32、入学早々退学の危機!?

「ここにも悪魔憑きがいるのかな」


 リオの言葉にハッとした。


「それだ――」


 うなずいたとき、背中に硬いものが当たった。振り返ると大柄の青年が私に木の盆を押し当てている。


「邪魔だぞ。何をボーっとしている。新入りか?」


 声から察するに、彼は普通の男性のようだ。盆の上には湯気の立つマグカップとパンが乗っていた。


 私は彼に、ここでの振舞い方を尋ねることにした。


「ボクたち昨日到着したばかりなんだ。これ、席は自由なのかな?」


「ちげーよ。棟ごとに分かれて座ってんだ。お前ら何階だ?」


 屋根裏、と答えそうになって口をつぐんだところで、体の大きな青年のうしろから彼の友人らしき男が顔をのぞかせた。 


「そいつら上の階から降りてきたぜ。おいらさっき見たよ」


 その言葉を聞いた途端、大柄な青年は冷笑を浮かべた。


「なんだ、玉無しかよ」


 突然侮蔑の言葉を浴びせられて私は面食らった。だがすぐに理解した。これがカッファレッリの言っていた寄宿舎の洗礼というやつなのだと。とはいえ社会の縮図なんかに屈してやる義理はない。


「そういうお前は能無しだろ」


 私は男を見上げて言い返した。


「なんだと!?」


 男が声を荒らげた。私たちの周りには頭の悪そうなガキが輪を作り、


「オカマがピッポにケンカ売ったぞ!」


 とはやし立てる。リオが私をかばうように一歩前へ出た。


「オリヴィエーロにひどいこと言うな!」


 男はさげすみのまなざしでリオを見下ろした。


「俺に話しかけるな。お前らの声を聴くと耳が腐る」


 男のひどい言葉に怒りがこみ上げ、私の唇はわなわなと震え出す。だが寄宿生活二日目から問題を起こすわけにはいかない。


「リオの声はあんたのドブみたいなダミ声の何倍も美しいけど?」


 男の股間を蹴り上げたい衝動を抑えて言葉で応戦した私に、男はこめかみに青筋を立てながら愚かな挑発をした。


「半人前が偉そうな口くんじゃねえ。お前ら一生半人前だから二人でべったりくっついてるんだろ? 一人じゃ何もできないくせに」


 怒りで視界がぐらりと揺れた次の瞬間、私の右手は湯気の立つマグカップを持ち上げていた。


「一人でもこれくらいできるさ!」


「あちぃぃぃっ!」


 熱々のミルクを顔にひっかけられて、男はうしろに倒れて尻もちをついた。


 騒いでいたギャラリーが息を呑んだ。水を打ったような静けさの中、ひそひそとささやき合う声が聞こえる。


「あの新入り、頭おかしいぞ」


「誰か管理人呼んで来い!」


 少年が一人、大広間から走り出て行ったのと同時に、


「お前、ぶっ殺す!」


 白い液体を髪からしたたらせながら、男が怒鳴った。


 身の危険を感じた瞬間、私の視界を黒いもやが覆った気がした。


 私は気がつくと床に落ちたスプーンを拾い上げ、倒れた男の目玉めがけて繰り出していた。


「オリヴィエーロ、だめ!」


 リオがうしろから抱き着いて私を止めると同時に、倒れた男の友人たちも応戦しようとする彼を取り囲み、


「変なのに絡むなよ!」

「きっとあいつすぐに退学だよ」

「あんなのに関わったらお前も退学になっちまうよ!」


 などとなだめ始める。


 退学という単語が耳に入った途端、冷や水を浴びせられたように私の頭は冷静になった。大変なことをやらかしてしまったんじゃないか?


 リオが私の耳元でささやいた。


「オリヴィア、悪魔の影響受けちゃダメ」


 そうだ、悪魔は簡単に心の隙間に入り込んでくるんだ。怒りに我を忘れれば、あっという間に乗っ取られてしまうだろう。


 恐れおののく私の心を愛撫するように、どこからともなくたえなる歌声が聞こえてきた。近づいてくるにつれ、誰かが気楽な調子で口ずさんでいるのだと知れた。まろやかで心地よい歌声は、いつまでも聴いていたくなる。


 軽やかな足音と共にすぐそこまで来た甘い歌声が、ぴたりとやんだ。


「何かあったのか?」


 涼やかに問う声には聞き覚えがある。人垣にさえぎられて見えないが、この声は――


「ああカッファレッリ、聞いてくれよ」


 人垣の向こうで知らない寄宿生の声が聞こえて、私は自分の予想が当たったことを悟った。


 あいつ、鼻歌程度であれほどの美声なのか!


 話しているときの片鱗がないわけじゃない。でも話し声に含まれる刺々しい雰囲気は消え去って、丸みのある魅力的な声になっていた。


 ああ、ぜひともちゃんと本気で歌っているところを聴いてみたい!


 うずうずし出した私を現実に引き戻したのは、カッファレッリのあとからやってきたもう一つの足音だった。


「どうした? まったくお前ら朝から騒ぎを起こすな」


 しわがれた声の主に、


「やあ、ジュゼッペ」


 カッファレッリが軽い調子であいさつするのが聞こえる。


 ジュゼッペさん――この寄宿舎の管理人だ。


「カッファレッリ、今日はお前が問題を起こしたわけじゃないようだな?」


「俺様は関係ないよ」


 離れていてもよく通るカッファレッリの声を聞きながら、私は審判を待つ囚人のように不安の闇を見つめて立ち尽くしていた。




─ * ─




寄宿舎生活二日目にして早々に問題を起こすヒロイン笑

彼女の運命や如何に!

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