第50話 西部を行く
北寄りや山に近い場所はそうでもないけれど、西部は東部や北部と比べると暖かい。
豊かに水を
そよぐ風が含む、春の草や土の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、わたしは小高い丘の上から見渡せる景色を眺める。
春の陽光降りそそぐ平野、空を流れる雲の影を映しどこまでも続くかのように広がる若草の緑、青くゆったりとうねる大河、大河に沿って点在する古城の街。
西部だ――。
西部の風に、匂いに、風景。
北部王領の、人の行き交う道が集まり、狩猟の森や離宮の庭園など自然はあってもどこか整えられた風景。
東部の、針葉樹の多い鬱蒼とした森が続く風景。
それらとは明らかに異なる。
自分でもちょっと意外に思えるほどの懐かしさを覚えていたら、やや遠く背後からわたしを呼ぶ声が聞こえた。
「もうそろそろ出発しますよ」
「ルイ」
湖のそばで馬車を降り、早めの昼食がてら休めていた馬を繋ぎ直したことを告げるルイを振り返りこっちに来てと手招きすれば、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
公爵領を出てからは魔術師然とした濃紺のローブ姿でいる。
わたしの背後にルイは立ち、ほうこれはと呟いた。
「噂に違わぬ風光明媚な地のようですね」
「ええ」
あの一際目立つ水門のあたり一帯がモンフォール領。
北寄りにまだ雪の残る山が見えるでしょう。あの麓のあたりにユニ領、その途中に小さく見える古い時代の簡素なお城があるの見えます?
あれがモンフォールのお屋敷です――なんて、わたしが見渡せる風景に腕を伸ばし、指で示しながら説明すれば、銀糸で縁飾りの刺繍を施したたっぷりした絹織の袖に包まれた腕がお腹に回され、背後から軽く抱き寄せられる。
「うれしそうですね」
「三年以上ぶりですもの」
今日の日暮近くにはユニ領に着くでしょうと、後頭部から少しくぐもった声が聞こえて髪に口付けられた気配に、ついはしゃいだ声でルイに説明してしまった自分が小さな子供みたいに思えて恥ずかしくなり少し俯けば、くすりと彼が笑む気配がした。
「モンフォール家と約束は明日の午後ですし、お父上殿のジュリアン殿からしばらくゆっくりしていきなさいとのお言葉を手紙でいただいています、娘として存分に甘えるといいでしょう」
「もう甘える歳ではないですっ」
翌月の春の祝いで、正式に二十歳だ。
正直、二十過ぎて婚約者もなく未婚だと、世間的にはなにか問題のある娘扱いされてかなり面倒くさくなる。
婚礼準備中に生まれた日が過ぎていったから、ナタンさんの言う通り、本当に本当にわたしは“行き遅れ寸前崖っぷち”だったわけで、しかも父様は法務大臣様のところに打診があったわたしへの縁談を握り潰していて……。
「もう、本当に父様ったら」
「なにを急に不貞腐れたのかと思えば、貴女の縁談が潰されていた話をまだ根に持っているんですか?」
「だって、いくらユニ家の経済力目当てといっても、お貴族様なら爵位や領地か俸禄なんかもあるし小さな投資が大きな利益ってこともあるかもじゃないのっ」
「その才覚があれば。ないと判断されたからだめだったのでしょう」
「うっ」
「そもそも経済問題でも、まずは同じ貴族を当たりますよ」
「うぅ……」
「そこでユニ家というのなら、貴族の中でどこにも相手にされないか、もしくは爵位のないユニ家であれば御し易いと、はなから貴女とお父上殿を侮っているかどちらかです。どちらにしてもお父上殿が首を縦に振るわけがない」
「あぁっ、やめて!」
「現実を見ましょう、マリーベル」
ええ、ええ、わかっています。
あなたに言われなくったって、わかっているわよそんなことっ!
で、でもちょっとくらいはわたしになにかしら興味もあって考えたのかもって、少しくらいはそう思いたい乙女心じゃないっ!
「で、でもですよっ。お金目当てだからって皆が皆、妻に愛情を持たないとは限らないじゃないっ。わたしだって根が悪い人でなければ、相手に喜んでもらって好意を持ってもらえるよう努力だってしますっ」
「ほう、貴女がそれを私に言いますか」
ひやりと首筋が冷えるような麗しいお声の重みに、あ……と、自分の失言に気がついた。
ユニ家にとって小さな投資どころか、なにもせずとも父様に法務顧問として金貨五千枚の専属契約を持ちかけ、その後もこれでもかとあれこれとご用意くださる、この国でも指折りのお金持ち。
しかもどうやら本当にわたしを気に入ってくださっていて、悪徳魔術師ではあるけれど根は悪い人ではない……。
「ば、馬車に戻りましょう!」
「マリーベル」
にっこりと微笑んだ顔を背後から寄せてきたルイに、はい、と返事だけして思わず首ごと回して目を逸らす。
「一度、仰ったことは元には戻りません。“根が悪い人でなければ相手に喜んでもらって好意を持ってもらえるよう努力だってする”。実に結構、ぜひとも励んでください」
あ、はは……と、思わず乾いた笑みが漏れる。
記録の魔術が有効なら、記録を取り出しかねない目をしていらっしゃっる。
口の中に施された魔術は、昨日めでたく有効期限切れとなっていた。
魔術といえば。
ユニ領を訪れたのは結婚後の報告のためだけじゃない。
わたしが妙に魔術に慣れていると彼に思わせることについて、その原因を調べるためでもある。
「あの」
「ん?」
「父様はともかく、本当に魔術とは縁なく過ごしていましたよ?」
「そのことですが……道中、あなたとの交換教授でなんとなくわかるような気もしてきました」
交換教授とは、わたしがルイから貴族の教養としては必須である魔術の基本的知識を教わり、その受講料としてわたしがまだ幼い頃から故郷の農夫から聞いた、“植物を育て方”に関する知恵をルイに教えることだけれど、それでなにがどうしてなんとなくわかるの?
「ここで説明するのもですから、馬車に戻りましょう」
そよそよと吹く風が、足元の草とわたしの淡い藍色のドレスのスカートの裾を揺らし、彼の濃紺の袖をひらりとはためかせる。
首筋をくすぐる結い上げた髪の後れ毛を指で直せば、行きますよとわたしから離れてルイが囁いた。
*****
「あくまで仮説ではあるのですが……」
戻った馬車が滑るように走り出してから、ルイは彼の斜向かいに座るわたしにそう前置きして口元に指を当てて、少し考えるそぶりを見せてから次に続く言葉を口にした。
「似ているのです」
似ているってなにが、と思ったわたしが疑問を口にする前に、魔術や魔力操作の概念といいますか、理解の核となる部分に通じるものがあるとルイは言葉を選びながらといった様子で説明を続けた。
「理解の核?」
「ええ。どのように腑に落ちるかは人それぞれの思考によりますので、明確に言語化することは難しいのですが」
「はあ」
「もちろん理論や知識として言葉で説明すれば、貴女から聞いた話とはまるで異なるものです」
窓の外から、
明るく
「なんです?」
「いえ、そんな難しい顔しなくてもと」
「こうとはっきりした言葉で説明できないのが、もどかしく気持ち悪いのですよ」
「ですか」
魔術師にとって、言葉はあらゆるものを規定するものと言うだけはあって、本当にもどかしそうに見える。
「魔術というのは……この世の、森羅万象の
「はい」
「まったく別物、別方向からではあるものの、到達点としているところは非常に近しいものであっても不思議ではない」
そう言って、ルイは口元にあてていた指を動かし、自らの唇から顎先を掴むようにして少しの間黙ってから、まったくの偶然としたものか迷うところですがと言って再び口を開く。
「貴女は、魔術適性はなく魔術の知識もほとんどない」
「ええ」
「しかし、魔術師が苦労して掴む部分を魔術とは関係なく掴んでいるのです。これは感覚や個人の体感的なもので説明しづらいのですが……そうですねえ、たとえるなら楽器の弦を美しく鳴らせるかどうかみたいなものでしょうか?」
一度掴めばなんなく出来るようになりますが、それを掴むまでは苦労するような……。
たしかに、ルイにしては歯切れの悪い説明ではあった。
それも彼自身疑問を含むような物言いなのも珍しい。
けれど言わんとするところは、なんとなく伝わる。
果たしてそれが、ルイが考えているようなものかどうか……わたしはもっと説明できないから確かめようがないけれど。
「私としては非常に興味深く、珍しい事例です」
「あの、その要検証対象みたいな目で人を見るのやめてもらえませんか」
「そうは言っても、魔術のあり方だけを本人も無意識に掴んで受け入れられるなど、過去の記録においても類がない」
魔術馬鹿……いや、魔術研究馬鹿だ。
わたしを見る細めた眼差しが、妻や女性や知人を見るそれではない。
魔術研究の材料としてあらゆる面から実験検証してみたいといった、それはそれで向けられるのは厄介な欲望が見える。
「農夫というものは、皆そのようなことを?」
「どうでしょう? 経験則はあると思いますけど、自分が育る作物に関する知識が基本ではないかしら? ジャンお爺さんはそういった意味ではちょっと変わっているかも」
「ふむ」
「それに、そういった勘所みたいなものはどんな仕事でもあるものでは?」
「たしかにそうかもしれません。その言葉は非常に示唆に富みますね、マリーベル」
「なにが?」
「魔力操作の資質は個人差が大きい。引き出せる魔力や効率の良し悪しは個体差と考えられていますが、経験則や概念との関わりが深いのなら……これまで資質が弱いと判断してきたその基準自体を疑問視するものとなる。突き詰めれば資質を引き上げる方法、新たな人材発掘にも……」
わたしに向けての言葉はほんのはじめだけで、たぶん言葉の大部分は彼の独り言のようなものだろう。
よくわからないけれど、楽しそうでなにより。
どう反応していいのやら、反応など不要かもしれないルイへの困惑で引きつってしまった笑みを向けて、彼とは反対の窓の外へと首を回す。
「わたしに色々魔術を施して試してみようみたいなことは、やめてくださいね」
「――ええ、勿論」
なんですか。
その、一瞬だけ考えるように置いた間は。
嘘は吐かないはずだから……考えただけで、実行はしないだろうけど。
窓の枠に身を乗り出し、組んだ腕を引っ掛けたそこに顎を乗せるように顔を埋め、頬をわずかに膨らませる。
「既に加護の術を施している貴女にしませんよ」
「当たり前です」
「それに、施した魔術が妙に安定するのはそのためだけとは言えませんしね」
「ん?」
「貴女は冬生まれで、加護の術は冬の女神を使ったもの。術者の私も冬生まれ。そういった親和性は多少あると考えられます。特に修復したのは初夜で私と情交を結んだ後ですしね」
「じょ……っ、そ、そんなこと影響するの?」
「多少は、特に貴女は術者である私以外を受け入れた経験もないようですし」
思わずルイに向き直ったわたしに、彼は腕組して頷いた。
魔力はその人の生命力のようなもの、だから新鮮な体液などにも多少は含まれる。
交わるような濃い接触をすれば、しばらくはごく僅かながらもその影響がないでもない。
彼自身、自分の魔力と盟約の影響を帯びた魔力を切り分けることはできないらしいけれど、自分の体液は流石に自分のものでしかないでしょうからと――。
「こういっては失礼ですが、貴女に注いだことがあるのは子を成すような力は失うよう、自分に還元させたあとの残り滓のようなもので、他諸々同様大したものではないと思いますけれど……」
「も、もういいですっ、その話はっ」
「相変わらず、未成年のお嬢さんのようで」
「つ、慎みとっ言ってくださいっ!」
「たまたま読んだ異国の医術を参考にしたものですが……あれはなかなか忍耐を強いられます。ええ本当に……」
明け透けなルイの言葉に、顔を
「だからもう……その話はいいんですってば……っ!!」
「真っ赤になってむきになるのは大変かわいらしいものの、拳で人に殴りかかるのは勘弁してほしいですね、マリーベル」
「ぜ、全然効いてもいないくせに……っ」
振り上げた拳は、ルイの胸をかすめて組んだ腕に当たったけれど、どちらも固く締まっていてたぶんこちらの手のがぶつかった衝撃を受けている。
両手をさすりながら、ルイを睨めば涼しい顔で肩をすくめる。
不意に、がたがたんと馬車が大きく音を立てた。
揺れはほとんどない、ルイが馬車の部品に施した魔術が効いている。
居た堪れない気分でいるわたしと澄ました顔の彼を乗せ、柔らかな草の上を馬車は行く。
わたしの故郷、ユニ領へ――。
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