第64話 二度目の求婚
木々や草をざわめかせるような夜風が吹く。
まるでわたしや彼の波立つ胸の内を表すような風とその音だった。
対象の名前、なにを行うかその内容、そして代償。
申し入れの要件は揃えられる。
問題は、彼が申し入れをすぐさま断らないか。
わたしが代償として彼に差し出すものを、彼が拒まないか。
大丈夫。ルイはきっと、応じてくれる。
彼にわたしが差し出せるものは一つしかないけれど、きっと。
「たかが私の求婚に答えるために……申し入れですか?」
困惑を浮かべたルイに頷いて、なにをやっているんだろうと泣きたい気分だった。
求婚に答えるといった雰囲気ではまるでない。
どちらかといえば、物事の決着をつけるためこれから決闘でも始めるような。
わずかな距離を保って対峙し、じっと見つめ合い、互いをうかがっている。
すでに結婚して彼を受け入れてもいるのに……こんな形でしか彼にきちんとした自分の気持ちを伝えられない、自分の可愛げのなさが嫌になってくる。
けれど泣けば、ルイはわたしではなくわたしの涙に譲歩する。
どんなに情けなくてもそれはだめと心の中で自分に言い聞かせていたら、根負けしたようにルイは俯いた。
なにもかも投げ出すような短いため息を吐いて、ゆっくりと俯けた顔を戻した彼の、真っ直ぐにわたしを見る青味を増した灰色の眼差しの鋭さに足がすくむ。
「いいでしょう」
冷ややかな硬い声に、胸元で握り締めていた手も震えた。
「それで一体、なにを差し出すつもりで?」
「ルイ……」
「念のために言っておきますが、すでに婚姻も行った後です。貴女の言葉如何によってはこれまでのすべてが覆る。私はいままで貴女が穏便に離婚したいと口にするのと同じくらい、穏便に貴女を手に入れるための努力をしてきたつもりです」
知っている。
わたしは頷いた。
頷いて、彼の言葉に胸の内の不安がどんどん膨らんでいく。
本当に。
ルイはわかってくれるの?
わかってくれても、まるで掌を返すようなわたしの身勝手さに愛想が尽きたら……。
だって、さっきのなにもかも投げ出すようなため息。
わたしを見る目、淡々と本当に交渉口調な彼の説明。
これって、わたしがルイの求婚を断る言葉を聞かせる気でいると彼は思っている。
わたしがルイを好きだとわかっていても、そうとしか思えないだけのことをわたしは彼に言ってしてきた。
やっぱり大人しくルイの思惑に沿って、いつかわだかまりも解けて忘れるまで、彼に流されていればよかったのではないのかと、こうして彼と向き合ったことを後悔しそうになる。
けれどいつか彼が言った通り、一度口から出た言葉は元には戻せない。
「ええ、貴女の仰る通り。私は結婚に関しては貴女の意志も人生も尊重しなかった。私に付随する地位も名誉も財力も貴女にはなんの意味もなく、見てくれも通用せず、中身といえば何事にも常に保険をかけ、貴女に対しても自分が不利にはならないように振る舞ってしまう」
「ルイ……?」
突然、わたしが投げつけた言葉を認めて自分のことを話し出したルイに、今度はわたしが彼がなにを考えているのかと警戒を覚える番だった。
ルイのように取り繕えないわたしは、明らかに警戒や不安が表情に出てしまっているだろうに彼の言葉は止まらない。
「おまけにあの厄介な“祝福”まである。貴女に同情されたくなかっただけじゃない、決定的に逃げたくなるだろうとも考えていました。生まれただけで母親を狂わせたのですからそりゃそうでしょう」
「……」
「それに“祝福”の影響を抑え込むつもりでいるのに、わざわざ教えてなんの利があります? ジュリアン殿に教えたのは、不都合を伝えずには判断してもらえない相手だったからです。彼は貴女のようにはいかない。それに話すことで信頼もいくばくか得られる計算もありました……もっともモンフォールの脅威が差し迫っていて実利を優先されましたが」
初めてモンフォール家よりずっと優位な自分の立場や身分、フォート家の魔術に感謝したい気分になリましたよと、ルイは冷笑した。
わたしに向けてではなく、彼自身に向けられた笑みだと思った。
体が冷えたわけでもないのに寒さを感じて、わたしは自分の両腕を交差させて二の腕をさする。ルイは寒くないのだろうかたっぷりした絹のローブだけどその下は薄着なのに。
先程から、彼がわたしとは別の場所に立っているような気がしてならない。
草の緑に覆われ、花壇の花が開きかけている春を迎えたユニ領ではなく、真っ白な雪に覆い尽されたような寂しい場所。
そんな場所にルイが立っているように思えてしまうのは何故だろう。
「この結婚で、私が貴女に与えられるとしたら不幸だけ……それなのに貴女ときたら」
「……ルイ」
「貴女が認められていた場所を捨てさせ、家族とも引き離し、私を快く思わない者達もいる貴族社会の付き合いに巻き込んだ。“祝福”の影響を回避できても、私の……フォート家の魔術が貴女を傷つけない保証はない……まだ若いお嬢さんのような貴女を、私のような偏屈にただ歳を重ねてきた男に一生縛りつけて」
貴女に出来る限り配慮するのは当然です。
モンフォールの件だって、それだけで足りると思いません。
そう言って、ルイは微かに自嘲した。
馬鹿な人だと思った。
本当に……馬鹿じゃないのかしら、この人は。
だって、実際、わたしはこの人との結婚で失ったものなんてなにもない。
たしかに父様とは以前のような親子ではいられないかもしれないけれど、それは公の場の話で、普通に嫁いだって似たようなものだ。
父様とわたしの間はなにも引き離されてなんていないし、むしろこれまでより顔を合わせたり話す機会はきっと増える。
それが出来るようにしてくれたのはルイだ。
わたしのことを何度助けて守ったと思っているの?
蔓ばら姫と、トゥルーズと、モンフォールと……三度だ。
たかだか半年程の間で、死んでもおかしくない危機から三度も助けて守ってくれた。フォート家の人たちだって、彼との結婚がなければ出会っていない。
「さて……当初から逃げられるとわかっているところを、そう簡単には逃げられないようにしてきました。これを覆す答えをわたしに聞かせようと思うなら、相当の代償を必要とします」
「ルイ……」
「魔力も魔術具もそれに匹敵するようなものも持たない貴女が、一体なにを差し出すと? まさかたかが求婚に答えるために命でも差し出すつもりですか? これきり一度だけなら間違いとして撤回も……」
「たかが、なの?」
聞いていられない。
これで三度目となる、ルイの言葉を途中で遮ってわたしは彼に問いかけた。
え、と虚ろな声を漏らしたルイに、だんだん腹が立ってくる。
本当に、本当にっ。
どこまでご自身のことを蔑ろにすれば気が済むのこの人っ!
ええええ、あなたはたしかに偏屈ですとも。
おまけに馬鹿正直で、誠実過ぎる。
なんなの、起きてもいないことまで先回りして気に病んで。
誰だってご自分が不利になるようなこと、わざわざ好んで表に出そうなんて人はそうそういないでしょう。
大体、不幸しか与えられないとまで考えていながら、わたしを一生縛りつけるとか、そう簡単には逃げられないようにしてきたとか、言ってて恥ずかしくないのかしら!?
「だから、さっきからたかが求婚なの?」
「……それは」
「いま、わたし。すっごく腹が立つやら恥ずかしいやら淋しいやらで、どう反応していいのかもわからないのですけどっ!」
感情任せに声を張り上げれば、ルイが呆気に取られたようにわたしを見た。
隙のないお貴族様もすっかりどこかへ消えてしまって、一体なにをそこまでと顔に書いてあるような様子に、信じられないこのわからず屋っと胸の内で叫ぶ。
「とにかく! たかがじゃないからっ!」
「マリーベル?」
「そうじゃないから、だから代償は……わたしの……えっと……」
う、いざ口にするとなると、彼の告白を聞いたあとだけに余計に恥ずかしい。
もう正直、わたしが思い悩んでいたことなんてどうでもよくなってきたのだけれど、ここまで彼を強張らせた上にいたずらにかき乱すような真似をしておいて。
勝手に彼がその胸の内を吐露しただけとはいえ、それを聞いておきながらやっぱりいいです気にしないでとは、流石に……できない。
それこそ、私は一体なにをしたかったんだといった話になる。
「貴女の……なんですか?」
「繰り返さないでっ!」
「……っ、わかりました」
理不尽なと顔を
わたしの……口の中で呟いて、不可解そうにわたしを見ているルイの顔を見た。
わたしの――。
「わたしのクインテエーヌの紡ぎ糸をあなたに捧げますっ! だからあなたの求婚の返事をわたしにさせてっ!」
目を閉じて、ほとんど叫ぶように一気に告げる。
告げた瞬間、ぶわっと全身の熱が上がって俯いた。
顔も耳も首も全部、熱い。
時の女神が従える、輝きの精霊クインテエーヌ。
天上の紡ぎ糸、それは時間を司る。
わたしの人生の時間、それをあなたの求婚の返事をするためにあなたに捧げますだなんて、返事をする前から返事をしているのも同じだ。
しかも本来は男性から女性に告げる、求婚の言葉でもあるし。
わたしが一生かけてあなたを守るから、二人の人生の糸で布を織り上げてくれ、生涯を共にしよう……とでもいった?
「……」
返答が、ない。
しん……と、田舎屋敷の庭が静寂に満たされたのに、まさかなにも反応がないなんて想定外すぎてわたしは
えっ……と……どうしよう。
顔を上げようにも、上げるのが怖い。
そのまましばらく待っていたけれど、いつまでたっても完全に沈黙したままルイはなにも言わない。
けれど特に拒否するような気配も感じられない。
やがて、農地が広がる方角から複数のカエルの鳴き声が聞こえ始める。
たぶん、畑に水を巻くための溜め池に棲むカエル達だろう。
これは……本当に、どうしたら。
せめて、なにか言ってよと閉じていた目だけをそろりと開ければ。
濃紺の夜の闇に染まった視界に、ルイの象牙色の掌が白く浮かぶように差し出されていて、驚いたわたしは俯いていた顔を上げた。
全然近づいてきた足音も気配も感じなかったのに、数歩離れていたはずの彼との距離もほんの一、二歩にまで縮まっている。
わたしに右手を差し出して、ルイはいつまで待たせるとでも言いたげな不機嫌な顔をしていた。
意図してそう作っている表情ではなく本当にそう思っていそうな表情で、こんなに短時間の内に表情を次々と変えるルイを見たのはもしかすると初めてかもしれない。
どれもあまりご機嫌のよろしい顔ではないけれど。
「え……なに……」
「なにじゃありません。指輪を」
「指輪?」
「貴女にとっては貞淑な妻たる証なのでしょう? それをしたままこれから私の求婚に返事をするのはあべこべでは」
「はあ、まあ」
そうかもしれないけれど、でもどうして?
あなたにとってはただの金属の輪っかなのでしょう?
そんなことを思いながら、一度は上げた顔をまた伏せて、彼の掌を見つめながら指輪を外してその上に載せる。
恥ずかしいし気まずい。
たとえ不機嫌な表情でも、ルイの顔がまともに見られない。
「まさかクインテエーヌの紡ぎ糸とは……そんなものを代償に捧げられては応じるしかない」
至近距離からルイがぼやく声と呼吸を整える音が聞こえて、俯いた視界の上方からぽぅっと灯った淡い銀色の光を感じ、わたしは再び顔を上げる。
顔を上げたわたしの丁度目線の高さにまで掲げられた、指輪を預けた彼の手元が光っている。
彼の光る掌の上で、わたしが渡したものと、彼のもの、二つの指輪が浮き上がってまるで追いかけっこをするようにくるくると円を描いて回りだす。
「……本当に、貴女という人は」
「ルイ?」
「想定通りにそれ以上のことをしてくれる。その度にどれほど私が……」
「あなたが?」
ふっと、柔らかな笑みの声が、わたしの目線より少し上にあるルイの口元から零れる。
「生命と死、受容と忍耐、再生と豊穣を司る、雪の季節を同じくする、この地に生まれた娘マリーベル――」
厳かに。
まるで魔術の詠唱のように、わたしの名を口にしたルイに、ようやくわたしは淡い光を受ける彼の顔を見上げた。
わたしも彼もたしかに同じ冬生まれ。
雪の季節を同じくするとは、おそらく彼と生まれた季節を同じくするといった意味だろう。
けれど、この地に生まれた娘って?
どうしてわざわざ、わたしの名前にそんな前置きをと思って、そうかと気がついた。いまのわたしは、王妃様の一族の姓も持っている。
この先のわたしの言葉如何ですべてが覆る……それを考慮しての呼びかけ。
わたしの申し出に、彼が応じた証拠だった。
麗しい顔を台無しに苦々しく顔を
「命運の女神に、この指輪を証と我は示す者なり――」
低くよく通る声音が月明かりの青い闇を震わせ、先ほどまで少々耳にうるさく感じられるほどの合唱になっていたカエルの鳴き声もぴたりと止み、さわさわと時折草木を揺らしていた風さえも凪いでいた。
まるで大聖堂で行われる、儀式みたい……。
ここがユニ家の庭であることを忘れ、しらず背筋を伸ばしていたほどに。
静寂と神聖さが一帯に満ちている。
彼の手から溢れる光と月の光が混ざり、わたし達が立っている周囲は柔らかな銀色の光に包まれていた。
わたしの目の高さでくるくると回っていた指輪は、いまやルイの頭よりも高い場所で軌道を描き、濃紺の夜空に銀色の光の陣が徐々に浮かび上がっていく。
「天上の紡ぎ糸を私に捧げた貴女と、互いの糸を生涯かけて織り上げることを誓い、たとえそれが破れ、汚され、切り裂かれようと、けして互いの糸を手放すことなく、必ず、この手で織り継ぎ染め戻す。我が身と我が力と我が時をかけて――」
二本の銀色の光の糸が寄り合わさって描く綺麗な円、層のように重なる緻密な紋様。
春の花、夏の穀物の穂、秋の蔦、冬の雪。
巡る時の輪。
濃紺の夜空をほんのわずかな一時だけ、淡い光に染めて、次第に青い闇へと溶けていく。
彼の掌の上に降りてきた金の指輪だけが、その余韻のような光をきらきらと散らして輝いていた。
「今度こそ……私の妻になってくださいますね?」
「えっと」
「いいですね、マリーベル!」
「は、はい……っ」
青みを増した灰色の瞳に射抜かれて、慌てて返事と共に頷く。
なんだか、彼に脅されて頷いたみたいになってしまったけれどと思いながら、深呼吸してルイを真っ直ぐに見て告げる。
こんなにも……一言、一言の言葉を、その意味を、噛み締めるようにして特定の人だけに向けたことはない。
「あなたの求婚を受け入れることを選び、あなたの妻としてこれに応えます」
促されて、左手を差し出す。
彼にとってはただの金属の輪っかだったはずのものなのにと思いながら、薬指に嵌められた指輪を眺める。
無言でルイが自分の指にも指輪を嵌めれば、それを合図に互いの指輪が一瞬目を眩ませるほどの光を放って強く輝き、そして光は完全に消えた。
「命運の女神に、指輪を証として示すと詠唱表明しました……もはやただの金属の輪とはいえません」
驚いたままでいるわたしに、やや斜めに顔をそむけてルイが説明する。
「貴女が選んだ答えですから、後になって嫌だと言っても……」
「もしかして、すごい言葉を承諾した?」
ほんの一、二歩の距離。
わたしから彼に歩み寄れば、彼の、夜の色に紛れそうなたっぷりした絹の袖がゆっくりと左右からわたしを包んだ。
「なにか執念と怨念すら感じるような言葉だったけれど……」
「それをいま言いますか? だからって撤回もなかったことにもできませんよ。たとえすでに結んでいる婚姻が解消されても、天上の紡ぎ糸を私に捧げたあなたの申し入れを受け、命運の女神にかけて私達の間で結んだ誓いであり約束です。これは消せません」
私達の間で結んだ誓いであり約束――。
トゥルーズで、ルイはそんな実効力のないものになんの意味があると言っていたのに。
「……貴女が私に捧げた対価も大概ですけど」
わたしに向けて二度目の求婚の言葉は、たぶんわたしが彼に捧げた代償を受けて、時の女神と輝きの精霊に誓う形で紡がれた言葉で表現だったのだろうけれど――。
わたしと生涯を共にすると誓い、それだけでなくたとえどのような事が起きても、わたし達の築いたものが壊れ、踏みにじられ、奪われ失われようと、彼のその身と力と人生をかけて、必ず取り戻しわたしの側にい続ける……そんな内容だったよね?
「自分の人生の時間を捧げるから、私の求婚を受けるかどうか選ばせろとは。代償を提示した時点で返答したも同じでしょう。そこまでされたら……流石に引き下がれません」
彼の言葉と、それを紡ぐ口元が降りてくる。
唇が触れて目を閉じた。
いつもより熱い。
唇も、舌も、吐息も……わたしを抱き締めている腕も、首筋に触れる手も。
離れて頬に触れた胸元も。
本当にいいんですかと耳元で囁くように問われて、いいのと彼の首に腕を回した。
再び唇を重ねる、今度はわたしから彼にお返しした。
「撤回もなかったことにもできないのでしょう?」
「ええ」
できません、できてもしません――聞こえた言葉に彼の鎖骨の下に額を押し付ける。どうしてだろう、目頭まで熱い。
「マリーベル?」
「……ルイがいいの、ルイが好きなの」
だからいいの、と呟いたわたしの声はきっとルイには聞こえなかったはずだ。
それくらい、ほとんど胸の内で呟いたような言葉だったから。
けれどその後、満ち足りたため息と共に零れたルイの言葉に、わたしは彼を仰ぎ見た。
聞き覚えのある言葉だった。
しばらくして、ああそうだと思い至る。
――まさか、この私にこのような日が来ようとは……。
それは王宮で、わたしが初めて聞いたこの人の言葉だった――。
第2部<完>
第3部「王都の社交」に続きます。
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