第49話 少しだけ
真っ暗だ――。
ああ……なんだろう、体に力が入らない。
真っ暗闇なのに、頭がくらくらと目が回るようで気持ち悪い……。
『いやっ、しかし流石にそれはっ』
『元々、老朽化が進んで整理区画の対象です。告知もしているはず。なんの問題が?』
『いくらなんでも、急すぎる……っ』
男の人の、話し声……?
二人の内の一人は、なにかひどく焦って困惑した上擦った声……生真面目な口調と張りのある響きになんだか聞き覚えが……。
『ムルト、呼んだのはなんの為だと?』
ムルト……ああ、そうだバランの統括官ムルト様だ。
じゃあもう一人の、耳馴染みのいい声でいて魔王の如き尊大な調子は――。
『たしかに私や、フォート家の私怨を多分に含む。本来なら、私の責任で
『待て! 巻き込まれるのも迷惑だが、むしろそれだけは絶対に止めろ!』
『おや』
『貴様が独断で動けば被害甚大だ。事後処理で我々を殺す気か……この規格外魔術師っ』
え?
なに、このやりとり。
ぱちっと、わたしは目を開いた。
目を開けても真っ暗で驚いたけれど、暗さに目が慣れてきたら宿の寝台だとわかった。
暗いはずで、天蓋布がぴったりと閉じている。
話し声は寝ているわたしの足先、
そっと起き上がり、なるべく音を立てないよう話し声のする方へ四つ這いに移動する。
服は、ドレスは脱がされて麻の下着姿だった。
『ですから、こうして事前に呼びつけているでしょう? 五年前は軍部にかなり譲歩した。結果がこれです』
『……っ』
『あの時、程々で手を緩めなければ今日のことは起きてはいない……これは私達の失態です』
箱型の寝台の柱と天蓋布の細い隙間を覗けば、どうやら日はもう暮れている。
蝋燭の灯りもなく、月明かりだけらしい薄暗い部屋の中で
『あの服もだが、旧市街で展開した例の大掛かりなものに加え、まさかこんな記録魔術まで……外から内からあの可憐なお嬢さん一人に』
ため息を吐きながら、ムルト様がテーブルの上で手を動かす。
カタリと音がして、ほんのりと白く光るキラキラと透き通った薄青い結晶が見えた。
あの結晶、どこかで見たことがあるような。
それより可憐なお嬢さんって、だぶんわたしのことよね……。
服はあのドレス、旧市街での大掛かりなものはたぶん加護の術として。
外から内からってどういうこと?
『用心し過ぎてし過ぎることはないでしょう?』
『まあそれは。だがこれがあれば軍部も反対はしない。一網打尽は十分可能だ』
『一網打尽? まだそのような手緩いことを?』
『おい……』
『いい機会です。この際、軍部の腐敗も含めて目障りだったものは、老朽化が進んだ危険な区画ごと……』
『だからっ』
――粛清でしょう。
『我々良識ある王国貴族として、あくまで平和的かつ合法的な手段にて――』
えっと、見えなくても……わかります。
いま、それはそれはものすごく悪い顔で麗しい微笑みを浮かべていらっしゃいますよね。
というより。
「粛清ってなんですっ!」
天蓋布の隙間から顔だけを出してわたしは叫んだ。
おや目が覚めましたかマリーベル、とルイがなんでもない様子で立ち上がってこちらに近づいてくる。
そんな彼を睨み上げれば、わたしの両頬を手で挟み、ああ……随分と顔色が良くなりましたねなどとのたまうのにわたしは顔を
「……さっき、粛清って仰いましたよね」
「恐ろしい夢でも見たのですか? あのようなことがあっては無理もない」
「ルイっ」
「目が覚めたのならひとまずこちらを」
そう、片手が頬から離れたと思ったら、電光石火の早技で栓をした液体入の筒状ガラスを胸元から取り出しその中身を一息にあおってわたしに口付ける。
「なっ……んんっゔ……ッ!?」
流し込まれた、その恐ろしく甘苦い上に無節操に香辛料を束ねたような風味に思わず両手で口元を覆って、身を捻って寝台の中に倒れ込む。
おまけに飲み下した後にくる味ときたら……。
「ひ、火を入れ過ぎた……臓物パイ……っ」
「急拵えなので勘弁してください。せめて同じ苦しみは分かち合いますので。水は?」
「お、お願い……ぃますっ」
げほごほと
一度、寝台からルイが離れていく気配がして、また戻ってきたルイから寝台の中へと差し出された
幸い、完全に水で口の中を洗い流してしまえば、それ以上の後味はこないもののようで、人心地つくと寝台の柱に寄りかかるようにわたしはへたりこんだ。
再び天蓋布から顔と
「なんですか、これ……」
「貴女は魔術師ではないので、滋養強壮といいますか強制的回復薬といいますか」
「中身はなに?」
「元は貴女が管理くださった薬草類を中心に自分用に作った薬ですが、そこにわたしの魔力と回復魔術を固定化させたら色々と変化が起きたようで」
「普通の回復魔術はだめなの?」
「本当なら治癒をかけたいところですが、いまの貴女は生命力に近いものを削られた状態です。おまけに私の魔術を二つ抱えている」
二つ?
いま二つって言いました?
「そこへさらに魔術を施すような人体実験じみたことは、流石の私も
「ルイ……」
「はい」
「二つって、なに!?」
「口の中に施したでしょう? 記録魔術といいますか……あなたの位置情報と見聞きしたものを記録し取り出せる。負担にならないよう効力七日、記録保持一日です。ご安心ください」
ご安心くださいじゃない……くらくらと眩暈がしてわたしは再び寝台に倒れ込む。わたしの名を呼ぶルイの声が天蓋布越しに聞こえたけれど、返事をする気も起こらない。
位置情報って記録って……取り出せるって。
思い出した。
あの結晶は、婚約の契約でわたしの言質を取って記録したのと同じ。
「ああっ!」
恐ろしい可能性に気がついて叫び、勢い込んで寝台から再び顔を出せば、ものすごく間近に立っていたルイの胸元に鼻先をぶつけた。
「うぅっ……っ」
「大丈夫ですか?」
「取り出した記録って、今日だけですよねっ!?」
もしそうでなければ即刻離婚する、誰がなんと言っても王様に掛け合ってでも離婚するっ!
だって、ここのところ夜や朝、ルイとは色々と……。
「色々と誘惑にかられないこともなかったのですが、王命で離婚などと貴女は言い出しかねないでしょうし、私もそこまで偏執的な人間ではありませんから」
「やったら殺すからっ」
「貴女の為に殺されるのなら本望ですよ、マリーベル」
寝台から出した頭を胸元に抱き抱えられて、離して離しなさいっと頭を振って抵抗していたら、ゴホンっ……と、厳かに低いお声の咳払いが聞こえてあっと思い出す。
粛清とか、薬とか、記録魔術とか……あれこれ刺激が強過ぎてムルト様がいらしてることをすっかり忘れていた。
「なんですか、ムルト。貴方との話は終わりましたから帰っていいですよ」
「ああ、そうさせてもらう。とても信じられん光景ではあるが……一応の友人として祝福はしよう」
「え、ご友人?」
「式には招いていませんけどね」
「半年以上もなんの音沙汰もなく、領地放置した領主に招かれてたまるかっ!」
「えっと……」
「マリーベル様。恐らく貴女様をおいて他に、この規格外は抑えられないと存じます。くれぐれも御身を大切になさいますよう。どうか貴女様に四季の女神と命運の女神の御加護を」
「えっと、恐れ入ります」
あの……ムルト様。
ものすごい早さでそそくさと退室されましたけれど。
この世を司る代表的な女神様全員の御加護を人から祈られるなんて、わたし初めてなのですけれど。
「まったくあの男は。適当に出ていけばよいものを」
「ご友人、王様王妃様の他にもいらっしゃったんですね」
「あれは騎士団の拾い物です。ああ見えて、魔術院の中級課程半ばまで進んでますからその気になれば宮廷魔術師にもなれる」
「えっ、それってすごいことなんじゃ……」
「それに彼は王族の末端にいた人の庶子です。もちろん継承権はなく、ご本人も中枢になんの興味もなくただの平民だと言い張ってますけどね」
「なんですか、その……今後の対応に困るような方は」
「統括官でいいですよ。本人も文句言いながらも騎士団の士長だった頃よりいまの務めが気に入っているようなので」
騎士団から引き抜くのにすごく揉めたってフェリシアンさんの資料にあったけれど、単に軍部と揉めただけではなさそうだ。
食事はとルイに尋ねられて首を横に振る。
なんだか疲れましたのでもう少し休みますと言えば、そうですかと天蓋布を開いたルイにやんわりと緩く両腕を回されて抱き寄せられた。
「……無茶をする」
頭の上から振ってきた言葉に、なんだかまた全身の力が抜けそうになってルイの胸に額を寄せてもたれかかる。
ああ、無事に戻ってこられたんだわと思った。
*****
わたしに対し魔術の絡む処置が必要だったこともあり、マルテは孤児院に帰したらしい。
テレーズさんも宿の使用人の詰所に下がらせ、オドレイさんとシモンはルイの支度部屋にいるとのことだった。
いまは夕食の時間をいくらか過ぎたくらいの時間。
小広場でオドレイさんに寄りかかって気を失ってから、わたしは馬車に乗せられて宿まで戻り、テレーズさんの手でドレスを脱がされて寝台に寝かされたあとにルイがわたしの状態を診たらしい。
「貴女は真っ青に血の気が引いて冷たくなっていて、シモンから事情を聞けば私が考えていたよりずっと長い時間、加護の術が働いていた。私も少々慌てました」
どういうわけか。
寝台に休んでいるわたしのそばで、ルイまで上着を脱いで横になっている。
天蓋布は全部開けてもらった。
あんな本当に箱のような中で、ルイと並んで横になるなんて耐えられない。
結っていたのを解かれた髪を、彼の指がこれといった思惑もない動作で何度も梳いている。
「魔術適性が無いと貴女は言いますが、私という他人が施した魔術を身の内に難なく受け入れ安定し、動かしてもいる……加護の術は問題なかったので、貴女の口の中に施していた魔術から記録を取り出しました」
「屋敷の守りを、わたしの身にも及ぼす仕掛けを施すものではなかったの?」
なにが嘘を吐かない、だ。
彼を詰れば、いけしゃあしゃあと嘘を吐いた覚えはありませんと仰る。
「私は、“馬車の中は屋敷同然の守りをかけていますが、外に出ればそうではありません”、と言っただけです。“目立つ場所に色々施すのは逆に目をつけられやすい”と説明はしましたが」
「そんなこと言われたら、そう誤解すると思いませんか?」
「貴女が私の言葉をどう解釈するかなど、私が嘘を吐く吐かないとはまた別の話です」
「“外出時のお守りを作っておくのをすっかり失念していました”って仰っていましたよね?」
「ええ、そういった機能を持つ魔術具を作ることは可能ですので」
本当に……この人は。
絶対、わざとだ。
わたしの居所をその気になれば瞬時に把握でき、わたしが見聞きしたものを一日の制限付きでも記録し取り出すことができる魔術なんて言えば、わたしが拒否するに違いないから。
この悪徳魔術師。
「もういい、知らない」
ごろりとルイに背を向ければ、今度は後頭部から背中の半ばまで伸びた髪全体を掌で撫でてくる。
規則的な動きでそうされているとなんだか眠くなってくる。
飲まされた薬の効果もあるのかもしれない。
「眠いですか?」
「少し」
「眠ったらいいですよ」
あまりに優しい声音で言われて、思わず振り返ってしまう。
髪を撫でていたはずの手が、今度は額から頬を撫で下ろした。
「そういえば薬に魔力をってどうして?」
「魔術適性がないのなら、貴女は自分の魔力を魔力として動かせない。ですがどうやら貴女は身の内に施された魔術を、まるで自分の魔術のように施術者の設定を無視してその発動を維持することが出来る」
「ん?」
「わたしが貴女の内部に施す魔術というのは、大雑把に説明すれば貴女という素材を使った魔術具に似た形態です。特定の設定に沿って発動するにあたって少しだけ貴女の生命力のようなものを必要としますが、あくまで最初の少しだけです」
「はい」
「加護の術は、直面した危機を跳ね返せば終了する設定です。実際の貴女は魔術具のような道具ではなく常に状態が変化する生身。しかも魔術師でもない。他人が仕込んだ魔術を動かし続けるなど負担が大きすぎる」
ルイの話では、彼の魔術の設定を無視し、彼の魔術が終わらないだけの魔力を消費して維持していたということだった。
自分では魔力を動かせないが、他者の、魔力を引き出す流れを与えれば自分の魔術のように動かせるなど例はないらしい。
もっとも……生身の内に魔術を施すなんてことが例がないので、それがわたし特有のものかそうでないのかもわからないということだったけれど。
「少なくとも私の魔術との親和性は高いようですから、消耗した分の魔力を補填するために薬に私の魔力を混ぜたというだけです」
加護の術はあともう一回くらいは使えるだろうとのことだったけれど、魔術適性はないのに施術者の設定を無効化するほどの魔力が動いてしまうなら、発動させないように対策したほうがよさそうだとため息を吐いた。
「解除できないの?」
「もともと魔術を固定化する魔術具の応用です。おまけに貴女の中で順応というか安定している。解除するのもそれはそれで負担になりそうですから」
どちらにしてもあと一回で終了するものなのだ。
同じく負担になるなら、いざという時の守りのためにそのままでもといったことなのだろう。
「でもあれがあったから、わたしもマルテもシモンも助かったし逃げられたわ」
「マリーベル?」
「ルイが助けてくれたのよ」
あの時、小広場に銀色の光が広がった時。
たしかにそう思った。
「……私は昼寝から叩き起こされましたがね。貴女が休めと言いつけておいて」
「あ……」
「オドレイには前もって昼下がりの午後の鐘が鳴っても戻らないようなら、念のため旧市街へ向かうよう指示しておいたんです。よかったです、本当に」
「だからあんなに早かったのね」
ごめんなさい……と謝れば、どう考えても不可抗力でどこに謝ることがとルイはわたしの額に手をあてる。
そのまま頭の後ろへ髪を撫で付けるように撫で下ろし、わたしの名前を囁く。
目を閉じれば、額、左目蓋、左頬に彼の唇が落ちてきて、最後に唇に重なる。
ただ触れ合わせていただけから、少しずつ角度を変えて……何度も、何回も。
髪に触れている彼の手に指で触れれば指を絡めて握られた。
「ん……ルイ……」
ひどく甘えるような声が零れる。
実際、少し甘えていた。
ルイのもう一方の手が後頭部に差し入れられて、首筋に彼が顔を埋める。
「あ……わたし……」
一度、離れて上からわたしを見下ろしたルイに、すこし泣きたいような気分でそう目を伏せれば、わかっていますと額が合わさった。
しばらくそのままで、どちらともなくくすりと笑みが漏れる。
「なんでしょうね……本当に」
「うん」
「近頃はもう、こういったのも悪くない気がしてきましたよ」
「悪くない?」
「ええ」
青みがかった灰色の瞳がきれいだと思った。
あとはすぐ隣の部屋にいる、オドレイさんとシモンがいまこちらにやってきたら呆れるだろうかとか。
マルテは泣いていないかしらとか。
テレーズさんに心配かけてしまったなとか。
それから……。
「そういえば、フェリシアンから貴女の考えで彼が整えたことの報告がありました。彼女達が問題なければ構いません。いまのフォート家には王都の邸宅に連れていける女性使用人はオドレイを除いていませんから」
「ここの支配人は困らない?」
「大丈夫でしょう。三ヶ月もあれば」
「そう……ルイ……」
「まだなにか?」
ええ、と。
ルイの頬に触れ、目を閉じてねだる。
「少しだけ、ですか」
少しだけで、いまは。
ルイの確認にそう告げれば――。
「では今後、更に少しだけ期待ということで」
苦笑混じりにルイはそう言って、ねだった通りにわたしの唇に重ねる。
少しだけ、彼を好きになりそうな。
そんな触れ方で。
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