第3部 王都の社交

第65話 ただいま訓練中

 柔らかな草がそよ風になびき、野の花が冬の寒さの終わりを告げる、春の始まりも過ぎて――木々に若葉が茂り、きらきらと輝く季節がやってきた。

 侍女のリュシー曰く、「広いフォート家の庭が一年でもっとも生き生きと、まるできらめく宝石と色鮮やかなドレスで華やかに着飾ったような姿を見せる季節」といった言葉の通りだった。


 お屋敷のどの方向の窓から外を眺めても、色とりどりに植えられた花が咲き誇る庭園が見える。

 門からお屋敷の正面玄関まで長く続く、馬車の通路を誘導するような左右に伸びる緑の植え込みの帯に沿って設けられている花壇は、屋敷の窓から見下ろせば、蔓バラを図案にしたモザイク画となって目を楽しませるものだ。


 わたしやルイが生活する、かつて“王妃の棟”と呼ばれていた一棟を囲む庭では、刈り込んだ背の低い生垣と、そこかしこに植えられた蔓バラの開きかけた蕾が溢れんばかりとなっていた。

 バラ園では、すでに早咲きのバラが朝靄に濃い香り漂わせている。

 わたしのお部屋を飾る花もここ数日はバラの花だ。

 マントルピースの水晶の水盤に、朝摘みの白い蕾や丸く花弁を綻ばせた花が生けられている。 


 開いた窓からそよそよと心地よい風が、微かな緑の匂いをのせて入って部屋に入ってくる。

 本当に、気持ちのよい季節と、ひとりごちてわたしは机に向かいインクに浸したペン先を紙に立ててすっと線を引く。


「ええと……これが本来の主棟で、門から向かって右側が王妃の棟。でもって王妃の棟の主要部分と両翼があって奥につながる棟でしょう……同じ様に反対側の棟。でもって前庭を囲むようにいその両端に伸びる建物。裏庭側へ突き出た……」


 うん、やっぱり。

 あらためてこれは全部なんとかするのは無理というか、不可能だ。

 冷静に考えたらフォート家のこの領地屋敷は元七小国王家の王城で、本当の宮殿だもの。仮になんとかできたところで、維持できない。

 維持しようと考えたら、王宮に匹敵する使用人が必要になる。


「まあ、流石に全部は早々にわたしも諦めたけど」

 

 フォート家の屋敷は、大きくは三つの建物に分かれる。

 正面玄関やこの王妃の棟も含む一番主要の建物と、前庭の左右の端に建てられた二つの建物。

 そして一番主要の建物も大きく三つに分けられる。

 正面玄関のある主棟とその両翼。

 右翼がここ王妃の棟といわれている、わたしやルイとフォート家の使用人達が住んでいる場所だった。

 ちなみにこの両翼も、小さく主棟と両翼の三つに分けられる構成となっている。

 つまり三部構成の建物が、全体、本殿、その両翼で繰り返されて出来ていた。

 王妃の棟の右翼は、右側の前庭に伸びる建物とつながっているけれど、その渡り廊下とつながる部分は使わない椅子や棚で塞いであるといった具合。


「せめてこの王妃の棟と正面玄関のある主棟だけでも、なんとかしたいけれど……」


 それ以外の建物は、寂れ放題でほぼ廃墟。

 手の施しようがない。

 せめて見苦しくないようにはしたいものの、どうしようもない。

 それに建物の後ろ側に広がる庭の崩れかけの塔やら、たぶん庭園を眺めるためのテラスを設けた半分崩れた建物やら、たぶん本来はそちらで儀式をおこなっていたのだろう聖堂らしき完全に瓦礫と化している建物やら。

 用途不明の小屋や狩猟用の建物や東屋など、細かなものまで含めたら切りがない。

 ため息を吐いたところで、私室側の扉を叩く音が聞こえて入室を許可すれば、左頬に鱗のような痣があるどことなく平べったい印象の顔が特徴の、家令のフェリシアンさんが姿を現した。


「マリーベル様、ジュリアン様がいらっしゃいましてご挨拶をと」

「もうそんな時間?」

「はい」

「ごめんなさい、うっかりしていたわ」


 慌てて椅子から降りてフェリシアンさんに向き合えば、やや恰幅のいい彼に半分隠れるように、四角張った顔と濃茶色の頭を撫で付けた、茶に近い臙脂色のお出かけ用の上着を着た中肉中背の父様の姿が見えた。

 ユニ家とフォート家の屋敷はルイの魔術具で繋がっている。

 わたしとルイがフォート家に戻ってから父様は数度屋敷に来ているけれど、わたしは父様と顔を合わせていなかった。

 屋敷に戻ってすぐ、夏の社交に間に合わせるべく公爵夫人としての教育が始まったからだ。

 毎日、行儀作法を学んだり、器楽やダンスや魔術の基礎知識など貴族であれば当然受ける教育の欠けている部分を補う日課に忙しい。

 一ヶ月ほどが過ぎてようやく日中の自由時間が取れるようになってきて、フェリシアンさんを通して父様からフォート家の専属法務顧問ジュリアン・ユニとして面会の申し出を受けていた。

 

「失礼致します。芽生から成長へと渡る輝かしい日、公爵夫人におかれましてはご機嫌うるわしく……」

「ちょっ、と、父様!?」


 跪く勢いで口上を述べ出した父様に慌てて近づいて、なにその貴人に対する挨拶みたいなのはっ、と戸惑えば、あからさまにむっとした表情で咎めるように身を屈めた父様がわたしを見上げた。


「まさしく貴人に対する挨拶だろう」

「そんな、外ならともかく……」

「儂は公爵家に雇われている法務顧問で、お前は公爵夫人だ。こうしたことはきちんとしなければいけない」

「いや、でも……フェリシアンさん……っ」


 きちんとって……それなら、こうして初っ端から私室に直接訪ねてくるのはいいのと思ったけれど、父様は大真面目な顔をしている。

 お屋敷の中では構わないのにと、フェリシアンさんへ助けを求めて彼を見れば、にこにことした表情でマリーベル様と彼は口を開いた。


「そちらは構いませんが、一失点でございます」

「あっ! ああっ……っ!」


 にこやかにフェリシアンさんに告げられて、思わずわたしは叫び声を上げて頭を抱えた。

 そんなわたしの様子を訝しんで、父様が真っ直ぐに立ち上がる。


「なんだ一体? ……失点?」

「ふふふ、マリーベル様はただいま訓練中なのでございます。ジュリアン様」

「訓練?」

「使用人の人達みんなを呼び捨てにする訓練なの……気をつけていたのにっ……」

「先ほど私のことを“フェリシアンさん・・”とお呼びになられましたので。午前中も。本日合わせて二失点でございます。後がございませんよ」


 そう、わたしはフォート家の使用人全員を呼び捨てることに慣れるよう、訓練の真っ最中。

 敬称付きで口にするたびに、一失点。

 三失点で、罰が待っている。

 わたしの教育係、夜番の小間使いで元男爵令嬢のヴェルレーヌの提案によるもので、指導補佐に入っているルイが了承した。

 わたしにとってはかなり避けたい罰――。


「ああっ……父様に、つい気を取られて……!」

「人のせいにするんじゃない。それについては儂も、ユニ家にお前が来た時に気になっていた」

「へ?」

「オドレイさんとシモンさんで、呼び方が違っただろう。おそらく年上年下など王宮勤めの頃の感覚のままでいたのだろうが……公爵様が特になにも仰っていないので黙っていたものの、あれはよくない」

「……はい、教育係になってもらっている人からも言われました。わたしの立場でそれをすると同じ家の中の使用人の人達にあからさまに優劣をつけて区別しているようにも見え、また奥方として遠慮しているようにも受け取られると」


 項垂れてそう説明すれば、わかっているならきちんとしなさいと父様はため息を吐いた。


「公爵様にもご迷惑がかかる。ユニ家ではオルガやファビアンを呼び捨てていただろう」


 言われてみれば、たしかに。

 子供の頃から身近にいて当たり前にそう呼んでいたから特に意識していなかった。

 家族の延長みたいな感覚で。


「で、その罰というのはどういった?」

「内容でございますか? それは旦那様と教育係のヴェルレーヌとで決められたもので……」

「あ、あ……フェっ、フェリシアンっ」

「はい、マリーベル様」


 今度はきちんと言えましたねといった様子で、にこにことフェリシアンさんは私に返事をする。

 意地悪だ。

 意地悪だ……やっぱり長年仕えている使用人はあるじに似るのかしら。

 でもここ数日、フェリシアンさんだけでなく、使用人の人達から少々遊ばれているような気もする。


「ん?」

「と、父様。それよりなにかご用があっていらしたのでは?」

「おお、そうだった。お前の管財人を変更したほうがいいだろうと思ってな」

「なんだ、そんなこと」

「そんなことじゃない、お前自身の財産の話だぞ」


 たぶん、西部のユニ領が東部の公爵領の影響下に置かれたことは暗黙の了解と認められたけれど、西部の銀行家に任せているのは少し不安に思えてのことだろう。

 手紙もすぐには届かないし。

 ユニ家の人に渡してとも思ったけれど、お金に関するやりとりで第三者を挟むのは万一問題が生じると対応が面倒になる。

 

「もしかして、すでに書面も揃えてきてる?」


 頷いた父様に、わたしに相談というより書類を確認して署名するだけねと、フェリシアンさんに父様をサロンに案内してとお願いした。

 わたしの私室は主寝室のおまけのような続き間の部屋なので、父様と落ち着いて話す向けの部屋じゃない。


 だってなんだか嫌じゃない。

 夫婦の寝室も寝台も見えるお部屋で、父親と話をするのなんて。

 自意識過剰かもしれないけれど。


「わたしもすぐ行きます」

「うむ、それでその罰というのは……」


 すぐ行きますからと、わたしはにこやかに父様の問いかけを遮った。

 結果としては無駄だったのだけれど。


*****


「ああ、それは。失点の数だけ私が口頭試験を行うというだけです」


 サロンでわたしの隣に座ってお茶のカップを持ち上げ、麗しくも胡散臭い微笑みを父様に浮かべたルイに、わたしはひくりと片頬が引きつるのを覚える。

 

「なんだ、妙に誤魔化そうとするから一体なにかと」

「ご心配するようなことはなにもございません。おそらくあまり満足に答えられていない・・・・・・・・ため、少々気まずかったのでしょう」

「それは娘の努力不足ではありますまいか」

「いえ、少々難易度高めの問題を出しているもので」 

「ふむ。娘には上流家庭相当の教育は施したものの、貴族と同じとまではいきませんでしたので。娘の話では教育係もつけてくださっているとか、ご苦労かけて申し訳ありません」

「少々訳あって、王との取り決めで使用人として預かっている元男爵令嬢がおりますので彼女に頼んだというだけです」

「はあ……」


 本当に。

 さっきから黙って聞いていれば、本当に言葉の悪徳魔術師だわと思う。

 父様から渡された書面に目を通しながら、何度咳払いをしたくなったかしれない。


「父様っ!」

「ん?」

「も、問題ないかと思います」

「きちんと読んだのか……?」

「読みましたってば」


 新しい管財人は王都の銀行家で、法務大臣様からの紹介だった。

 法務大臣様の推薦状も添えられていて、わたしは腰掛けている場所から首を伸ばして壁際に控えているオドレイさんを見る。

 侍女のリュシーと侍女見習いとして五日前にフォート家に落ち着いたマルテ、それにシモンも皆庭仕事の手伝いに外に出ている。

 いまの季節、お庭の手入れは通いの下働きの人たちも総出で大忙しなのだ。


「すみません、オドレイさ……!」


 あっ、と口元を押さえたけれど遅かった。

 一失点と隣でぼそりと呟いたルイに、嘘っと声を上げる。


「途中で気がついて止めましたっ」

「止めたと仰ってる時点でだめでしょう。ヴェルレーヌにまったく違和感なく、ごく当然に呼べるよう注意されていましたよね?」

「うっ……」

「おまけしてあげたいですが、あなたの教育はヴェルレーヌに一任しました。彼女が決めた事をあるじであるからと勝手に操作するわけにはいきません、そうでしょう?」


 銀色の髪を肩に滑らせて、美しく微笑みながらわたしに同意を求めるように首を傾けるルイに、悪徳魔術師と胸の内で呟く。


「報告では、本日三失点目」

「っ……!」

「今日は伝承関係から出題しますので、しっかり復習しておいてください」

「……」

「マリーベル?」

「……はい。オドレイ、ペンとインクをお願いします」


 結構と、ルイが機嫌良さそうな声を聞きながら、わたしはオドレイさんが持ってきてくれたペンを手に父様が持ってきてくれた書類に署名する。

 なにかわからんが大変だな貴族の奥方になるというのもと、同情を見せた父様にええまあと答えながら署名が必要な箇所全部にペンを走らせまとめた書類を手渡す。


「よろしくお願いします」

「……たしかに。手続きが終われば、おそらく先方からその旨届くだろうから確認し、もし儂が保管するのがいいなら相談しなさい」

「そうします。あ、でもその場合ってフォート家とは別になりますよね」

「それくらいは縁者のやりとりでいいでしょう、実父の事実までは消えないのですから」


 本当、とルイを上目に見つめれば。

 勿論、と彼はわたしと父様に向かって和らげた表情を見せた。



*****


「ほう、なかなか上手いものですね」

「ルイ」


 背後から耳を打った声に驚いて、顔をあげた。

 再び私室に戻って考え込んでいたわたしは、彼がつながっている主寝室側から入ってきていたのに気がついていなかった。


「この屋敷の見取図ですね。マリーベル」


 感心するような言葉と一緒に、右のこめかみに降ってきた彼の唇が軽く触れてすぐ離れる。彼が落とした口付けを片目をつぶって受けたわたしは、彼の促しに従って仕方なく机に向かっていた席を立って移動する。

 父様もユニ家へとっくに戻った後、扉一枚で遠く離れたユニ家と行き来が出来るのだから本当に便利だ。

 まもなく日没で、窓から薄く赤紫に暮れかかった光の色が差し込んでいる。

 

「このままでは、いつまでたっても埒が明かないもの」

「貴女が諦め悪くこだわっている修繕の件ですか。それで?」

「やっぱりせめて、最低でもこの王妃の棟の両翼まではなんとかしたいです。本当は正面玄関のある主棟もなんとかしたいところですけど、一応外観は保っていて王妃の棟へ向かう部分はそれなりですから」

「最低でも数十人はいるでしょうね。貴女の仰る範囲を維持するなら」

「お庭も考えたら百名単位で必要です……数十人だとこの棟でやっとです。先代の頃もそうだったのでしょ……?」


 そこまででルイとの会話を止めてため息を吐く。

 夜番の勤務時間をやや繰り上げ、日没を合図に私室にやってくるヴェルレーヌから課せられている器楽の課題のため楽譜を机に用意していた最中、ルイが机の上に置きっぱなしにしていた見取図に気がついての会話だった。


「ん? どうしました?」

「……罰は、ヴェルレーヌが来てからでもよろしいのでは?」


 私室での休憩用に置かれている寝椅子カウチの上に、私は移動していた。

 より正確には、そこに腰掛けているルイの膝の上。

 ちなみに部屋の隅にはリュシーとマルテが控えていて、リュシーはにこにこと、マルテは俯きがちに頬を薄っすら赤らめている。


「講義時間が惜しいでしょうから」

「だってヴェルレーヌが来る前からこれじゃ、ただいちゃいちゃしているだけじゃないっ」

「いちゃいちゃいいじゃないですか奥様! 新婚上等! いちゃいちゃ上等です!」

「お願い……リュシーは黙ってて。あとルイは首筋に顔を埋めないでっ」

「三失点で貴女としては大変恥じらい嫌がるだろう、使用人達の前で私の甘いお仕置きを受ける罰を提案したのはヴェルレーヌです。苦情申し立てはヴェルレーヌにお願いします」

「……」

「私は、貴女のために仕方なく・・・・貴女が恥じ入るほど嫌がり、悪い癖を必死に直すために心を鬼にして協力しているだけです。ええ。私とて、こうも明からさまに見せつける趣味はありません」


 本来、恥じらう貴女は私のみが楽しむものです、などと意味不明なことを仰っているのは無視し、だったら早くっ、さっさと、ちゃっちゃと出題くださいとルイに頼む。

 膝の上に乗せられて抱きしめられ、あわよくば髪などにも口付けられながら、失点数だけ口頭で試験され、すべてに解答するまでルイから離してもらえない。

 ちなみにその間は当然、わたしが弱い彼の囁きや耳打ちも拒否できない。


「さっさと終わらせましょう、もーっ……」


 両手で顔を覆って半ば自棄気味に訴えると、かわいらしいことですね本当にとルイは少し呆れを滲ませて呟くと、わたしの頭を片手で軽く引き寄せて私の耳元で密やかに笑みの声を漏らした。

 ほぼ吐息のようなそれに、背筋の内側にぞわりとした落ち着きなさが生じる。


「では、四季の女神に仕える精霊で唯一の両性具有の精霊についてその伝承を――」


 姿が麗しいとお声も麗しいことは重々わかっておりますからっ。

 わざわざ声音を低めて、人の体の奥底に響かせるような閨で囁く睦言のごとき声音で、ねっとりとただの問題を耳に吹き込むように囁くのやーめーてーっ!


 絶対、面白がってる……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る