挿話 花嫁の父・前編
出会った時、彼女はまだ十三歳の少女だった。
栗色の髪と、まるで磨いた
――きゃっ。
――……ん。
――ああよかった、目を覚ました。
初夏、大樹の影で開いた本を胸に居眠りしていた私の前に、彼女は突然現れた。
強い日差しにのぼせて倒れているのじゃないかと心配したそうで、木漏れ日の中で腰を折り曲げて真上から私を見下ろしていた。
目を覚ました私に驚いて大きく見開いた目と、にっこり微笑んだその可憐さに十五を迎えて成人したばかりの私は一瞬で恋に落ちた。
少女の名は、マリアンヌ・ドルー。
西部大領地を治めるモンフォール家の遠戚にあたる、ドルー家の娘。
六年後に、私、ジュリアン・ユニと結婚し、その結婚生活はたったの七年。
娘のマリーベルを遺し、病のために天上の階段を北へ上ってしまった、最愛の妻となる少女だった。
彼女の天上の紡ぎ糸のなんと短かったことか……。
もっと共にいたかった。
私が贈った布で仕立てた婚礼衣装ではにかんだ彼女も。
生まれたばかりのマリーベルを抱いて慈しみに満ちた微笑みを浮かべた彼女も。
笑ったり怒ったり悲しんだり喜んだりするその表情や、夫の私にしか見せない艶めかしい姿。
死の間際まで娘の行末を心配しわたしに後を託した、いまにも消えてしまいそうな儚い彼女も、すべて――。
私は、昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。
――お願い、ジュリアン。
耳に残る彼女の言葉を思い出す。
――この子は私と同じ、“緑の指”を持っているから……。
「マリアンヌ……」
――どうかマリーベルを守って、私を守ってくれたように。
彼女を手に入れるためなら、王立法科院の厳しい学問も競争もなんということもなかった。
最短六年の修業年数で王都から舞い戻り、学友の手も借りて大領地の当主を相手に駆け引きし、手に入れた妻。
「“貴き血”などといった迷信のために……どうかしている」
古い時代から続く大貴族の多い、西部貴族特有の信仰のようなものだった。
領地に利をもたらす、抜きんでた才能を持って生まれた一族の者をことさら神聖視してその血は引き継がれるとする。
表向きは迷信と苦笑しながら、彼等の“貴き血”へ憧憬と執着は根深い
“緑の指”、植物を育てる才能のことをそう称する。
王国の食糧庫と呼ばれる農耕地が広がる西部において、それはもてはやされる才能ではあるだろう。
マリアンヌはたしかに植物の世話に長けていた。
彼女が世話した植物は花でも木でも作物でも、明らかに他の者が世話するのとは違ったように育つ。病虫害にあった植物も彼女が手当てすればその緑の勢いを取り戻した。
まるで“生と死”や“豊穣”を司る、地の精霊に愛されてでもいるようだった。
だからなのか、茎が折れて萎れた切り花が蘇った、彼女が心配した場所の作物だけが暴風雨の害を受けずにすんだなどいった噂話が度々まことしやかにささやかれた。
しかし、それが事実であったとしてもすべて説明しようと思えば説明のつけられる現象であったし、単なる偶然で片付けられる。
そんなことで、“貴き血”の持ち主として親族間の結婚を強要されたり、その子に“貴き血”が引き継がれるかもしれぬとして、“貴き血”を入れたい他領の領主や貴族の子を生むためだけの存在として、政略道具や取引の捧げ物にされるなど、狂っているとしか思えない。
私からすれば馬鹿馬鹿しくも堪え難いことだった。
ましてや、少々植物を育てるのがうまいといった程度でしかない我が娘までもが、“貴き血”を引き継ぐと目を付けられるなど冗談ではなかった。
“貴き血”は引き継がれるものとして、娘に母親ほどのものはなくても、その子や孫はわからないなどとおぞましいにも程がある――。
当主の父親と折り合いの悪い、手のつけられない息子として有名だったモンフォールの三男が、娘を幼い頃から気に入って子供の頃から外聞もなにも気にせず求婚し続けてくれているのは、いい防波堤だった。
あの三男には、当主の父親のような表裏はない。
よく言えば素直で直情的、悪く言えばいつまでも悪戯好きな小僧の延長だった。
娘も取り合っていなかったし、仮にも当主の息子が言っているため、当主の側もそれで一族に加わるならといった計算が働き、他の相手を画策することもなかったようである。
その抑えが効いているうちに娘を西部から逃したかった。
他意はなく母親を早くに亡くした娘を心配する姿勢は崩さずに、王宮の行儀見習いとすれば箔付けにもなり、自分にはその伝手もあることを当主に吹き込んで、紹介状を書かせるよう仕向けた。
王宮勤めの間、当主の勝手で帰還させられるようなことがあってはならない。
王宮に紹介したのが当主自身であれば、引き戻すことが体面上しにくくなる。
「まさか、こんなことになると想像もしていなかったが」
やれやれと、首を振って届いたばかりの文書の封を机の上で切る。
軍部が使う急ぎの便で届いた文書だった。
東部騎士団支部の刻印とムルト・モゼールなる人物の名が記されている。
知らぬ名だが、心当たりはあった。
文書を開いて、その心当たりは確信に変わる。
法務大臣である伯爵、グレゴリー・ド・サンシモンの推薦による押収品メダル解読要請。
契約魔術自体は文書で行い、その文書を残すこともあるが秘匿のためにその内容を印章やメダルなどに焼き付けることはよくある。
解読するためには条文再生のために少なくとも宮廷魔術師程度の力量を持つ魔術師と、その読み解きには法務に通じた専門家が必要になる。
押収品と魔術師を向かわせる旨が書いてあった――。
「ファビアン」
文書を私の部屋まで持ってきた老執事を呼んで、
背の曲がった老いた執事は、目をしょぼしょぼさせて髪と同じ白い顎髭を摘んだ。
「剃刀?」
「二枚の種類の異なる紙が貼り合わせてある」
「ははあ、軍部に届けさせた上に用心深いものですな」
「そういった方だ。公爵様は」
持ってこさせた剃刀で慎重に文書の紙を
羊皮紙には、王宮に飾られている彫像の如く整ったあの美貌を思わせる流麗な筆跡で、長年の心配事は早晩片付くであろう旨が記され、また例の金貨五千枚といった信じられない額を前払で受け取った簡易契約に関し、正式な条件の打診と説明が書かれていた。
用心深くもなるはずだ。
あの老いたモンフォール家の当主に、この内容が知られれば憤怒しなにを仕掛けてくるかわからない。
「ファビアン、この部屋を出た廊下の突き当たりの壁は多少崩れて大丈夫か?」
「はて、旦那様。大丈夫とは?」
「屋敷全体に影響はしないかといった意味だ」
「大丈夫でございましょう。支えとなる柱がそこに通っているわけでもなし」
「ならそこにしよう。あと数日内に公爵様とマリーベルが来る。その際、公爵家の者が“”扉”を運んでくるはずだ。寸法を写して渡すから埋め込んでよい範囲に印をつけておいてくれ」
「はあ……扉、ですか」
「魔術で東部の公爵家と繋いでくださるらしい」
「ではいつでもお嬢様とお会いできるというわけですか。便利ですなあ魔術というものは」
「そのような魔術、王国広しといえど公爵様くらいしか使えまい」
ロタール公および防衛地区バラン辺境伯にして古七小国王族末裔である。
王族の次に尊重される大貴族ルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォート。
この王国で知らぬ者はおそらくいないだろう、“竜を従える最強の魔術師”。
そのような大それた相手が娘婿であるとは、いまもってなにかの悪い冗談ではないかと思う。
もっとも、娘のマリーベルは公爵様との身分差解消のため、王妃のご一族である南部大領地を治めるトゥール家当主の弟君夫妻と養子縁組を行ったので、現時点で公にマリーベルはこのユニ家の娘ではなくなっているのだが。
それはそれで、まやかしでも見せられているような気分になる。
*****
――六年後、求婚したら君は頷いてくれるか?
――ジュリアン様?
――君は若すぎて、そして私は結婚相手としてあまりに君を待たせる。
王都の法科院の最低修業年数は六年。
マリアンヌとモンフォール家の屋敷の庭で出会った、その年の秋、私は王都へ出た。
私はモンフォール家の食客だった。
当主の事務仕事を申し訳程度に手伝う他は、貴族の子弟なら十三歳までに叩き込まれる教養知識を学び、それに加えて高等算術と法律法務を勉強して王立法科院の試験に備える二年間。
農夫の
命運の女神が、人の寿命や人生を決める“天上の紡ぎ糸”を取り違えたとしか思えないと、父がまだ十に満たない私について農夫には向かないことを嘆き、先代のモンフォール当主に零している場に、近く家督を継ぐ予定であった現在のモンフォール当主であるアルテュールがいた。
私はこの十以上年上の次期当主の青年が苦手であった。
表面大貴族の嫡男らしく父にも私にも礼儀正しく振る舞うが、計算高く執拗な蛇のような目をした男だと思っていた。
彼が当主となればこれまでのユニ家とモンフォール家の関係、いや、ユニ領ではいられなくなるだろうと私は幼いながらに予期していた。
ユニ領を守るには、大領地に対抗できる力となにか切り札になるものを手に入れなければならないと考えていた。
ユニ領は元々モンフォール領であった。
何代か前の、研究家気質の若きモンフォール家当主が、たまたま自領の北側で耐寒性の強い作物の改良に並ならぬ情熱を傾ける、私の曽祖父である農夫に興味を抱いた。
若きモンフォール家当主は父親のように曽祖父を慕い、二人は身分を超えた友情を交わしていたのだと伝え聞いている。
共同研究に取り組んで得た成果を友の力あってこそと、土地を与えて独立を許したことがユニ家の始まりだ。賜った北部寄りの地がユニと呼ばれていた地で、それがそのまま家名となった。
土地を賜った時に曽祖父はもう老いていて、作物だけでなく、モンフォール領の農地改良にも尽力していたため慰労の意味もあったのだろう。
独立させたところで、さしてモンフォール領に支障はない程度の小さな領地。
のんびりと自由に好きに作物の改良ができる庭を与えた、それくらいのつもりであったに違いない。
その通りに、曽祖父は次々と冷害に強い豆や根菜、独特の風味を持つ葉野菜を生み出した。
いくつかはモンフォオール領から西部へと広がり、いくつかが他の地域より寒暖差が大きく、冷たい霧がたびたび発生するユニ領でないと上手く育たず広がらないものであった。
その広がらない作物が美食を尊ぶ西部において、やがてユニ領に思いがけない価値と富をもたらすことになる。
アルテュールは、ユニ領を再びモンフォールの手中におさめたいと考えているに違いなかった。
だから私が成人するまで様子を見て、それほど学問に秀でているのなら、いっそ王都へ出してみてはどうかと彼は提案した。
西部のような地方は高等教育を受けた専門家は少なく、ユニ家やモンフォール家のみならず西部全体にも良い影響を与えるのではと話す彼の思惑に私はあえて乗ることにしたのである。
王都で、西部では得られない知識と技能と資格を得ることは、利用されることにもつながる一方、身を守る力にもきっとなる。
だが――マリアンヌをモンフォール家に残して王都へ行くことが不安であった。
――辞めてしまおうか学問なんて。
――そんなことなさったら、嫌いになりますからっ!
マリアンヌとは出会ったばかりで、彼女の休憩時間に庭で語らうくらいの間柄。親しみは持ってもらえているだろうが恋仲ではなく、しかもまだ十三歳の未成年。
そのような対象として自分が含まれているかもわからない。
そんなマリアンヌに六年後の求婚を突然問いかけた私は、ひどく無茶を言う男であったと思うし、彼女もさぞ驚いただろう。
――マリアンヌ?
――ご領地のために、それは勉強してきたのでしょう?
してきた。
だが、勉強が得意といっても、二年のほとんどの時間を費やすほど好きなものでもなかった。
モンフォール家の当主はアルテュールに代わって数年が経っていた。
私が予期した通りに、ユニ家とモンフォール家の間に徐々に冷たい風が入り始めていた。
ユニ家は独立してもモンフォール家を敬い、モンフォール家もかつての自領であったユニ領を庇護していた。
曽祖父に土地を与えたモンフォール家の当主は、モンフォール家とユニ家の間で未来永劫ユニ家の土地とし庇護する約束を契約魔術で保証までつけた。
ユニ家とモンフォール家の友好関係は、私の祖父と土地を与えた当主のその子供の代まで保たれていたが、父の代にはすでに表面的なものになりつつあった。
ユニ領は小領地として成功しすぎていた。
当初、老いた農夫一家が悠々自適に余生を送れる程度の考えで与えられたはずの土地は、その独自の作物で富を生み出す地となり、いまや大領地が無視できない価値を持つ地となっていた。
与えた土地を取り上げることは契約魔術があるから出来ない。
解除するには莫大な依頼料がかかる。
それにユニ家を退けた後、それまでと同様の利益が得られるかが怪しかった。
山の麓で昼夜の気温差が大きく、日照時間に限りがあり、モンフォール領の大部分を占める平野部と異なる気候と地形と曽祖父の代に開墾もされた土壌。
ユニ領の民は領主であるユニ家と大家族のように結びついているし、彼等を従え、他の地域にはない特徴を持つ地を上手く扱う術をいまのモンフォール家は持っていない。
独立してもユニ家はモンフォール家を尊重し、優先的な作物の取引と利益の一部を寄進している。下手に手が出せないなら現状維持を続け、その関係性の上下を徐々に強めていくのがおそらくはモンフォール家、いやアルテュールが出した最適解であった。
私は王都の法科院へ行くことを選んだ。
アルテュールにとって、それが最も利になると判断するに違いないと思ったからだ。彼はきっと、徐々にモンフォール家の干渉を強めた果てに、ユニ家自ら契約魔術の解除をさせることを考える。
単純な約束事ではない取り決めを魔術で保証する高度契約魔術の解除には、宮廷魔術師程度の力量を持つ魔術師と法務に通じた専門家を必要とする。
私が一方を担える者になることは、両家の心理的な緩衝材の一つにもなる。
だが、そのためには最低でも六年の時間がかかる。
――戻ってきた時に君はきっといなくなっている。
――ジュリアン様は……わたしと結婚したい……?
――したくなければ、こんなことは言い出さない。
――でも当主様が……お相手を見つけてくださるって。
マリアンヌはモンフォール家の行儀見習いだ。
だがそれは表向きの話であることまでは私も掴んでいた。
彼女の実家のドルー家は、モンフォール家に経済的に困窮するよう仕向けられており、彼女は家を立て直せる相手との縁談を世話すると当主から持ちかけられていた。
私と彼女が、真実を知るのは二年後。
マリアンヌが十五を迎え、四十以上も歳上の当主の大叔父との縁談を進められてはじめてアルテュールの正気とは思えない思惑を知った。
それでも薄々なにか感じるものが、当時の彼女にあったのかもしれない。
目を伏せて俯いたマリアンヌの横顔はあまりに心細げで、それでいて必死で自分を保とうとしているように私には見えた。
十三の少女にしてはあまりに大人びた横顔で、気がつけばその頬に手の甲を押し当てていた。
――困らせるつもりじゃなかった。
――はい……。
柔らかくほんのりと温かみのある頬だった。
どこへもやれないと思った、こんな顔をするのなら。
――あの、ジュリアン様……っ。
――マリアンヌ、唇を。
――ジュリアン様……?
――唇を……。
ざわりっと強く吹いた風に周囲の木々の枝葉が音を立てて揺れ、木漏れ日の光が円舞のように唇を重ねた私たちの周りで踊る。
私は必死だった、マリアンヌに自分を意識させ忘れないようにと。
柔らかくほんのりと温かみのある頬は、私が手を離せばわずかに赤みが増していた。
――マリアンヌ。
――ジュリアン様は、わたしと結婚したい?
――したくなければこんなことはしない。私の、マリアンヌ。
――ジュリアン様はわたしがどこでどうなっても、ずっと好きでいられる?
――どこでどうしていても、必ず。何度でも君の糸を捕まえるし、迎えにいく。
――約束できる?
――約束する。
あの時、私の人生は決まった。
本当に心底からうれしそうに微笑んだマリアンヌが続くために、私になにが出来るだろうか。それだけを積み重ね、私の人生はいまも続いている。
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