごみたいで――」


 涙があふれそうだ。歌うために心の扉をひらいた直後だからか、感情を抑えられない。


「母親が歌手だったのか。悪くない教育を受けてきたようだが、重要なことを伝えよう」


 ポルポラ先生の濃いブラウンの瞳が、私をじっと見据えた。


「君は君だ。お母さんとは違う」


 私は覇気に呑まれてコクコクとうなずいた。


「君の声を育てねばならない。歌手になるつもりなら、母親の幻を追うのは今日限りでやめにしなさい」


「はい」


 殊勝な態度でうなずいたものの、私は母さんと引き裂かれるような痛みを覚えた。私にとって歌うことは、母さんとつながるための手段だったのかもしれない。


 私の硬い表情から何かを悟ったのか、ポルポラ先生は穏やかに言葉を続けた。


「歌手は皆、自分だけの楽器を持っている。これは神秘だ。だがそれを愛せない者も多い。長い時間をかけて君は自分が与えられた楽器を磨き上げ、愛するようにしなさい」


 私は涙をこらえてうなずいた。


 母さんを思い出すためとか、リオの隣にいるためとかじゃない、これから私は自分の声を見つけるために歌っていくんだ。


 崖の上に立って深い谷を見下ろしているみたいに、心もとない。


 ポルポラ先生は椅子から立ち上がると私の前まで歩いてきた。


「具体的には頭の響きを感じて歌うんだ」


 先生の大きな手のひらが私の頭に触れた。


「高いところに響かせれば自然と声は軽くなる。だがその際、舌根が上がってくると喉を傷めるから、新しい発声を試すときは教師が聴いているところで歌うように」


 響かせる位置を意識して歌うなんて考えたこともなかった。


 私は崖に立っていたかもしれないけれど、顔を上げれば大きな青空が広がっていたんだ。谷底に視線を落とすのはやめよう。


 習ったことを実践したくて、私は頭上に意識を集中して声を出した。


「良くなっているぞ。響きを感じられるよう、感覚を研ぎ澄ませて歌うんだ」


 気付けばジャンも感心したようにうなずいている。ジャンは私の音程がフラットしがちだと指摘したが、対処法は分からなかった。響かせる位置が低すぎたのが原因だったようだ。


「彼はオリヴィエーロくんだったかな」


 ポルポラ先生に話を振られて、ジャンは慌てて二度三度とうなずいた。先生は私へ確信に満ちたまなざしを向け、


「ジャンバッティスタは君をアルトだと手紙に書いていた。だがオリヴィエーロ、君の高音域はもっと伸びるはずだ。音楽院で研鑽を積みたまえ」


 音楽院でってことは私、ナポリで勉強できるってことだよね!?


 速くなる鼓動を抑えられずに立ち尽くしている私に背を向け、ポルポラ先生はまた椅子に戻って行った。


「さてもう一人。リオネッロくんかな? 君の歌も聴こう。私は午後また劇場に戻ってリハーサルを聴かなきゃならないんだ」


 テキパキと指示を出すポルポラ先生の前へ、リオが小走りに進み出る。大きな目をさらに見開いているのは、やはり緊張しているのかも知れない。


 私は後ろに下がって、漆喰の壁に背中をあずけた。


 リオはぴんと背筋を伸ばし、


「僕はグローリアを歌います!」


 いつもより高い声で告げた。すーっと息を吸ったと思ったら引いた波が返すように、


「Gloria in excelsis Deo天上の神に栄光を


 軽やかな旋律があふれ出し、壁や天井で跳ね返り、妖精が飛び交うように部屋を巡る。


 いつも農作業の途中に聴いていたリオの声は少しか細く聴こえたが、天井の高い石造りの建物の中では豊かに響いた。それでいて教会のように響きすぎることもない。


 聖歌隊と違ってリオが一人で歌っていることもあり、彼の声に感じるなめらかな手触りが、より鮮明に伝わってきた。


Et in terra paxそして地には平和を


 明るく優しい歌声に、心がぽかぽかと幸せに包まれていく。一足早く春を告げに来た小鳥のよう。窓の外、中庭に降り注ぐあたたかな陽射しがぴったりだ。


 生まれて初めて受けた歌の指導に対する興奮も手伝って、私は心を躍らせて大好きなリオの声を堪能していた。


hominibus bonae善きこころざしの voluntatis人々へ


 だがリオが最後のフレーズを歌ったとき、ポルポラ先生が小さくうなずくのが見えた。


 その途端、リオだけが絶賛されるのではないかと、不安の洪水が私の心からあふれ出した。リオだけが先へ行ってしまったらどうしよう? 今まで姉を気取ってきたのに、リオだけが手の届かない高みへ登って行ったら、私は絶望の淵へ突き落されてしまう。


「君はやすやすと高い声が出るようだね」


 ポルポラ先生の第一声に、私は固唾かたずをのんで耳を傾けた。


「美しい声を授かって生まれてきたようだが、その声の上にあぐらをかいてはいけない。二つの理由からだ」


 ポルポラ先生は親指を曲げて話を続けた。


「一つ目。観客はただ綺麗な声より心を揺さぶる表現を求めている。主の受難と復活がクライマックスになる教会音楽は言わずもがなだが――」


 リオは真剣な表情で聞き入っている。


「――カンタータやオペラには恋の苦しみを吐露するアリアが多い。深い表現力を磨きなさい」


 それからポルポラ先生は人差し指を折りたたんだ。


「もう一つ、君たちには酷な話かもしれないが」


 私の方を振り返りながら、ポルポラ先生は声を低くした。


「君たちには声変わりが訪れないと言われているが、誤りだ。体と共に声も成長するし、中には大人になると美声を失ってしまう者もいる」


 リオは目を見開き、息を呑んだ。ポルポラ先生は視線を床に落とし、


「私にも理由はよくわからないが、声がかすれて響かなくなってしまった生徒を知っている」


 暗い声で話した。だがすぐに顔をあげ、


「だが今、彼はオルガン奏者兼指揮者として、また指導者として活躍しているんだ。二人とも、歌手の道が閉ざされたときのことも考えて、幅広く学びなさい」


 私とリオは同時に大きくうなずいた。


 ポルポラ先生は立ち上がってリオに近づき、


「リオネッロ、君の声はやや散らばっている。もっと焦点を集めて歌ってごらん」


 リオの鼻先に握り拳を突き出した。リオが先生の手を見ながら声を出すと、


「うむ、そうだ。だが声に空気を混ぜすぎだな。声帯が乾くリスクがあるから気を付けなさい」


 リオは真剣な表情で何度もうなずいている。


 リオだけが完璧だったら、などという私の恐れは霧散した。一流の作曲家の耳に、田舎の子供の歌が最高に素晴らしく聴こえるわけはなかったのだ。


 私たちが登ろうとしている音楽という山は、ヴェスヴィオ山より高いのかもしれない。


 帰り支度を始めたポルポラ先生の背中に、リオが息せき切って尋ねた。


「ポルポラ先生、音楽院で僕たちに歌を教えてくれるんですよね!?」


 振り返ったポルポラ先生は一瞬目を見開き、それからジャンをにらんだ。


「彼らに話していないのかい? 私がすでに音楽院の教師を引退してるって」




─ * ─



あれ? そういえば22話の最後にジャンバッティスタが言っていたのは、「声を聴いてもらって判断してもらうんですよ」だったかも!?


次回、ポルポラ先生が妙案を出してくれます……

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