第47話 旧市街
トゥルーズの街は、中央広場で貴族街と下町に分かれている。
円形の街は、中央広場より北から東側は貴族街、南から西側が下町とされていて、中央広場から離れ南へ向かうほど荒れた場所になっていくのだという。
反対に、下町でも中央広場に近い北寄りの区画は、使用人も雇えるような富裕層の人達が住む。中には下級貴族より裕福なくらいの家もあるのだそうな。
「昔はここらが、お貴族様やお金持ちのお屋敷がある場所だったらしいっすよ」
案内役兼従者をしっかりやってくれているシモンの説明に頷きながら、古い建物がひしめきあい路地が入り組んでいるけれど、下町と呼ぶにはなんとなく瀟洒な雰囲気もある辺りを歩いていた。
元々のトゥルーズの街は下町側だけだったそうだ。絹織物の街として発展し、栄えるにつれ人が増え、街が拡張していったのをフォート家の先々代の当主の頃に区画整理し直している。
白っぽい灰色の石を多用した建物が整然と並び、道も白っぽい石で平坦に整えられた無機質な美観を呈しているのが、後から整えられたいまの貴族街であるという。
一方、いまわたしが歩いているあたりは装飾的な建物や橋などがあり、少し荒くすり減っている石畳もどことなく趣きのある景観だ。
昔は貴族や富裕層が住むお屋敷だったという区画は“旧市街”と呼ばれ、古い時代のトゥルーズの面影を残す、街の見所とされる場所でもあり、大きな声では言えないけれど、かつてシモンの主な
「――つまり、スリにはお気をつけくださいってことです」
たしかに通りは、身分様々な人々が入り混じって賑わっている。
西部の街も王都も概ね階層でよく行く場所はなんとなく分かれているから、わたしにとっては物珍しい雰囲気だ。
「一種の観光名所のような所なのね」
「まあ余所から見たらきっとそうっすね」
トゥルーズは絹産業で栄える商業の街でもある。
王都のある北部、古い貴族や大領地の多い西部、運河で東部との輸送の便がよく手工芸製品の多い南部の商人達が取引に訪れる。
商人達にとっては、王都に次ぐ第二の都市であるそうな。
北部の街道に近い街でもあるから、社交期間の前後で王都と領地を行き来する貴族が立ち寄ることも多いらしい。
「旧市街は、お貴族様やお金持ちの商人も来るだけに下町でもいい場所ですけど、油断しているそんな人たち狙いな貧民街や流れ者の悪い奴も結構いるんで、本当に気をつけてくださいよ」
シモンが言うだけあって、本当に気をつけないといけないようだけれど、王都の下町の市場だって人混みでぼやぼやしてたらお財布を狙われることだってあるし、怪しい案内人や商売人もいる。
「王都にいた頃は、下町の市場も時折行っていたから大丈夫」
「どーでしょうね。結婚前は平民たって領主のお嬢様じゃ、オレらから見たらお貴族様も同然ですよ……」
「そうですよ。王宮なんて貴族街のお嬢様だってそう簡単に上がれる場所ではないって聞いてます」
そんなに心配しなくても、とは思うものの、シモンとマルテの言葉はその通りではあるので気を付けるわと答える。
「地味にはしてくださってますけど……装身具だって掠めようと思えば掠められるんですから」
服は、嫁入りの時にわたしの側で用意した外出着に着替えて出てきていた。
ルイがわたしに用意し調えてくれたものは、室内着でも上等すぎて一目で高位な貴族とわかってしまうから悪目立ちする。
とはいえ嫁入り支度で調えた外出着は、当然わたしに合わせて作られた服だから古着でない服を着ている時点で、そこそこ裕福な部類になる。
従者と侍女連れな点でも下級貴族くらいには見えるだろう。
「そんなにうかうか歩くつもりはないけれど……」
それにお金はシモンが持っている。
装身具も、髪飾りと小さな耳飾りくらいに留めているし、結婚指輪は手袋の下だ。
「お前も……孤児院に引き取られてからこっち側には来てないだろ。知ってるからってあまりぼやっとすんなよ。
シモンがマルテにぼやけば、わかってると彼女は頬を膨らませた。
こうして一緒にいると、本当に仲の良い兄妹みたいだ。
「連れてきちゃったけど、大丈夫?」
「もちろんです。シモンと違ってずっと住んでる街ですから」
「全然わかってねえな……」
ルイの出資する孤児院は貴族街側にある。
孤児院の子供達は、なにか手伝うにしても孤児院の中のことだけだし、教育も孤児院の中で行われているはずだから、外にもあまり出ていないだろう。
「南門の辺りでもないし」
ぽつりとマルテが呟く。
南門に近いのは、貧民街。
悪い大人が子供を暴力で縛り、稼がせたりするのがたぶん当たり前の場所。
「まあ、貴族様がいるような場所ではすぐお役人に目をつけられるから、ここいらに昼間からあそこの奴らはそんなこないけど……」
「けど?」
「いーえ、なんでも。貴族様のご不興をすすんで買うほど馬鹿じゃないはずですから。ぼちぼち旧聖堂ですよ」
一瞬、なにか考えたような表情を見せたシモンが気にかかったけれど、ほら、あそこですと彼が示した方向を見て、思わずわあっと声が出た。
中央広場からの大通りから短い脇道を抜けると、蜂蜜色の石を使って建てられた聖堂が建っていた。
淡く黄色な午後の光を受ける聖堂は、中央広場の聖堂とほぼ同じくらいの一回り小さくずっと古い様式で尖った細い塔が束になったような外観をしていて、蜂の巣を思わせる窓が開いている。
屋根の色褪せた薄緑の色がなんとなく可愛らしい。
中央広場の聖堂は、白っぽい石造りで大きく開いた薔薇窓などが優美で荘厳な雰囲気だから随分と違う。
「周囲も、聖堂と同じ色の石で出来てるのね」
「まーそれが特徴といいますか、下町は大体こんな色の石を使ってますね」
シモンの説明通り、街が蜂蜜色だ。
なだらかな角度の煉瓦色の屋根を乗せた、四角く細長い蜂蜜色の石で出来た建物がぎゅっと詰まった壁のように道の左右に立ち並んでいるので思わず見上げてしまう。
細い線を刻んだ柱、細く上部は丸い窓の形をしている建物が多くて、補強のためかまるで帯飾りのように黒っぽく細い木の板が、ぐるりと外壁に打ち付けられている。
「ここらはともかく南に行くほど老朽化が激しいというか、ぼろくはなるんですけどね」
聖堂に入って、久しぶりに祭壇に向かってお祈りをした。
聖堂にきたのは、王都の大聖堂での婚儀以来だ。
このあたりはやはり四季の女神や四大精霊への信仰が深いようで、聖堂内の柱には女神と精霊の姿が刻まれている。
どうやらこの聖堂は冬の女神と地の精霊を主体に敬っているようで、丸盾と剣を合体させた聖具が祭壇に祀ってあった。
意識してみれば、冬の女神が像を刻んだ柱が一番祭壇に近い。
――どうかバランの地に少しでも力が戻りますように。
なんとなくそんなことを思ってお祈りを済ませ、冬の女神が彫られた柱を見る。他の季節の女神が従えている精霊は乙女の姿をしているけれど、冬の女神だけ男性とも女性ともつかない精霊を従えている。
冬の女神ケイモーヌが従える、地の精霊グノーンは両性具有の存在と伝えられている。
それにしても、大聖堂はすべての神と精霊に祈りを捧げる場所だ。西部の聖堂もそうだった。こんなふうに四季の女神や四大精霊を称え、とりわけ冬の女神や地の精霊を崇めているようなのは初めて見る。東部特有なのかしら。
「信心深いんですね、奥様って」
「別にそういったわけじゃないけど、こっちに来てからお祈り出来るような機会もなかったし。四季の女神と四大精霊の姿がある聖堂って、王都や西部では見ないから珍しい」
「らしいですね。オレらはこれが普通なんで珍しいって聞いても、そうなのかって感じですけど」
「じゃあやっぱり東部がそうなのね」
「他の地域はわかりませんけれど、トゥルーズはそうですね。冬支度の頃に地の精霊のお祭りもあって、広場で大きなお肉を焼いたり……」
マルテが話すのになんだか楽しそうだと思ったら、そういやあったなそんなのとシモンが思い出したように言った。
「切り分けた肉もらえるやつだよな」
「二回並んじゃだめなのに、並びにいって怒られたね」
シモンとマルテが小さく笑い合う。
不意の昔話に、それまで二人の間にあった隔たりが一瞬にして消えた様子だったけれど、少し間を置いてはっとしたシモンがいやいやと仏頂面を作る。
少し可笑しいというか微笑ましい。
そういえば、昔は様々な祭だとか捧げ物とか自然を崇めるようなことをやっていたとルイが言っていた。
そのお祭りもそういったものの一つなのだろう。
聖堂を出て、再び路地を歩いていると小さな橋がいくつもある。運河の支流の川から水を引いた水路が下町には張り巡らされていて、様々な品物や物資の運搬に使われているらしい。
「街中に小さな川や橋がいくつもあるって珍しい」
「橋下は、船着場も兼ねてたりしますからね」
「え、船が街の中に?」
「でかいやつじゃないですよ、小さい葉っぱみたいな形したボートみたいな。ちょっとした荷物運んだり、人も乗りますけど」
あんなやつです、とシモンが指さした方向へ目を向ければ、彼の説明通りに細い水路を木の葉のような形をした小さな船がすうーっと流れていくのが見えた。
お酒かなにかの樽を乗せている。
「王都や奥様のいらっしゃったユニ領にはないんですか? 水路」
「ええ。王都にも川は流れているけれどそれだけで、庭園の水場や湖以外は水道と井戸だもの。西部も大河はあるけれどこんな感じではないわね。水門はいくつもあるけれど。古城やその城下に小さな町が点々とあって、農耕地が広がっているから随分違うわ」
「お城がいくつもあるなんて素敵ですね」
わたしはトゥルーズの旧市街の景観が珍しいけれど、マルテはマルテでこの街とは異なる王都や西部の様子を想像しているのか鳶色の目をきらきらさせている。
そうよね、他の街なんて平民の特に女性はなかなか見る機会なんてないもの。わたしだって、ユニ領以外はモンフォール領と王都くらいしか知らない。
マルテとお互いが知る街の話をしながら後ろにいるシモンも振り返れば、やれやれといった様子で歩いていた。
「こんなに素敵な街なのに、なんだかありがたみがないのね」
「そりゃ住んでた人間はそんなもんでしょう。それより、道が狭いわりに人通り多いですから気をつけてくださいよ」
わたしのような街の散策を楽しむ人だけでなく、商人やそのお使いらしい人、役人や職人、買い物や水汲みらしいこの辺りの店で働く人や住人、子供など。
入り組んだ細い道は混雑していて、時々、人にぶつかりそうになる。
「一度、そこの角を曲がりましょう、ちょっと開けた通りに出ます」
シモンがわたし達二人をそっと庇うように誘導する。
彼に従って歩き、言われた通りに少し開けた通りに出た。
方向的に中央広場側へ戻れる通りのようだ。
カーン……カーンカーン……と、一度鳴って間を置いて二度立て続けに鳴る、昼下がりの午後の鐘が聞こえてくる。
午後のお茶、夕方へと向かう時間だ。
「どこかで少し休まれますか?」
マルテが尋ねてきたのに、そうねと答えながらどうしようかなと迷う。
中途半端な時間だ、茶館などに入れば少し時間をとられる。
昼下がりの午後の時間を過ぎれば、酒場などぽつぽつ夜向けのお店も開き出す。シモンがいるとはいえ、マルテのような若い女性連れでぶらぶらしているのもあまりよいとは思えない。
「それほどお疲れでないなら戻る方向へ進んでは? もう少し先に行けば小さな広場に出て中央広場に出る道ともつながっていますし」
どうやらシモンもわたしと同じ考えのようで、戻る方向へ足を進めることにする。彼の案内通りに道はさらに開けて小さな広場に出た。
広場は人で賑わっている、いま茶館を探してもすぐに入れそうにない。
やはり宿に戻るのがよさそうだ。
「奥様?」
「十分楽しんだし、あまり遅くなってもだから戻りましょうか」
マルテにそう言って、広場の端へ足を進めかけた時だった。
誰かとすれ違いざまにぶつかったか押されたのだろう。
おい、とシモンがよろけたマルテを支えるより先に、小さく声を上げた彼女の肘がわたしにぶつかり、わたしは彼女を受け止めた。
「も、申し訳ありません……奥様っ」
「構わないけど、大丈夫?」
「はい」
「ったく、なにやってんだよお前は……」
「だって……」
受け止めたマルテをシモンが注意するのをまあまあと宥めて、マルテが体勢を立て直すのを待っていたら、右斜め後ろから「あら、ごめんなさいねお嬢さん」と、やや嵩高な物言いの女性の声にわたしは振り返った。
「いえ……、っ」
わたし同様、振り返ってぶつかったと思しき相手に応じかけ、小さく息を呑んで身をわずかに縮めたマルテにどうしたのと思う。
「おや」
少し遅れて振り返ったシモンの眉の先がびくりと動いたのが見えて、やけにねっとりとした女性の声に、肩に手を置いて支えていたマルテから相手を見た。
赤茶けた髪を結い上げやや派手なドレスを着た、貴婦人にしてはちょっと険のある雰囲気の豊満な女性がわたしたちを見下ろすように立っている。
泣き黒子が艶っぽく、けれどぎらりと嫌な光を帯びた黒っぽい茶色の目はどことなく蛇を思わせる女性で、その視線がマルテの顔に注がれている。
「見覚えがあると思えば……マルテじゃないか。ねぇっ! ちょっと!」
愉快そうな笑みを滲ませた声を出し、わたし達を飛び越した前方へと声を張り上げた女性にわたしは眉を顰める。
わたし達が向かおうとしていた方向から、おそらくは女性の連れ立っていたらしい大店の店主のような装いをした、しかし商人にしてはがっしりとした体つきの背の高い男性がやってくる。
「どうした?」
「ねえ、こんな偶然てあるかしら、マルテよこの子」
なんだろう。
二人とも三十くらいで、裕福そうな身なりだけれど、なんだか違和感がある。
「突然いなくなったと思っていたら……見違えたわねえ」
こいつら……っ、と。
口の中で毒づいたシモンに、もしかしてこの人達とわたしが思うより早く、一方的にマルテに話しかけていた女性が彼女の腕を掴み上げる。
「……あっ!」
「あらやだ、何度かお菓子をあげたのに忘れた? 汚く痩せてた子が変わるものだねえ。綺麗な格好してるけど、いまどこにいるの?」
「なんですか、あなた!」
腕を掴まれて明らかに怯え切った表情をしているマルテを見て、わたしは声を張り上げた。
「この子はわたくしの侍女見習いです。彼女とはどういったご関係でしょうか」
「だめですっ……」
わたしの前に出ようとしたシモンにあなたは控えてと、彼の前に塞がってわたしはマルテと彼女の腕を掴む女性の間にわたしは歩みでる。
きっと二人が昔いた場所に関わりがある人達なのに違いない。
どういった人達かしらないけれど、こうして堂々と身なりのいい様子で広場にいるということは、表向きなにも咎めを受けていない。
シモンはまだ罪を償っている途中だ、彼等と揉めるようなことになれば厄介なことになりかねない。
「奥様……」
「奥様? あら、それは失礼いたしました」
ころりと口調を変えて女性はマルテの腕を離し、この近くで夫婦で宿を営んでいる者だと言った。
「マルグリットと申します、こちらは夫のトマ。どうぞお見知りおきを。この子とは夫共々昔からの顔馴染みなんですよ。数年前にぱたりとどこかへいなくなって心配しておりましたから、つい」
「そうですか。彼女はわたくしのところでご心配するようなことはなくおります。どうぞご安心ください」
さあ参りましょうとマルテを促し、彼等に軽く会釈だけして背を向けようとすれば、あらそうでしょうかとマルグリットがやや甲高く声を張り上げた。
近くにいた人々がざわりと、こちらに好奇の目を向けるのを感じる。
「なんです」
自分の服を着てきて、ここが下町側でよかった。
東部でわたしのことを知っている人はほとんどどいないはずだし、いまのわたしはせいぜい下級貴族にしか見えないはず。
一昨日にルイと貴族街を歩いたわたしと、同じ人物と思う人はいないだろう。
けれどこれ以上、騒ぎにはしたくない。
傍目には、なにか付き合いのある商人とちょっとした諍いにでもなったくらいにしか見えていないのだろう。ざっと広場を見回したところ役人の姿はないし、来る気配もない。
「奥様は、貴族の奥様とお見受けしました。その子について奥様はご存知なのかしら? 知ってらっしゃったらとても側におくとは思えないのですけど」
くすりと、手袋をはめた手を口元に吊り上げた赤い唇。
嫌な笑みだわと思った。
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