第8話 魔術師の従者
悪徳……もとい最強の魔術師こと大貴族ルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォートの邸宅に父と共に招かれたけれど。
王国東部に広大な領地を持つ公爵家であるフォート家の、非常識なまでの資産の力を目の当たりにし、貴族ですらない田舎領主であるわたしたち親子はただただ呆然とするばかり――では、あったけれど。
長く放置し中は荒れ放題といった魔術師の言葉は本当のようで、使っている部屋として説明されたのは、最初に通された応接間と夕食を取った居間、父様とわたしに用意されていた客間、彼の部屋と使用人の部屋だけらしく、立派な建物全体から見ればごく一部だけだった。
「とりあえず、夕食が普通でよかったわ」
あまりに豪奢な邸宅に招かれ、食卓の席に着く人が三人しかいないのに飾り立てられた獣の丸焼きなどがつぎつぎ運ばれてくるような。
一体なにを考えているの?! と叫びたくなる貴族特有の歓待の宴のようなものではなく。
贅沢ではあるけれどごく普通の晩餐の席だったため、父様とわたしはほっと胸を撫で下し、さすがは公爵家な美味を堪能した。
「それにしても……」
この邸宅はなんだか変だ。
魔術師の従者であるオドレイさん以外に、他の使用人の姿を見かけない。
夕食時の給仕も彼女一人だった。
わたしはお給仕される側に慣れていない。
給仕がオドレイさん一人でもあって、昼食よりももっと落ち着かない気分で、ああそんなことはわたしがやりますと何度か声に出しそうになっては、お食事と一緒に飲み込んだ。
仕えている主人の客人であるわたしにそんなことを言い出されても、オドレイさんが困るだけだもの。
作り立てのお料理が運ばれて出てくるということは、当然、台所には料理人他のそれを手伝う人達がいるはずだけど……何故か料理人どころか、厨房がどこかにあるといった気配までも、まったく感じられない。
どこからかいい匂いが流れてきたり、食事の用意をする音が微かに聞こえてもおかしくないのに。
「広いお屋敷だから?」
食事を終えたいまは、オドレイさんの案内を受けて客間に落ち着いて……いるはずだったのだけど。
廊下を歩くオドレイさんの後を、彼女に悟られないよう気をつけながらわたしは追っている。
それというのも、客間の説明を終えて部屋を去ろうとしたオドレイさんの横顔が、なんだかとても苦しそうに見えたのが引っかかったからだ。
オドレイさん以外の人の姿は見えないし、そんなこと普通は有り得ないけれど台所以外を担う使用人が本当に彼女一人であれば、長く放置されていたこの邸宅を彼女が一人で整えた事になる。
ごく一部をひとまず使えるようにしただけとあっても、とても女性一人で短期間で出来る仕事じゃない。
いくら元傭兵で力も体力も並の男性以上といっても、そんな奴隷のような働かせ方はない。
もしかして酷使されて、身体を壊しているのでは!?
「あの魔術師……表向きは人当たりの良い顔をして、実は屋敷の主人としてはかなり暴君なんじゃ」
もしそうなら、絶対許せない!
彼女だって生活がかかっている。
尋ねてそう簡単に本当のことを教えてくれないかもしれないけれど確認してみなければと、オドレイさんを驚かさないようにそっと後をつけて彼女の様子を伺っているのだった。
やはり、明らかに体の調子が悪そうな様子で廊下を歩いている。
途中にがくりと膝を崩して、驚いたわたしは彼女に駆け寄ろうとしたけれど、彼女はすぐ近くの部屋の扉に縋り付くようにして立ち上がり、その部屋の中へと姿を消してしまった。
その部屋は、あろうことか客間を案内する途中でオドレイさんが魔術師の部屋だとわたしに説明した部屋で。
どういうこと、と首を傾げたその時、どさりっと人が床に倒れるような音が聞こえた。
わたしは慌てて魔術師の部屋の扉の前へと近づく。
薄暗い廊下の床に、細い光が漏れている。
きっとオドレイさんが扉をきちんと閉められなかったんだわと、細く開いている扉の隙間へとそっと顔を寄せた。
部屋の中から、なにか緊迫した気配の話声がぼそぼそと、かすかな物音と共に聞こえてくる。
扉の隙間から覗く狭い視界に、夥しい数の書物を収めた書棚と本や紙を積んだ小さなテーブルセットが見えた。
オドレイさんは部屋の奥にいるらしく、姿は見えない。
もう少し奥まで見えないかしら……と、隙間から覗き込む角度を変えようとしたその時。
しっとりと低い魔術師の声が、わたしの耳を打った。
「目を閉じなさい、オドレイ」
「アァッ……っ……旦那様……ッ」
えっと……。
なんでしょうか。
この見ても聞いてもいけないような、ただならぬ雰囲気に満ちたこれは。
しかし、見えてしまったし聞こえてしまった。
覗き込む角度を変えた目に飛び込んできたのは、魔術師に背後から抱え込まれ、苦し気な表情で彼に背を委ねて立っているオドレイさんの姿。
おまけに魔術師は、その形のよい左手で後ろから抱え込んだ彼女の顔を目隠しするように覆い、右手で彼女の尖った顎先を掴んで背後にいる自分を仰ぐように彼女の顔を上向かせ、実に冷ややかな眼差しで彼女を見ている。
「主人の言い付けを守らないからこうなる」
「ぅ……アッ、ぁ……ハァ……だ、旦……あぁ、ッ」
女性としては低く掠れた、けれどもぞくりするような艶めかしい苦悶の声を漏らして。
オドレイさんが喘ぐように息と黒髪を乱して、魔術師から逃れようと身を捩る姿はどう見ても――頬が一気に熱を帯びて、頭に血が上る。
な、なっ……なんっ、なんなのっこれはっ!?
なにが……なにがっ……!
「なにが邪なものはないなのっ、この悪徳大貴族っ!!」
ダンッ――と、なるべく荒々しい音を立てて魔術師の部屋に踏み込めば、おやと実に暢気な声を発して彼は首を傾げるようにわたしを見た。
なんて堂々と、恥知らずにもほどがある!
「真っ赤な顔してどうしました?」
「なっ!? どうしましたじゃないでしょうっ……て」
「ん? 貴女がそんな血相変えて私の部屋にいっらっしゃるなど、ただならぬ事と思いますが。申し訳ありませんがこちらもこの通り取り込み中です。少々お待ちいただけると……いまの彼女を離す訳にはいかないもので」
「えっと……」
うぅっと奥歯を噛み締めるように苦悶しているオドレイさんを、抱きかかえているというよりは押さえ込んでいるように見える魔術師が、申し訳なさそうに顔を
オドレイさんはわたしが彼の部屋に押し入ったこともわかっていなさそうな様子だった。
そんな彼女の耳元に魔術師はその麗しい顔を近づけ、低くなにか囁き始める。
その言葉はよく聞き取れないけれど、どうやら普段話す言葉とは異なる言語のようで、わたしの頬がそれまでとは別の理由で段々熱くなっていく。
これはもしかしなくても、思い切りわたしの勘違い……。
「――、おっと」
魔術師がなにか囁くのを終えて顔を上げた途端、力尽きたように前に崩れたオドレイさんの腹部を彼は腕で支え、彼女の体がぐったりと折りたたまれる。
「あの、大丈夫……?」
そろりとテーブルセットの側を通り抜けてわたしが二人に近づけば、うっと呻いてオドレイさんが身を起こす。
「……申し訳……ございません……旦那さ……、ッ!」
「えっ……!?」
魔術師に謝罪する言葉の途中でようやくわたしに気が付き、はっと目を見開いたオドレイさんの顔を見てわたしも息を飲む。
目が……瞳が赤い。
正確には、黒い瞳の中に赤く十字を描く光が宿って赤く染まっている。
なに、これ。
「竜の虹彩です」
「竜の……こうさい?」
魔術師の言葉を繰り返しながら、わたしは思わず胸元に引き寄せた両手を握りこんでいた。
彼女が燃えるように強い感情を込めて、赤い光が走る目でわたしを睨みつけたから。
「しばらく休んで、動けるようになったら君の部屋に戻りなさい」
彼女の眼差しをわたしから引き剥がし、魔術師は彼女の体を自分の腕に寄りかからせてその肩を支え、書棚と書棚の間、窓の下に造り付けられている
彼は目線でわたしに部屋の扉へと促すと、窓辺から移動してわたしの前に斜めに背を向けて立った。
「少し、外で――」
「でも、彼女」
「大丈夫です」
処置は済みました。
有無を言わさない口調にオドレイさんから魔術師へと視線を移し、促す彼に従って、わたしは部屋を出た。
出る間際にちらりと背後を振り返れば、窓辺の
彼女、もしかして。
そうだとしたら、初対面でわたしを射抜くように見たのも頷ける。
「なにをお考えかなんとなく想像はつきますが、ひとまず私の説明を聞いてからにしてください」
「説明?」
「本当は……もう少し貴女を追い詰めてから話すつもりでいましたが、見られてしまっては仕方がありません」
ちょっと待って。
いま、追い詰めてからと仰いましたよね。
つまりは追い詰めることを考えていたわけですよね。
「その、まったく信用ならない要警戒人物みたいな目で人を見るのは止めてもらえませんか?」
「ご自分の事、よくわかっていらっしゃるようで」
廊下を歩きながら、にっこりと皮肉の笑みを魔術師に向ける。
もう夜だ。
こんな二人して外へ出ようとしているところ、父様に見られたらどんな誤解をされるかわからない。
「まあ、嫌いじゃないですけどね。貴女のそういったちょっと意地の悪いところ、面白いですから」
「面白い……?」
彼の言葉にわたしが顔を
「貴女、少しは男性心理というものを学ぶのがよろしいですよ。無意識でやっているのなら少々心配です」
「は? なに?」
「わからなければ、そのうち教えて差し上げます」
碌なことではなさそうなのでいりませんとお断りすれば、それは貴女次第ですと意味深長に言われた。
なんなの、一体と胸の内でぼやいていたら、すっと頬に冷たく湿った夜の空気が触れる。
今夜は月が明るいと、細い刃が光るような銀色に冴えた月を見上げて魔術師が呟くのが聞こえた。
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