第61話 パンテエーヴルの孫娘

 わたしをドルー家に呼び出したお祖母様は、わたしとルイの間の本当のところを言いなさいと仰った。


「周囲は誤魔化せても、私は誤魔化されませんよ」


 眉の先をやや吊り上げ気味に、静かにお茶を飲むお祖母様に瞬きする。

 あまりに突然の質問になにをどう答えていいのかわからないでいると、そんなわたしの様子に仕方のない子といった様子で小さくため息を吐くと、お祖母様はお茶のカップを戻した。


「オルガ」


 ドルー家の応接間の壁際にオドレイさんと控えているオルガに、お祖母様が女主人然とした響きで声をかけたのに、彼女達に背を向ける格好で長椅子ソファに座っていたわたしは後ろを振り返る。

 もともとオルガはドルー家の使用人ではあるものの、ユニ家に移って二十年以上経つというのにお祖母様に呼ばれて恭しく目を伏せるその一連の流れに、まったく違和感がない。


「そしてそこの男装の貴女」


 お祖母様はオドレイさんも見ると、膝に置いていた黒レースの扇を手に取ってその閉じた先で彼女を指した。


「ルイ殿の従者ですってね。この不甲斐ない孫娘のかわりに主夫妻について説明なさい」

「ちょっ、お祖母様……っ」

「貴女は公爵家に輿入れしたのです。それなのに……ルイ殿に対してまるで娘か姪のような様子で」

「だ、だって実際ルイは父様と三つしか違わないのですから、そう見えるのは仕方な……」

「お黙りなさい。貴女からは妻としての気概のようなものが見えません。ルイ殿もあのいやらしい顔の割りに貴女に煮え切らない様子で、一体なにを考えているのかしら」


 長椅子ソファの上で斜めに、お祖母様と二人の間で行ったり来たり首を動かしながら、お祖母様を制止しようとしていたわたしだったけれど、ルイにまで及んだ言葉に喉の奥が詰まったように黙ってしまう。


 お祖母様から見て、ルイが夫として煮え切らないように見えたのなら、それはきっとわたしのせいだ。

 ルイは、つい反射的に彼から逃げ出しそうになるわたしのことを待ってくれているから。

 

「――恐れながら」


 朽葉色のお仕着せのドレスの裾を揺らし、壁際からオルガが一歩進み出る。

 そしてわたしをちらりと見て、少し申し訳なさそうに柔らかい皺を作って目を細めた。


「マリーベルお嬢様はモンフォール領より戻られてから、ルイ様とは閨を共にされておりません」

「閨って、お、オルガっなにを言い出すの!」

「大事なことです。ルイ様がお嬢様の好きにさせるようにと仰られたので口出ししておりませんが、公爵家のお屋敷でもそれが常のようなことも耳にしました。仲睦まじく見えるお二人ですが、流石に心配になりましたのでお嬢様に尋ねれば、奥様にはなられていらっしゃるものの、ルイ様の御領地内のお仕事が立て込んでしまったためと。ですが、大奥様」


 わたくしに言わせればそのようなこと、信じられません――。


 きっぱりと言いきったオルガに、再び彼女を咎めるように呼んでしまう。


「いいえお嬢様。このオルガの目が老いていないというのなら近くにいればお嬢様から片時も目を離さず、初めてお会いした際にわたくしに、“夫である私が責任を持って、公爵家の妻として仕立て上げます”と仰ったルイ様が、いくらお仕事が立て込んだとしてもそんなこと」

「いえ、だからそれは……」

「お二人がご夫婦なのは間違いございません」


 淡々と冷静な調子で低く通る声が、言い淀むわたしの言葉に被さったのに、わたしがオルガから少し視線をずらせば、壁際でオドレイさんが片手を挙げていた。


あるじと奥様のため発言をお許しいただけますでしょうか」

「許します」

「初めてお二人が寝間に入る夜について、旦那様は婚儀の前に少し迷われているご様子でした。奥様は旦那様に突然求婚された後、ほとんど詐欺同然のやり口で旦那様に婚約の契約を結ばされるに至り、その後も数々の策略で婚約破棄することが出来ずご結婚することになりましましたので、旦那様もそれなりに気に病んでいたようです」

「あら……」


 お祖母様が目をきらりと光らせて、手を扇で打つ。

 あの……オドレイさん、先程あるじと奥様のためって言ってましたよね?

 それなのに、いくらなんでもそれは説明しすぎでは。

 

「本当は奥様のお心が落ち着くまで待ちたいと。しかし事情があってその夜だけは譲ることができないとも仰られていましたので」

「オドレイさん……?」

「旦那様に雇われる以前の私が調合していた特別の薬効のお茶を、旦那様には無断で奥様に用意しました。旦那様は奥様を逃してはなりません。奥様はこれまで旦那様に近付いていたご婦人方とはまるで違います。これほど旦那様の地位も名誉も財力も美貌も、私共から見て面白いほど通用しない方は他におりません」

 

 えっと……どうしよう。

 きりっと凛々しく忠臣そのもの様子で話しているけれど、中身が……内容が……。

 どこから突っ込んだらいいのかわからない――!


「貴女……先ほど、ルイ殿とマリーベルのためと仰っていなかった?」


 ばさっと広げた扇で口元を隠して、お祖母様がオドレイさんに確認する。

 お祖母様がそう尋ねてしまうのも無理はない。

 どう考えても、特にルイについてはその通りにしてもひどい説明だもの。


「はい」


 お祖母様に問われて少し不思議そうに黒目がちな目を見開いたオドレイさんに、わたしはがくりと斜め座りでソファの座面に両手をついて項垂れる。


 わ、わかっていないのね……オドレイさん。

 たしかに彼女は、少しだけ人の機微に欠けるようなところや、その凛々しい男装の麗人といった姿からは想像できないちょっと抜けたとこがあるのだけれど。


 それにその話が本当なら。

 あの媚薬紛いのお茶を用意したのはオドレイさんの独断で、ルイは関与していなかったってことになる。

 あの時、彼はたしかにわたしにこう言った。

 まさか、彼女の古い知識を借りることになろうとはって……まさか!?


「たしかによく考えたら、命じたとも頼んだとも言ってない……借りるなんていい方もちょっとおかしいし……」


 間違いない。

 ルイは、オドレイさんが彼のために用意したお茶がなにかに気がついて、それを使うことにしたんだ。

 彼が薬を使って、わたしは仕方なく受け入れさせられたと思わせるために。

 言葉の悪徳魔術師……あ、いやこれに関しては悪徳ではないか。

 でも。


「馬鹿じゃないの、あの人……」

「マリーベル、先程からソファに向かってなにをぶつぶつと言っているの」

「あ、いえっ」


 なんでもとわたしが慌てて答えるのを胡散そうに見てお祖母様は、オドレイさんに続けなさいと促す。

 

「旦那様がお持ちのものがまったく通用しない奥様ですが、これまで旦那様が関わった誰よりも旦那様にお付き合いくださっているようにも思えます。ご自分が危ない目に合っても、旦那様や怪我を負った使用人の私の不用意さをお叱りになるくらい。守るべき他者をご自分より優先させる旦那様の事を、本当に困った領主様だと心配して。ですが離婚はなさりたいようです」

「離婚……?」

「お、オドレイさんっ」

「いま彼女の話を私が聞いています、マリーベル」

「あの、でも……お祖母様……」

「貴女は黙っていなさい」


 有無を言わせないお祖母様の口調に、うっと気圧されてわたしは黙った。

 なんとなく救いを求めてオルガを見れば、何故かにこにこして頬に手を当てこちらを見ている。


「旦那様があまりに強引に進めたご結婚がどうしても納得できないご様子で、それはそうだろうと事情を知るフォート家の使用人は奥様の味方です。ですが、離婚するまでは妻であるから妻としての務めは果たすとも仰っていて」

「そう」

「実際、あまり手入れの行き届いていなかったフォート家のお屋敷を整えることに奮闘されていらっしゃいます。また、旦那様がこれまで蔑ろにしていた各所とのやりとりにも丁寧に対応されています。日に何通も手紙を書き、公爵領のことを学んで、ユニ領へ赴くその道中でも旦那様の課題をこなしていらしゃいました」


 嫁いでいるのですからそれ位のこと当然です、とお祖母様は扇の向こうで呟き、それでと更にオドレイさんを促す。


「旦那様とも閨を共にすることは少ないですが、仲睦まじくいらしゃいます。従僕のシモンなどには時折目の毒にもなっているようです。お考えもよく通じていらっしゃるご様子で、正直、離婚されたいと仰っているのが私にはよくわかりません」

「そうですか」

「それから。なるべく他者に頼らない、ご夫婦の間でもといったところは大変よく似ていらっしゃいます」


 そこまで話して、ようやくオドレイさんは説明を切り上げた。

 ソファの上で再びがくりと項垂れたまま、顔が上げられない。


 オドレイさん……本当にほぼすべてをお祖母様に。

 それにルイと仲睦まじくなんてした覚えがまるでないのだけれど、第三者から見るとそう見えるの?

 わからない……。


「わたくしも、モンフォールからお帰りになったお嬢様は明らかに気落ちして、お顔の色も悪かったのにまるで旦那様であるルイ様に寄りかかられないことが気になっておりました。冷め切ったご夫婦仲ならともかく、そうではないのにと」


 オルガが、オドレイさんの言葉を補足するようにそう言ったのに、元々のわたしの部屋で一人で休むことにしてオルガに寝台を整えてもらったあと、彼女が物言いたげな様子だったことがふと脳裏に浮かんだ。


「二人ともよく話してくれました。少しこの子と二人で話します。しばらく下がりなさい」


 お祖母様が静かにそう言って、二人がかしこまりましたと応接間を出ていく。

 ソファに項垂れたまま、急に静かになった応接間でお祖母様と二人きりでいることがなんとなく気詰まりに思っていたら、マリーベルとお祖母様がわたしに呼び掛けた。

 あれと思わず顔を上げてしまうほど柔らかい声だった。


「お祖母様……?」

「次は貴女の話を聞きましょう」


 ぱたんと扇を閉じて膝下に戻してお祖母様は、きちんとお座りなさいと落ち着いた声音で言ってわたしは従った。


「話といっても、これまでのことはオドレイさんが話した通りで、ユニ家にきてからはオルガの話した通りです」

 

 そう答えれば、貴女は……と半ば呆れたようなため息を吐いてお祖母様はカップを口元に運んだ。


「貴女は一体どういった考えで、どんな気持ちでいるの」

「どういったもなにも……実際、結婚してしまったのですから妻でいる間はその務めをと」

「それはそうです。けれどそんなことを私は聞いているわけではありませんよ」


 それはわたしもわかる。

 でも、じゃあなにを話せばいいのかがわからない。


 だって貴族同士の政略結婚でもないし、平民のお見合い結婚でもないし、ましてや恋愛結婚でもない。ルイに求婚されて、彼の策略に乗せられ流されるままなすすべなく結婚している。

 

「……父様達のように好き合って結婚なんてとても珍しいってわかってます。それに政略結婚やお見合いだからって夫婦の気持ちが通わないわけでもないし……けれどどれにも当てはまりません」

「貴女、ルイ殿のことが嫌いというわけではないのよね」


 お祖母様の問いかけに、両手を膝の上で握り合わせてこくりと頷く。

 

「閨を共にしないのは、苦痛なの?」


 お祖母様とはいえ、あまりに立ち入ったことを問われて一瞬固まってしまったけれど、気遣わしげな眼差しに少し逡巡して小さく首を横に振った。

 動揺や羞恥のために逃げだしたくなるのはあるけれど、触れられて苦痛だったことはない。

 むしろ自分が自分じゃないようにルイに対して切なさを覚えたり、腕の中で安堵を覚えることもある。正直、触れた唇が離れていくのを惜しむような気分になったことだって。


「じゃあ一体、どうして……」

「だって、わたしがルイのこと……好きになる前提でしか動いてない……」


 ほとんど口の中で呟くようなわたしの言葉を聞いて、お祖母様が眉根を寄せる。

 怒ってではなく心底不可解といった表情だった。


「……なにを、貴女は言っているの?」

「わたしの心はわたしのものだって、捻じ曲げて手に入れても仕方ないっていっておきながら、拒否権はないっておかしいっ……でも、ルイが最大限譲歩してくれていることもわかってて。いまや駄々をこねているようなのはわたしの側だろうし」

「マリーベル?」

「ただじっと待ってくれるわけでもないけれど……無理強いもしないし責めることないの……気持ちを向けられるのも、触れられるのも、触れるのも嫌じゃないから、困るの……っ」 


 落ち着きなさいと注意されたけど、なんだか止まらなかった。

 これまで何度も何度も、彼に惹かれそうになる度にその手前でどうしてもひっかかってしまうわだかまりがあった。

 納得いかない不満のようなものがせきを切って溢れ出したように言葉が止まらない。


「それに、いまなら色々強引にどんどん進めていったのはフォート家の“祝福”の事情もあって、それはわたしにその影響を及ぼさないためでもあるってわかるけれど、それに……外堀は見事に埋められたけれど、どうしても嫌だってなったら逃げ出せる余地も残してくれていて……だけどそれは絶対使わせないようにもしてて……こんなにあれもこれも全部許して甘やかされたらわたしだって……だけどその度に思ってしまう……」


 ふっ……う……と自分の口から漏れた嗚咽に、いつの間にか気が昂りすぎて泣いていることに気がついた。

 お祖母様は脈絡のないわたしの言葉の勢いに呆気にとられている。


「結婚なんて、いままでとこれからの全部を含むのに……それも平民のわたしが公爵家なんて……なにもかも変わっちゃうのに。わかってます、それすらなるべくそのままでいられるようにって配慮してくれてるのは……」


 マリーベル――と、お祖母様の声が聞こえたけれどわたしは首を振る。


「だけど、でも、少なくともルイは結婚に関しては、わたしの意志も人生も尊重はしてくれなかった……って」

「貴女……」

「わたしが……ルイのこと好きになったらそれで済むようなこととして、求婚の返事をする機会もなく曖昧なままにしようとして。わたしが彼への気持ちを伝えてよしとなる話じゃない……だって、これまで散々わたしは離婚のことを口にしてきたし、ルイもフォート家の“祝福”で家族が壊れてしまったことがあって……」


 本当に……なんてこととお祖母様が息を吐いた。


「……このままでも結局のところは同じことなのだから、いいといえばいいのかもしれないけれど。お互い、要件が揃えば別れることを前提にして日々を積み上げていっていいことなの……って」


 いいわけがないでしょう、と叱りつけるようなお祖母様の声に、押し寄せる感情や思い浮かぶ心のままに言葉を吐き出していたわたしははっと我に返る。

 ひっく、と喉がしゃくり上げる音を鳴らした。


「まったく情けない……だから王都へやる前にドルー家に貴女をよこしなさいと私は言ったんです。それをジュリアンがこちらにアルテュールの手が回るのを恐れて」

「お祖母様?」


 パシっと、閉じた扇を手の中で打ち鳴らしてお祖母様は立ち上がった。


「貴女はそれでも私の孫娘なのっ!?」

「……えっ、と」


 お祖母様のあまりの剣幕に、涙も激情も引いてなんだかぽかんと呆けてしまった。

 そんな様子を見せたわたしが歯痒かったのだろう、お祖母様はさらに声を上げた。


「マリーベルっ!!」

「は、はいっ!」


 思わず背筋を伸ばして、まるで気高い女帝のごとき威厳を放ってわたしを見下ろしているお祖母様の顔を仰ぎ見る。


「パンテエーヴルの血を引く女たるもの、殿方に流され通しでどうするのです! 伝えるべき気持ちがあるのなら、きちんと伝えなさい!」


 お祖母様の生家のパンテエーヴル家はほとんど平民に近い男爵家だけれど、貴族として珍しく女系が強い。当主は長女が継いで爵位は婿を取って継承させる。

 お祖母様は三女なので、ドルー家に嫁いだ。


「や、でも……ルイは……」

「夫の抱える不安も消せずになにが妻の務めです。寝言は寝てから仰いなさいっ!」

「そんな……だって……」

「だってじゃありません。本当にいつまでも成人前の娘じゃないのですよ。ルイ殿が貴女の答えを聞かないなんて泣いている暇があったら、絶対貴女の答えを聞かせるような方法を考えなさいっ」


 びしっと扇の先を向けられて、思わずはいっと返事をしてしまう。

 わたしがほとんど反射的に返事をしたのに、まったくと息を吐いてお祖母様は優雅な動作で長椅子ソファに座り直して、ほとんど空になりかけているわたしとご自分のカップにお茶を注ぎ入れた。

 先程までの女帝のようだった様子はどこへやら、淑やかで優しい所作だった。


「貴女のお母様も、私も、この人と思った殿方を自分で掴んだのですよ」


 柔らかい笑みを見せてカップを口元に運んだお祖母様に、はい……と、今度はきちんと返事をしてわたしもカップを持ち上げた。

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