第35話 トゥルーズの朝

 少しは考えてほしい。

 目を覚ましたら、すぐ近くに女性の自分よりも髪も肌も綺麗な男の人の整った顔があって、しかも結構がっしり固い腕が胴に巻きついていて起きて離れることもできず、どうなっているかもわからない自分の寝顔も含めて観察する様に眺められている。

 このなんとも居た堪れない女心を。


「まだ、朝の最初の鐘の音が聞こえたばかりです」


 つまりは夜が明けたばかりで、もう少しのんびり寝ていて構わない。

 そういったことだろうけれど、こちらはむしろ起き上がりたい。

 魔術師はわかっているのかどうかしらないけれど、結婚後、はじめて同じ寝床で共に目覚めて迎えた朝でもあって……というより、一日二日は眠ってしまいそうな状態ではなかったの?


「薬を飲んで寝ましたからね。人も呼びつけておいて自分は使い物にならないのじゃ話になりませんから」


 なにも言っていないのに、こちらの思うことが聞こえているかのように答える魔術師にすぐさま応じられず、寝ぼけていると思われても仕方ない間を空けて、そうと答える。いつの間に。


「そういえば……昨日、着いてすぐこの宿に休んでしまったけれど広場には知らせなくてよかったの?」


 他の町や村では広場にその長や側近が待っていた。

 本当は昨日のうちにトゥルーズの魔術の補強もするつもりだったから、ここも同様なら街の人は魔術師にすっぽかされた状態になるはずだ。


「遅くなりそうでしたし、着いたら勝手にやるので立ち会い不要と知らせています。宿の前で馬車を降りた時、特に私達を待つような人はいなかったでしょう?」


 そういえば、ここは広場の前だ。

 たしかに他の町や村のようや出迎えるような人は誰もいなかった。


「表立ってやることでもないですから」

「どうしたって表立ってしまうと思いますけど……」


 というより、あれは目立つでしょう。

 どう考えても。


「しかし起きてすぐさま挨拶より先に仕事の話とは味気ないですね、マリーベル」

「……おはようございます」


 消え入りそうな声でつぶやけば、同じ言葉と唇が額に降ってきた。

 あまりに普通に至極当然な流れで、少しばかり呆れてしまう。


「ん、どうしました?」

「お疲れも取れて、いつもとお変わりないようで……」

「おかげさまでよく眠れましたからね」


 胴に巻きついていた腕が離れて、魔術師が身動ぎする。

 枕に頬杖をついて少し身を起こし、わたしを見下ろしておやと呟いた。

 

「てっきりすぐさま起きて離れるかと思えば」

「……まだ少し眠いんです」


 離れたいけど、明けたばかりならさすがに起き上がっても早過ぎる。

 部屋付きの小間使いが声をかけにも来ておらず、臨時雇いの侍女も来ないうちから起きて身支度したら、雇われた側は初日から立つ瀬がない。

 いまのわたしはお世話されるのが、ある意味仕事なのだ。


「さっきまで人の仕事の心配していた人が……すっかり目は覚めているでしょう?」

「う……うとうとしてきたんですっ」


 絶対にわかっている魔術師が揶揄からかうように言う。

 ああこういう時、貴族面倒くさい。

 顔半分まで寝具に潜り込んだわたしに、魔術師がくすくすと笑っている声が聞こえてきた。

 随分とご機嫌が良い。

 寝具からはみ出ているこちらの頭を、子供にするような手つきで撫でてくる。


「まあよく辛抱していると思いますよ、働き者なあなたが」

「別に辛抱しているわけじゃ……そういった立場になってしまって仕方がないですから」

「ふむ、本当に私の求愛以外のことはすんなり受け入れてくれますよねえ」


 それはともかく、さっきからずっと人の頭を撫でている。

 頭というよりいまは髪を軽く梳くように撫でているけれど。


「なに? さっきから」

「ああ、以前よりたしかに撫で心地が良いと思いまして、リュシーの功績ですね」

「……猫の毛並みがよくなったみたいな感じに言わないでもらえます?」


 潜り込ませていた頭を出して言えば、そう聞こえました? などと言う。


「聞こえました」

「なら口説くように褒めて差し上げましょうか?」

「朝から人をからかわないで」


 呆れた思いでため息を吐いて、被っていた寝具の端を掴んで上半身だけ起き上がる。

 魔術師はまだ頬杖ついた横臥のままなので、頭の上のあたりを撫でていた手が背の半ばより少し長いくらいの髪に沿って下りたけれど、彼は頬杖にしていた腕を支えに後ろからわたしの首元へ横着な体勢で身を乗り出してきた。


 “――”


 なっ、え……っ、なに!?

 彼が魔術を行う時に聞こえる、遠い異国の詩のようなしっとりとした響きの声。

 その囁きに、内側から衝撃を受けて身悶えしそうになるほど背筋がぞわぞわと震えた。

 意味はわからない。

 でもなにか恥ずかしいほど称える言葉で褒められ、居た堪れないような思いになる言葉であることは何故かわかってしまって頬と耳が熱くなる。


 さっきの、なに?

 なんて言ったの!?


「ふむ、流石は古精霊にこちらの意思を伝える言葉だけに、意味はわからずとも伝わりはするようですね」


 色々言っても伝わらない貴女がそんな反応を見せてくれるとは、これはなかなか使えるなどと冷静に仰っているけれど、こちらはそれどころじゃない。

 囁かれた言葉の意味は全然わからないのに、それが表すものを高純度で直接流し込まれたような驚きやら恥ずかしさやらで。


「あの……本当に、なんて言ったの……?」

「正確に翻訳すればこちらも身悶えたくなるくらいの、地の精霊がもたらす初夏の喜びの色を持つ貴女への賛美とそれは私のものであるといった表明ですかね」


 せ、正確に翻訳されなくても、十分身悶えるものだと思うのですけどっ!!

 初夏の喜びって……たしかに若葉の色に似た緑色の目ではあるし、栗色の髪は広がる枝の色といえないこともないかもしれないけれど。

 それに私のものって……表明って……。


 居た堪れなさ過ぎて固まったままでいたら、いつの間にか彼の腕が後ろから前に回されていたのに、熱の取れない頬を埋める。


「そういった言葉です」

「もっ、言わないで」

「……マリーベル」


 首の後ろの髪に顔を埋めて名前を囁く声音に、いつもと異なるなんだか少し余裕のない響きを感じた。

 古精霊にこちらの意思を伝える言葉――わたしも落ち着かないけれど、囁いた魔術師ももしかして落ち着かない? 

 だってこの人にとって言葉はあらゆるものを規定するもの。

 それを魔術の指示でなくわたしに向けて。


「なんとなくだけど……用いた側のがより困ってない?」


 少し驚いたような振動が伝わってわたしを囲む力が強くなり、そうですね少々迂闊でしたとぼそりとした呟きが聞こえた。

 おまけにいま振り向いたら殺しますと、うっとり体の底に響くような声音で物騒なことを仰るのにぞくりとする。

 けれど、この人のこういった感じは初めてじゃない。

 普段は飄々ひょうひょうと穏やかでいるけれど、時折ちょっと怖いような時がある。

 

「あなたのものとかそういったことはともかく、たぶんそうならなくても、出来れば近くにはいたいと思ってはいるけど……」


 わたしを離そうとしない腕に、後々の言質を取られないようもごもごと言えば、後ろから怪訝そうにした彼の気配が伝わった。


「それは……どういうことですか?」

「え?」

「例えば仮に離婚して私と交わした婚姻の契約や関係が無いことになっても、それとは無関係に近くにはいると聞こえたのですが?」


 こんなにあからさまな不審と懐疑の念を含んだ彼の声音は聞いたことがない。

 たしかに恋愛の面で考えたらちょっとどうかと思うけれど、恋愛から離れたところではそんなにおかしなこと言った覚えはないのだけれど。


「だっていまとなっては、あなたもフォート家にも気になることが多過ぎるし。それにフォート家って条件いいから、円満にあなたの妻ではなくなったら小間使いで雇って貰えないかしらってなんてちょっとだけ考えたこともあったし」

「……小間使い」

「あ、いや……流石にそれは無神経で非常識というか虫のいい話なので冗談ですけど」

 

 腕の力が緩んだのに弁明しようと振り返って、あまりに悄然としていた魔術師の様子に今度はこちらが驚いた。

 ひどく厚かましいこと言ってしまったわたしにがっかりした?


「あの、本当に……雇って欲しいは冗談ですよ?」

「貴女は優秀ですから、万一そうなった際に貴女が望まれるなら、もっときちんとした待遇で雇うのはやぶさかではありません」

「え、本当に」


 わたしが望む離婚は王妃様のご一族の縛りもなくなって、屋敷の使用人の人たちも納得する、円満穏便な離婚であるからかなり難しい話ではあるけれど。

 そうなると当然後ろ盾もなにもない離婚経験有りの平民の娘になってしまう。

 魔術師がそう言ってくれるなら、離婚した後の生活は安泰だ。

 なにより人手不足なフォート家や厄介な事情を抱える彼の力にもなれる。


「……確認ですが、マリーベル」

「はい」

「冗談だと貴女はさっき言った。だとすれば、貴女は使用人の契約すらなしに気がかりだから離れないと?」

「えっと……使用人の契約すらっていうのはよくわかりませんけど、あなたの気持ちに応える応えない云々を抜きにすれば、むしろ離れるのは気がかりですね」

「たしかに貴女の立場が危うくなるのは目に見えています。しかし万一そのような状況となったなら、困らないようにしますよ当然」

「勿論それも多少はあるし、そうしてくださるならありがたいですけど。でもそれとはまた別の話です。だって別にあなたが嫌いなわけでもないし、見捨てるほど冷たくはないですよわたしだって」


 この人、自分のことはあまり顧みない人みたいだから、せめてそこはなんとかしないとオドレイさん達が大変だ。

 彼等は魔術師になにかしら恩義があるから、主従関係を抜きにしても厳しいことは言い辛い。


「……わかりました」

「ルイ?」


 なんだろう。

 表面いつも通り穏やかだけれど、なんだか様子がおかしい気がする。

 それも急に。

 さっき見た悄然としていた魔術師の姿はもうないけれど、なんとなく彼の両頬を手で挟むように触れる。

 いつもより少し熱い気がする。

 もしかして、実のところは昨日の疲労がまだ尾を引いているとか。

 薬を飲んで寝たらしいけれど、この人が自分用に作る薬なんて強力だけど副作用もあるようなの作りそうだ。

 平気なようで熱があるのではと少し心配になった。


「そういえば、いま振り向いたら殺すとか言ってませんでしたっけ?」

 

 彼の反応を見るためにちょっと揶揄からかうようにそう尋ねてみる。

 すると少し考えるような間をおいて、そういえばそうでしたね……と彼はゆっくりとした手つきでわたしの手を掴んだ。

 彼の頬から外すようにも、わたしが逃げないようにも、そのどちらでもあるように思えたけれど、なんだか振り払う気になれないままでいたら、口付けられて寝具の上に戻されてしまう。


 あれ? 

 どうしてこんなことに?

 えっと、なにかおかしい。

 魔術師もわたしも。 


 見下ろしている魔術師の目は凪いでいて、いつもみたいに逃げ出す気も何故か起きない。

 どうやら逃げようとしないらしいとわたしの様子を見て取り、魔術師はシーツに流れたわたしの髪を軽く撫でた。


「たしかに少々そうしてやりたいような気分です」

「た、淡々と言われると、本気で怖いのだけど……」


 ちょっと待って、本当に殺したくなるほど呆れさせて、怒らせた?

 さっきまでの会話で、いくつか思い当たりはあるけれど、そんな死を望まれるようなことは……。


「朝であまり時間もないですから、小さく」

「えっと……?」

「大人しく私のものになるのがましとなるくらい、賛美の言葉を囁いてあげますよ」


 実に、実に、意地の悪そうな笑みを浮かべて、魔術師がわたしの耳元に口元を寄せる。

 いや……それは。

 どうして!?


「や、ちょっと待って……」

「待てませんし、そもそも私をこんな気にさせたのは貴女で自業自得です」

「なにそれ、全然わから――」

 

 ほとんど聞き取れないほどの吐息のような声。

 意味のわかる・・・・・・言葉に、わたしは黙った。

 

「ルイ……?」

「もう黙っていてください」


 綺麗な顔がふっと微笑んで下りてくる。 

 口を塞がれ、熱を帯びた指がわたしの襟元の結び目を解いた。



*****



 ――もう少し寝かせてあげてください。


 鐘の音と魔術師の声が遠くに聞こえて、まどろみからわずかに目を開けば、きちんと着替えた姿でいるらしい魔術師が二人の少女らしい人影になにか言付けているのが見える。

 彼が手配した使用人が来ている。

 流石にもう起きなきゃ……と思うのに怠くて瞼が動かない。


 一番最初ほどの衝撃はなかったものの、意味はわからないのに人を飜弄する言葉を囁きながら、意地悪く別の方法でも飜弄してくる人を悪徳好色魔術師と言わずしてなんと言おう。


 遠くから馬車でずっと移動していらしたのだもの、とひそひそわたしに同情を向けて話している少女の声が聞こえてくるけれど、彼女達にお世話してもらうのはとてもじゃないけど無理だ。

 まだ少し、心体どちらの余韻も尾を引いている。

 どうやら魔術師が配慮して、眠っている間に寝台やわたしの姿を取り繕ってくれているようなのに、いまのわたしの状態では初対面の彼女達に平静を維持していられる自信がない。


 も、もう一眠りだけ……。


 鐘と鐘の間で、胸焼けするほど酷く甘ったるい砂糖水に沈めて殺されそうな目に合ったので、安息日でもないのに大幅に寝過ごすこの怠惰を神様や精霊もきっと許してくださることだと思う。

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