第48話 小広場の諍い
マルグリットとわたしに名乗った女性は、わたしの側で心細気に両手を握り合わせているマルテを見下ろし、ふふっとさもおかしそうに笑い声を立てる。
四角く開いた盛り上がった胸元に、レースを被せた山吹色に赤を配したドレス。肘にかぶるくらいの袖から長手袋の腕を覗かせている。
赤茶けた髪を結い上げたなんだか険のある様子も不快に思えるけれど……。
わたしはマルグリットの後ろにいる、こちらを見ているトマという名らしい彼女の夫を見る。
深緑色をした毛織物の上着に飾り襟を着けた男性は、幅広の体躯はがっちりしていて、屈強でどことなく横暴な気配がある。
愛想笑いのような笑みを浮かべているけれどその目は冷たく執拗な感じを受ける。まるで商品を値踏みするような、じっと舐めるような目線に生理的な嫌悪を覚えた。
マルグリットが蛇なら、この夫だという人は
この人達、身なりはいいけど話し方や人に対する目線や雰囲気といった中身がまるでそぐわない。
宿を営んでいると言ってたけれど、怯えるマルテやシモンの反応から見てもとてもまともな商売人とは思えない。
――その子は、南門に近い場所にいた孤児ですよ。
――それは哀れな子で私共は彼女を引き取る話をしていたというのに、それなのに突然黙っていなくなったんです……。
マルグリットが得意気な調子で話すのを、ただ黙ってわたしは聞き流していた。貴族の奥様として認識されているのなら、こちらからわざわざ名乗る必要もなければ、詳しく話して聞かせるような必要もない。
それに、シモンは彼等を知っているようだけど、まだ彼等はシモンに気がついていないようだった。
九歳から十四歳に成長した少女はまだ面影が見出しやすいかもしれないけれど、十二歳の子供から十七歳の大人に成長した男の子は体格からしてまるで異なるし、顔つきや声だって変わる。
加えて貧民街の浮浪児から、いまは身嗜みや立居振る舞いを教え込まれた公爵家の従僕だ。黙って大人しく側に従者として控えているなら、ちょっと見ではそうとわからないはず。
「老婆心からの差し出口ですけれど、貴族の奥様なら、お雇いになられる人は慎重に選ばれるのがよろしいかと思いますわ」
「きちんとした方からのご紹介をいただいて側に置いている者です、お気遣いは無用です」
「あら、マルテ。どういった手を使ったのかしらないけれど随分上手くやったのねえ」
「上手く?」
「ええ、奥様」
「たとえどのような場所にいても、こうしてわたくしと縁づいているのは本人の努力と幸運あってのものでしょう。これ以上、妙ない言いがかりをつけるようなら許しませんよ」
逃さないとねっとりと手足に絡みつくような調子のマルグリットの声音と、笑みながら睨み付けるような眼差し。
いつ力づくでわたし達に向かってくるかもわからない彼女の夫に、正直胃が締め付けられるような気がしながら、なるべく平然とした態度を保つよう自分に言い聞かせる。
わたしが努めて冷静に対応しているのが面白くなかったのか、マルグリットがふんっと鼻を鳴らした。
「お若いのに随分と寛大で気丈な奥様ですこと。ですが、その娘は奥様のような方が庇い立てするような娘ではありませんわ」
「どういうこと」
「ここら一帯で人のお金を掠め取って荒稼ぎしていたスリの一味ですよ。ええ、もちろん親のない子ですもの、生きるために仕方なくだったのでしょう哀れな娘です。でも、契約破りはないですわ」
「契約破り?」
「見るに見かねましてね。私共が引き取って面倒をみると、彼女の養父に話をつけてお金も払ったというのにいなくなったのですから」
「お前らっ……っ!!」
「止めなさい」
憤って一歩踏み込んだシモンをわたしは慌てて止める。少なくともこちらから手を出してしまったら、謝って済む相手じゃない。
この二人はマルテを欲しがっている。
奥様……私……と、マルテが涙声で呟きながら首を横に振るのに大丈夫と細い肩を撫でながら、困惑した表情を浮かべてマルグリットを見た。
「なんだか……まるで人買いみたい」
「人聞きの悪いことは仰らないでくださいな。宿も人手不足でしたから引き取って向こう三年のお金を支度金代わりにお支払いしただけです」
それなのに行方をくらまして……おまけに契約を結んだ養父の男はなにかの悪さで捕まって牢屋でこちらは大弱り。契約不履行の違約金も取れないままずっと探していたんですと、マルグリットは切々とわたしに訴え続ける。
「この子の養父が交わしたこの子の契約ですよ。この子がきちんとするのは当然でしょう? ねえ、マルテ?」
「そんな……私、知りませんっ……」
「あら、奥様を困らせるようなことになっていいの?」
とんでもない言いがかりにも等しい話だ。
マルテの養父って……シモンや彼女他、孤児たちを暴力で縛って悪事をさせていた悪い大人のことでしょう。そんな人と交わした契約なんてまともなものであるはずがない。
第一、マルテ本人は知らない様子だ。
「いい加減になさい! 人にぶつかって、こんな公の場でそのようなお話をされても信用できません」
「信用なさるもなさらないも、実際、払うものは払っているんです」
「それは一体いつの話です。あなたは先ほど数年前にこの子がいなくなったと仰ったけれど、それならこの子はまだ十歳に満たないはずですよ」
わたしが反論したことが想定外だったのか、二人の表情がわずかに引きつるように歪んだ。
王国は十二歳まで就業禁止だ。
七歳の受洗式を終えた後、たとえば職人になるような子なら将来お世話になる工房や親方が引き取り、家の手伝いと見なして衣食住の面倒を見るかわり仕事の手伝いや雑用をさせることはあるけれど、マルグリットははっきり言った。
向こう三年のお金と奉公を示す言葉を。
「え、ええ……ですから十二歳までは面倒を見て、その後の三年は働いてもらう話で」
「どのようなものだとしても、この子は正式な手続きを得てわたくしのところにおります。あなた方に手出しはできないわ」
「……そうですか」
ちょっと強引かなとは思ったけれど、貴族にそうでない者がそう簡単には異議は唱えられない。
帰りましょうと、背を向けようしたわたしにもうこれ以上は聞きたくない声がでしたらと呼びかける。
「奥様が補償をしてくださいな」
はっ!?
思わずそう声に出かかったのをかろうじて飲み込む。
「先にマルテと契約したのはこちらです。ご存知ではなかったとはいえ割り込んだのですから」
「――奥様」
こいつらにまともな話なんて通用しません。
オレがなんとかしますからこいつと宿まで逃げてください、と。
声を潜めてシモンが後ろから囁いたのに、わたしは小さく首を横に振る。
たまたますれ違ったところを掴まえて、わたしを貴族だと認識しているのにこうも食い下がり意味不明な要求を突きつけてくるのだ。
逃げてもこの先マルテがこの街にいる限り、安心して暮らせない。
それに……わたしは周囲をさっと見回す。
まさかこんなところで、王宮で養われた注意力がいかされるなんて……。
好奇心でちらちらとこちらを見て通り過ぎる人たちとは別に、さっきからこちらの成り行きを遠巻きに眺める目つきの悪い下男風の男性が三、四人いらっしゃる。
「丸わかりな分、王宮よりはましと思うべきかしら……」
わたしだって、田舎の爵位なしの娘が異例の王宮入りや王妃様から抜擢を受けて、粗探ししようとする陰険な視線に晒されてきてはいないのだ。
マルグリットとその夫のトマを見て、持ちかけられた補償について従者に相談する風を装って、シモンの顔が正面から彼等に見えないよう注意して彼を側に寄せる。
「囲まれてるの」
「えっ?」
「腕利きなのに注意力散漫ね」
「……むしろそんなの気にしちゃダメなんですよ」
そうなのか、なんて暢気なことを思っている場合じゃない。
一応、護衛役も兼ねて連れてきているけど、オドレイさんやルイと違ってシモンは荒事には向いていない。しかもわたしとマルテもいる。
この包囲を逃げ切るのは難しい。
「従者とご相談は出来ましたか」
それまで黙っていた
まっとうな人達でないのは明らか。彼等にとってわたしが非力な貴族女性なのなら、この先のどうなるかは察しがつく。
「お支払いいただけるのでしたら、その娘と私共のこれまでの経緯は表沙汰にはいたしません」
いつの間にか、マルテというよりわたしへの脅迫に話がすり変わってもいるし……わたしが正式な手順でマルテを雇っているのなら、貧民街や犯罪に関わっているような娘を雇い入れたことを噂にされたくなければという脅しだ。
貴族にとって醜聞は最も避けたいことだもの。
一度、お金を払ったら、今度はそのことで何度でもゆする気でいる。
労働力として買った孤児の侍女見習いより、雇い主の貴族の奥様を脅した方がお金になりそうだもの。切り替えの早さに呆れてしまう。
「あるいはその娘をこちらに預けていただくか」
仮にマルテを切り捨て、彼等に引き渡してもこうなれば、それはそれで結果は同じだ。やはり同じ理由で脅してくるに違いない。
「あ、あのっ……奥様は関係ありませんっ……い、一体、いくら払えばいいんですかっ!」
「マルテっ」
叫ぶように割り込んだマルテをたしなめれば、「だって……私が……ご迷惑は……」と、震えながら途切れ途切れに話す彼女に落ち着いてと励ます。
ぎりっと、シモンが歯噛みする気配がした。視界の端に見える彼の横顔はいまにも相手に噛みつきそうでいる。
我慢の限界なのはわかるけれど、動いてわたしとマルテを守って逃げられるわけでもないのに、むしろ下手に相手を刺激するだけよろしくない。
わたしは地面に伸びる自分の影を見下ろした。
結構、時間が経っている。
わたし達が旧市街にいることはルイも知っている。
日暮れ近くになっても戻らないとなれば、きっとオドレイさんを向かわせるはず。それまで……時間を稼げるかしら……。
「金貨二百枚」
マルテの言葉で告げられた金額に、思わず馬鹿言わないでと声に出してしまった。
いくら都市で、十二歳になるまでの衣食住に三年分のお給金といっても法外すぎる。金貨二十五枚もあれば子供が数人いる農夫一家が丸一年は遊んで暮らせるのだ。
「支払った向こう三年、それとこの数年の不履行と契約解除の違約金諸々合わせれば、こんなものです」
「そんな、大金……」
真っ青になって呟いたマルテを、あら、とマルグリットが甲高い声でせせら笑った。
「自分で払うっていうのなら、いまのあなたならすぐ稼げるわよ。マルテ」
その言葉と、マルグリットの背後からの下卑た視線。
マルテは、亜麻色の髪をして色白の可愛らしい少女だ。
流石にそこまで露骨な言葉や、目を向けられれば嫌でも察しがつく。
まさか……宿を営むって、人手不足って……。
「奥様、奴らは……」
シモンがひどく気遣わしそうな目でわたしを見て、信じられないとわたしは自分の口元を手で押さえた。
十二歳になるより早くから、この人たちがマルテになにをさせようとしていたのか……考えるのも気分が悪い。
信じられない。どうしてそんな人達がこんな広場に白中堂々と。
「あら、奥様。ご気分が悪そうですね。いつまでも立ち話はお辛いでしょうから、私共の店で少しお休みになられてはいかがでしょう。ゆっくりお話もできるでしょうし、さあ」
「奥様……っ!」
「お前等っ、いい加減に……っ!?」
退ける間もなくマルグリットに手首を強く引かれ、ドレスのスカートの影に隠れるように突き立てられた細く銀色に光る切っ先に、一瞬、血の気が引きかけたけれど下唇を噛み締めてなんとか気を持ち直す。
いつまでも表面何事もなく話していたからか、ただの立ち話をしているように見えているのだろう。時折、広場にいる人々の何人かがこちらに目を向けていたのもいまはなくなり誰も気に留めていない。
代わりに、遠巻きにこちらの様子を眺めていた目つきの悪い人達が、旦那様どうなさいましたと下男を装って近づいてくる。
「ああ、このご婦人が気分がすぐれぬようでな」
「ここからすぐ近くですから奥様……おや」
「ん? どうしたマルグリット」
「ふうん。さっきから態度の悪い従者だって思っていたら……どうりで。罪人まで側に置いているなんて」
「罪人?」
ざらっとした
日暮れにはまだ間があるのに……これはすごくまずい。
「はんっ、さっきからこっちを睨みつけてるあの従者、見覚えがある気がすると思っていたら裏切り者のシモンじゃないか」
「シモン……だと?」
「本当にお優しい慈善家のお方なんですねえ、奥様は」
ねっとりとした口調で耳打ちしてきたマルグリットの香水の匂いと、最早隠そうともしなくなっている悪意に、本気で胸が悪くなる。
「……離しなさい」
睨みつければ、ビッ……っと布が裂かれる嫌な音と繊維を無理に引きちぎる力に思わず顔を顰めた。
わたしは彼等にとっての金蔓でしかない。
こんな人目のある場所で、ただ脅しのためのはずの突きつけられていた切先が躊躇いのない手つきでドレスのスカートの膨らみ部分を裂いたのに、流石に一瞬頭が真っ白になった。
シモンもマルテも、わたしのドレスが裂ける音を聞いてどうしていいかわからない表情で硬直している。
「マルテだけじゃなく、呪われたスリの悪人までこんな立派に仕立てて、更生させようなんて……どうかしてるんじゃないですか? ねえ」
「……やめてっ」
「そんなに余裕があるならこっちに寄越してくださいな。ふふ……すすんで寄越したくなるでしょうけど」
あんたみたいなお貴族様が一番めちゃくちゃにしてやりたくなる、とぞっとするような低い声で耳に吹き込まれ、マルグリットの邪悪さにくらりと膝を落としかければ、すかさず介抱するように彼女はわたしに腕を回した。
「……離して……っ」
叫ぼうとしても恐怖で掠れた声しか出ない。
マルテが震える声でやめてくださいっとマルグリットに取りすがろうとして、わたしのドレスの生地裂いた刃物を見せられ怯む。
「お付きの方もご一緒に」
「おいっ、やめろ」
下男を装って近づいた男達の一人がシモンの肩を掴み、わたし達を人の目から隠すように取り囲む。
「ご主人に見捨てられても、マルテ共々その後の面倒はみて差し上げましてよ」
マルグリットの言葉にはっとする。
このまま……連れて行かれたら二人は勿論、わたし自身も守れない。
「離して。離しなさいっ」
「騒ぐんじゃないっ」
「奥様っ――やめろっ!」
背後にいたシモンが叫んだ刹那、わたしの頬を突風が掠め、わたしの口を塞ごうとしたマルグリットの袖を裂いた。
「なっ、シモンそういやあんたっ……」
「やめて!」
ほとんど反射的にわたしが声を振り絞ったのと、ほぼ同時だった。
――キンッ、と。
金属が弾かれる音が耳を打ち、視界が銀色の光に染まる。
「なっ……!?」
上がった声が、一体誰のものかわからなかった。
あるいは複数だったのかもしれない。
小さな広場を突然の銀色の閃光が照らし、一瞬遅れて悲鳴を上げたマルグリットやその夫と手下の者達が、なにかに強く突き飛ばされたかのように跳ね飛ぶ。
「あ……」
強い光に染められたわたしの視界に、周囲の風景が戻ってくる。
わたしの手から緻密な紋様を描く銀色の円が、わたしやわたしの腰に縋り付くように膝を地面に落としているマルテと、咄嗟にわたし達を庇おうとしていたシモンを守る盾のように広がっている。
「これって……」
――貴女に危害を与えるあらゆるものを無効化し、危害を加えようとした相手に跳ね返す。
「……加護の、術」
ルイの私室で、わたしの中に仕込んだ魔術を見せながら彼が説明していた記憶が脳裏に蘇る。
『私が側にいなくても差し迫った危機は一旦は回避できるはずです。発動されればすぐに私に伝わるし、魔力をたぐって居場所も追えます』
「あ、あんた……まさか魔術師っ!!」
「え?」
広場のざわめきを切り裂くような金切声が響いて、はっと我に返った。
そうか……なにも知らない人から見れば、きっとこれはわたしがやったように見える。
誰が見ても高度な魔術だとわかる、銀色の光の陣はまだ消えていない。
ゆっくりと周囲を見回せば手下らしい男達も明らかに警戒と怯えの色を見せてわたし達から距離をとっている。
他の無関係な人々も。
『あまり長い時間は貴女にも負担がかかるため持続しません。一定の強度を保てなくなったら終了し、消えるよう設定している』
長くはもたない。
そういえば心なしなんだか力が抜けていくような。
「立てる?」
マルテに声をかけて助け、わたしは茫然と目の前に光る陣を見ているシモンの肩に手を置いた。
きっとあともう一押しで、彼等は退散する。
「合図したら、出来る範囲でいいからなるべく広く風を地面から巻き上げて」
「奥、様……」
出来るわね?
尋ねれば、やりますとシモンは答えた。頼もしい。
銀色の光が、解けるように霧散していく。
手下らしき男達から順番に、わたしは敵意の目を向けてきた人達を一人一人、きっちり目を合わせるように見てから、出来る限り穏やかに微笑んで見せる。
ひっ、と誰ともつかない声が聞こえた。
「シモン」
砂埃だけでなく小石までも巻き上げる、つむじ風というより局所的な砂嵐がわたしが目を合わせた全員を襲う。
その風を発生させたはずのシモンが驚いたような声を上げ、小広場に慌ただしい蹄の音を立てて飛び込んできたオドレイさんが操る馬車がわたしたちの側で停まったのはほぼ同時だった。
奥様っ、と俊敏な動きで御者台から飛び降りたオドレイさんに、力が抜けて立っていられなくなったわたしは寄りかかる。
「ご無事ですか?」
「ええ。ルイの魔術と、シモンのおかげで……」
「シモン? では、先程のあれは」
……オレ?
何故か、信じられないといった表情で自分の両手を見下ろしていたシモンが、その顔をわたしに向けたのが旧市街での最後の記憶となって、わたしは意識を失った。
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