第2部 公爵家と新生活
第14話 婚儀を終えて
常緑針葉樹が多い。
どこまでもどこまでも深い緑の景色が続いている。
フォート家の領地と屋敷は王国東部にある。
かつて戦争していた隣国との国境を含む領地は、東部の約六割を占めるらしい。
六割ってとんでもない広さだ。
「ほとんど小さな国も同じよね……」
東の果ての海峡と山脈と凍土を隔てて、つながる巨大大陸と繋がる、東西に伸びる細い大陸は主に三つの国にほぼ等分に分かれている。
東にティベリス共和国、西にハイラック連合王国、そして両者に挟まれる形で存在している真ん中で六角形に近い形をしているのが、わたしが住むエクサ王国だ。それぞれ、共和国、連合王国、王国と呼ばれている。
東の共和国は、古くから戦争を起こしては領土を広げて多種多様な民族を従えてきた国だ。共和国といっても、ほんの一握りの貴族や軍人などの権力者が実権と富をほぼ独占していて、その貧富の差は階級差は王国や連合王国よりもよっぽど酷いらしい。
三つの国の内で技術力が高く、強力な武器を作って、何年かおきに王国を侵略しようと仕掛けてくるけれど、王国には魔術という独自の技法がありそれを防いでいる。
そんな東の護りを担っているのもまた、フォート家であるらしい。
「それにしても、この森はいつまで続くのかしら……」
東部は森林資源に恵まれている。
森林資源は莫大な富を産むし、開拓すれば街や農地となりそれも富を産む。
けれどこうして馬車の窓から見えるのは、特に伐採もされていなさそうなほぼ手付かずの森や丘や、流れる小川に木々の隙間に見える湖。
馬車の窓の外を流れていく景色から目を離し、わたしが腰掛けている場所から曲木の板一枚分の幅を置いて靴の爪先を長いローブの裾から覗かせている人を見る。
王都を出てから、ずっと眠っている。
朝の光が降り積もったばかりの雪を溶かさないうちに執り行われた、まるで王族のような婚礼の儀。
その後、明け方近くまで続いた盛大な祝いの宴。
ほとんど眠る間もなく支度して、こうして馬車に揺られている。
わたしもひどく疲れて、王都を出て王領の境あたりまではついうたた寝してしまったけれど。
「この揺れで、よくこんなに眠れる」
馬車の壁に右肩を寄りかからせ、二人がけの広さの腰掛けに紺色の布の塊が斜めにほとんど横に倒れている。
馬車は揺れるものだ。
昔と比べたら揺れなくなっているといっても、さすが公爵家所有の馬車だけあって王妃様がお乗りになるものと同じくらい乗り心地が良いものであっても。
王領を出てからは石畳に整った道も途切れがちで、人の歩く道に混じる小石や凹凸に時折ガタンと音を立てて縦や横に大きく揺れる。
それでも魔術師は起きない。
整った容貌の彼が目を閉じて黙ってじっと動かないでいると、まるでなにか作り物のようだ。
歳は、十九のわたしの二倍。
三十八の……男の人にしては、長い睫毛が影を落としている白い頬は滑らかで綺麗だ。ほとんど眠らないでいたためか目元はやや翳り、よく見れば年相応に皺を刻んでいるけれど。
すっと通る鼻梁に、少し赤みを帯びた口……元……。
「えっ、と……」
考えないっと、わたしは慌ててまた窓の外へと目を向けて、窓枠に左肘をかけ頬杖をつく。
大貴族で最強と名高い魔術師。
人を魅了する美しい姿形をした。けれど、これまで妻を持たず、愛妾も持たず、特定の相手もなく独身を通し――何故かわたしと結婚した。
頬杖をつく自分の薬指に嵌められた細い金の輪を見て、小さくため息を吐く。
一目惚れだと迫り、言葉巧みにほとんど詐欺同然な婚約を取り付け、周囲の人間を直接的にも間接的にも巻き込んで、あっという間にお互いの間にあった問題をあの手この手で片付けて――わたしは彼を好きではないのに。
「――というより、いつまで寝ているのかしら」
魔術師のかすかな寝息の音を聞きながら少し呆れる。
もう半日程、馬車の中で眠っていて目を覚ます気配がない。
この馬車の御者もしているオドレイさんが、馬や人の休憩に途中の町に立ち寄り、前もって手配されていた茶館でわたしがお茶を飲んでいる間も、彼は馬車を降りることなく眠り続けていた。
『放っておいていいの?』
茶館の二階にある個室でお茶を飲みながら、バルコニーの側に控えるオドレイさんに尋ねてみたけれど、大丈夫ですと硬い声の一言だった。
『ただ“腑抜け”になってるだけかと』
『腑抜け?』
『はい。時々、そのように。ですから私はあの方の従者なのです』
オドレイさんの返答は、正直よくわからなかった。
お茶を飲みながら、バルコニーに背を斜めに向けて立つオドレイさんの姿を眺めた。バルコニーの下にはフォート家の馬車があり、魔術師が眠りこけている。
彼と茶館にいるわたし両方に注意を向けられ、なにかあれば動ける位置取りだった。
オドレイさんは魔術師の従者で護衛。
元共和国の傭兵であるらしい。
表情に乏しく、事務的な口調で話し冷たく見える彼女だけれど、そうでもない。
結婚審議のための婚約期間が終了し、婚儀を挙げるまでの約三ヶ月の間。
王宮からフォート家の邸宅へと部屋を移されてから王宮勤めを辞するまで、朝晩だけではあったものの、同じ邸に過ごすうちにわかってきた。
オドレイさんは冷たい人ではない。なにより
いまも。
『一人だけでお茶も味気ないから、一緒にどう?』
『申し訳ありません。移動中はどんな不測の事態が起きるかわかりません。いまは、奥様をお護りする役目もございます』
『あ、えっと……その奥様っていうの出来れば止して』
『ですが奥様は奥様です。昨日ご結婚されました』
『……それは……そうなのだけれど』
護衛としてのオドレイさんは、邸宅の中で使用人として働いている時よりもずっと厳しく、案の定、断られた。
それにしても、主が綺麗なら従者も綺麗だ。
この国では珍しい褐色の肌。顎先に切り揃える真っ直ぐな黒髪。黒い瞳の涼やかな眼差しも麗しい男装の美女。
『まだ旦那様の事を好きにはなれませんか?』
『まだ……って』
『お嫌いでは、ないのですよね?』
その美女がじっと縋るようにわたしを見つめてくる。
ああ、まるで不仲の両親が仲良く寄り添うのを望むような……哀れを誘う子供のような純粋な眼差しで。
オドレイさんにとって、魔術師は彼女が少女の頃から面倒を見てくれた父親同然の存在。彼の結婚と幸福を望んでいるらしく、一方、わたしはどうにか穏便に離婚できないものかと考えているわけで。
なんだか自分がひどく情の薄い、冷たい人間に思えてくる。
『ええっと、まあ』
『それならば、よかったです』
ほっとしたように僅かに目を細め、馬車へと目を向けるオドレイさんの横顔は主の結婚を心から喜んでいるように見えた。
『きっと好きになります』
わたしから見れば、胡散臭いだけでなにを考えているのかわからない悪徳魔術師だけれど、オドレイさんにとっては十年以上仕える誰より信頼できる主である。
見た目はわたしより二つ、三つ年上にしか見えないオドレイさんは、なんと魔術師と五つ違いの三十三歳らしい。
年齢による見た目の変化に乏しいのは、彼女が祖先から受け継いでいる“竜の血”の影響だという。
詳しくは知らないけれど、オドレイさんはその“竜の血”のために、フォート家に雇われるまで、とても厳しい境遇で生きてきたとは魔術師から聞いている。
感情の動きに乏しく、綺麗な人形が動いて喋っているようなところも、従者以上の仕事をこなす有能な使用人なのに、時折幼子のように常識が抜け落ちた言動を見せるのもそのためだと。
がくん、と。
窓枠にかけていた肘が馬車の揺れに外れかけ、眠る魔術師やオドレイさんのことなど、あれこれと思い巡らせていたのから我に返る。
道が悪いのか、カタカタと馬車は小刻みに揺れ続けていて、目の前にいる人は変わらず眠ったままでいた。
腑抜け、ねえ。
「そういえば、前に魔術を使うのは疲れるって言っていたような……」
本来、王都と王領を含む北部を出て東部に入るまで、馬車なら昼夜休まずで移動しても少なくとも五日はかかる。
魔術師の、フォート家の屋敷がある国境近くまでは更に三日は要するだろう。
もちろん実際はこんな速さでは移動できない。
馬も人も休息が必要だ。
途中の街での滞在を必要最小限に、可能な限り馬を走らせ続けたとして考えても十日以上は移動にかかる距離だった。
「そんな距離をたった半日に短縮させるって、きっと大掛かりな魔術よね?」
ものすごく心臓に悪い魔術だったけれど。
なにしろ、王領を出て間もなく道をそれて、林の中の湖へとどんどん近づき、そこへ馬車ごと突っ込んだのだから。
水の中に落ちたっと、思ったら東部の森の小径を走っていた。
「婚儀と祝宴でほとんど眠っても休んでもいないし……」
夜が明けたと同時に慌ててて出立した。
どうしてこんなに急いで領地の屋敷に戻ろうとしているのだろう。
五ヶ月近くも王都にいて、領地を留守にしていたから領主として気がかりといっても、いまさら数日移動を短縮させたところで誤差の範囲だ。
「魔術で移動距離を短縮までして……どうしてこんなに急ぐ必要が……?」
「ん……まあ、夜は屋敷で迎えたいですからね」
低く、くぐもった寝起きの声が聞こえて、わたしは反射的に魔術師を見た。
ほとんど横になっていたも同然に斜めに傾けていた体を、彼は真っ直ぐに起こして座っていた。まだ眠そうな様子で額を押さえ、頭を振っている。
王都にいて特に不自由なさそうに見えていたけれど、やっぱり住み慣れたお屋敷に早く戻りたいものなのかしらと考えながら、彼が眉間に指を当てて目元をほぐしているのを眺める。
「貴女……元気ですねぇ。昨晩ほとんど眠っていないでしょうに。気分が悪くなったりしていませんか?」
「あなたの方が、よっぽど気分が悪そうに見えます」
「もう徹夜とかはだめなんですよ、この歳になると……若いというのは羨ましいですね」
あ、なるほど。
お年でしたか。
「それは難儀なことですね」
「どれくらい進みました?」
「茶館を出てから二刻ばかり走っていますけれど、どれくらい進んだかは」
「ああそれなら、日暮れには着きそうですね。新妻の相手もしない不甲斐なさで申し訳ない」
「別に構いません。むしろずっと眠っていただいても結構です」
会話もせずに済むし。
大体、こんな狭い密室空間で、日暮れまで膝付き合わせて過ごすだなんて間が持たない。
「妻になってもつれない。いや、考えようによっては……そうでもないか」
「なんです?」
「初夜に備えて十分休めというのなら、顔に似合わずなかなかと」
初夜っ、いま、初夜って!
にこにこではなく、にやにやとふんぞりかえって足を組んだ魔術師の言葉に一気に頰が熱くなる。
「な……なっ、なにを言って……っ!?」
「実に結構ですよ。昼は貞淑で夜は大胆などと、世の男にとってはある種の夢ですからね」
「全然っ、違うからっ……ゃっ!」
「おっと」
車輪が大きめの石でも踏んだのか、がくんと大きく馬車が左右に揺れ、魔術師に向かって身を乗り出し気味になっていたわたしは揺れに翻弄される。
オドレイさんが馬を強引に制御している気配がし、ややあって、「申し訳ありません」と御者台から低い声が聞こえた。
問題ありません、と魔術師が返答する。
「むしろ好都合」
「へっ?」
魔術師の言葉に、彼の腕に胴体を抱きとめられていることに気がついて大慌てで席に戻ろうとしたものの、しかしそれを許してくれる彼ではない。
また揺れても危ないですからと何故か膝の上に乗せられる。
「一方に偏るのはよろしくないかとっ」
「馬車全体でどれだけの重さがあると思っているんです? 貴女一人偏ったところで大した重さではないですよ」
「いや、でも……座り辛いですっ」
「私に寄りかかって眠っても構いませんよ?」
さっきまで寝ていた人がなにを言っているのだか。
それよりなにより、顔が……近い!
「お、お離しいただけませんでしょうかっ」
「嫌です。新婚ですよ私達は」
「新婚だろうがなんだろうが関係ありませんっ。それに外の景色も見たいんですっ!」
そう訴えれば、若干不服そうにしながらも魔術師はわたしを離してくれた。
領主らしく、初めて領地を訪れる人にその景色を見せようといった意識は持ち合わせているらしい。
元いた場所に座り直して、わたしは窓へと顔を向けて外の景色を見る。
窓枠の隅に指先を掛ければ、がたがたと馬車の小刻みな振動が伝わってくる。
やはりこの辺りはあまり道がよくないらしい。
「森ばかりで退屈では?」
「でも緑ですよ、この季節に」
いまは冬だ。
それなのに濃い緑が続いている。
この辺りも雪は降ったようで、木々の枝葉に砂糖細工のように白い雪が積もっている。おそらく地面もそうだろう。
「冬に枯れない森って、あまり見たことがなくて」
「言われてみれば、北部や西部は落葉樹が多いですね」
「ユニ領も西部の北寄りで、幹が白っぽい葉を落とす木が多いですから」
「成程」
「それに、これだけ森林資源がほとんど伐採もされず、ほぼ手付かずなんて」
「領地といっても預かっているだけですから。そう好き勝手には出来ないのですよ」
「預かる?」
「ええ」
本来は王家かなにかの森なのかしら?
そういえば、かつての戦争では大変な功績を上げたらしい話もあるし。
あれ、でも戦争って、わたしが生まれる前のことだから二十年以上は前よね。
この人まだ二十にもなっていないんじゃ……。
「なに難しい顔をしているんです?」
「あ、いえ……よく考えたら共和国との戦争って、わたしの生まれる前の話なのにって」
「戦争?」
「魔術師大活躍な話が伝わっていますけど、あなたその頃はいまのわたしよりも若いはずと思って」
「そんなことですか。十二の時に当主となって、戦地に出向きましたからね」
「十二!?」
まだ、子供じゃない。
王宮に上がれる歳でもないのに、大領地を持つ公爵家の当主って。
「まだ子供でしたが、両親が亡くなり直系は私一人のみでしたから仕方がありません。それに有事の際、王の下で軍務につくのは貴族の義務です」
「はあ」
「幸いにして魔術の家系でしたから、それほど荒っぽいことに巻き込まれずに済みましたけれど」
いや、いやいやいや。
たしか一帯を火の海にして敵軍を全滅させたとか。
地を轟かすような大軍を一人で退けたとか。
そんな話だったはず。
「なにを考えているのかなんとなく察しがつきますが、私の噂の大半は尾鰭のついた話ばかりです」
「どうだか」
有り得る。
この悪徳魔術師なら有り得る。
「結婚しても相変わらず信用ないですね。でもそれは」
「はい?」
魔術師の“それ”がわからず、わたしが彼を見たのと彼の手が窓枠にあるわたしの手に伸びたのはほぼ同時だった。
骨ばった手のすらりと長い指の先が、わたしの左薬指に光る金の輪をそっとなぞる。
「指に嵌めてくださっている」
「そ、そうそう外すものではないですからっ、それだけです」
大聖堂の司祭の前で取り交わした結婚指輪。
婚儀のために聖堂が用意したそれを外すのは、即ち邪な考えや不貞を疑われても文句は言えない。
愛情の有無に関係なく、結婚が認められた以上は人妻であるし、離婚することを考えてはいてもあくまで穏便に。
邪な考えや不貞を成すつもりはなく、不名誉な疑いも持たれたくはない。
「ふむ、儀礼的なものへの弱さも変わらずですか」
「常識的と言ってください」
「結婚式の最中から離婚を考えるような人は、常識的とは言えませんよ」
「うっ……どうして」
「そういった顔をしていましたから。大聖堂で認められるということは、余程の理由がない限り“死が二人を別つまで”といった契約を神と精霊を前に結んだも同じです」
指輪を外すなんて子供の悪戯に思える程度のこと、それより余程大それた事を考えると涼しい顔で言われたのが恨めしく下唇を軽く噛む。
そんなことはわかっている。
「稀代の変人魔術師様なら、理由の一つや二つ見つかるのではないかと」
「本当に……お父上殿の許しが出てからというもの遠慮も容赦もない。おかげで随分と心の強度が上がりましたよ」
それ以上、不屈の精神で向かってこられても困るのですけど、と顔を
「なんです?」
「いえ、私にとっては契約こそが重要で、こんなものはただの金属の輪でしかないのですが。貴女がそういった気で嵌めているのなら私も外さないでおきましょう」
もう一度、するりと指輪を撫でた指はわたしに直接触れてはいなのだけれど。
なんだか……変なくすぐったさを覚えて戸惑う。
そっと、窓から自分の胸元に手を戻して握り込む。
魔術師へ再び目を向ければ、彼はもうわたしに伸ばしていた手は引っ込めて、窓に右肘をかけて頬杖をついていた。
膝に落としている左手を見れば、薬指にわたしと同じ金の輪が淡く光っていた。
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