第36話 毒を受けたなら器の底まで
――王妃様、王宮の皆様お元気でしょうか。
わたしは、いま、東部の都トゥルーズにいます。
夫、“竜を従える最強の魔術師”ことルイの提案で生まれ育ったユニ領へ向かう途中なのですが、どうやら彼はその道行きに各地を治めさせている集落の長や文官に妻のわたしを紹介がてら、領主としての彼の仕事まですべて片付けてしまうつもりでいるようです。
手始めに、防衛地区バランの国境沿いの十ヶ所の集落に施された防御魔術の補強を行いました。それもほぼ一日で――。
「見てください、奥様っ」
臨時雇いの侍女のマルテが、鳶色の目を輝かせて窓の外を見ながらまだ幼さが少し残る声を上げる。彼女はまだ十四歳の未成年。
この街にある魔術師が出資する孤児院で養育され、普段は貴族の上級使用人を目指し孤児院長の身の回りのお世話を手伝い行儀作法を教わっているらしい。
さしずめわたしのお世話は実技実習も兼ねてといったところ。
わたしなら多少粗相をしたところで、問題にはならない。
色白で、亜麻色の髪をしていて、とても孤児には見えない美少女だ。
あどけないのに一つ年上のリュシーより、どことなくしっとりした艶やかさがある。彼女なら中位上の貴族の家にも十分入れると思う。
「本当に、なんて綺麗……」
マルテに続いて、テレーズさんが声を上げる。
部屋付き小間使いについてくれた彼女は、わたしより五つ年上の二十四歳。
この宿の各部屋を整えるベテランのメイドであるらしい。
彼女の父親は統括組織に勤めている文官で、魔術師の口利きでこの高級宿に勤めているらしい。
テレーズさんは十五で成人してすぐトゥルーズの貴族街にある大店の店員と結婚したけれど、たった二年で夫と死別した。
別の町に商売に出た帰りに魔獣に襲われたそうだ。
再婚を周囲から勧められているけれど他の人と一緒になる気はなく、自立の道を選んで働いているらしい。
赤毛でどことなく悪戯っぽい光を浮かべる黒い瞳の、女性らしいふっくらした体つきをした女性で、たぶん同等以上の立場の男性の同僚どころか、下手したら顧客の貴族にも必要とあらば物怖じせず堂々と意見し相手を言い負かしてしまいそうな雰囲気がある。
寝台で半分まどろんでいた時は、わたしを気遣って声を落とし話す彼女達を急場凌ぎに手配された臨時雇いの少女二人と思っていたけれど、どちらも臨時雇いにして申し訳ないような、きちんと教育も行儀作法も身につけた二人だった。
「夜遅くにひっそり行われることがほとんどでしたから、孤児院では就寝時間後ので見られなくて……実は見たの初めてなのですけど!」
「そうなの?」
「ええ、ここ数年は。以前は昼間の時もありましたけれど、これほど光溢れるようなのは初めてですね」
興奮気味に話す二人に、胸の内でそうなのと再び呟く。
二人の目線の先、窓から見える青い空には例の銀色の円が輝き、かたかたと歯車のように動いている紋様が淡い光の粉を一帯にふりまいている。
トゥルーズの補強をしたら防御壁の魔術の仕上げをすると魔術師は言っていたから、おそらくこれが仕上げなのだろう。
街の中心である中央広場に淡い光が満ち、その光が空を覆うように波状に広がっていく様は、まるでこの街全体が来る春の祝福を受けているようだ。
街の人々のため息と歓声とその荘厳さに祈りを捧げる人もいるのだろう、それらが一つに重なったどよめきがこの宿の部屋にも聞こえてくる。
「補強ぐらいで……と言っていたけれど」
「奥様?」
「……なんでもないわ」
防御壁の魔術は、昔、フォート家の当主が施し代々の当主が補強を施してきたもの。その魔術は当主の魔力だけでは成り立つようなものではなく、国境一帯の土地が持つ力も利用しているらしい。
そしてそれは年々、弱まっている。
思っていたよりずっと弱まっていたと愚痴るような魔術師の呟きを思い出して、窓の外の歓声とは反対に眉を顰めてしまう。
テレーズさんの言葉通りなら……もしかすると例年より魔術師の魔力頼りで防御壁の魔術を成り立たせているのかも。
最初、魔術師は「補強ぐらいで」なんて言っていたけれど、昨晩は眠り落ちてしまった。今朝にはすっかり回復してはいたようだけれど……少なくとも、人を散々構うくらいには。
「わたしも外に見に行こうかしら?」
窓の側で、光を見上げている二人に呟く。
十ヶ所に施した魔術を繋いで作る防御壁――魔術のことはわからないけれど、どう見たって昨日驚いた記憶も新しい夕暮れの町以上の力が働いているとわかる。
どうせ彼の近くに確かめに行ったところで、あの胡散臭いまでに貴族然とした態度でいるのだろうけれど。
「いけません。おそらく人が集まって危険ですから、奥様がお部屋から出ることがないようにと旦那様から申し付けられております」
テレーズさんに止められて、そんな指示をしていそうだと思っていたけれどやっぱりとため息を吐く。
「旦那様のご活躍をお側で見られたいお気持ちはわかりますが……私では奥様をお守りできませんから」
マルテが気の毒そうに肩を落とす。
オドレイさんもシモンも午後までは自由時間でお休みだ。
少なくともどちらかが顔を出すか魔術師が戻ってくるまで、わたしはこの部屋から出られそうにない。
ここはフォート家の屋敷のような護りもない。
屋敷であっても、大丈夫だと判断するまで養生で部屋に閉じ込めようとした彼がここでそんな甘いはずがない。
あれ、でも……馬車の中同様、屋敷の護りが及ぶ魔術を口の中に施したのじゃなかった?
「どうしました?」
「え、いいえ……ああ、どうやら終わったようね」
街全体に広がり、まるで名残の粉雪のように降る銀色の光が、本当の儚い雪のように空中に溶けて消えていく。
これでおそらく、国境の防御壁は完全にその強度を取り戻したはずだ。
「旦那様は本当に、“最強の魔術師”にふさわしいお方ですね」
「竜を従え、かつての戦で敵の軍勢を退けこの国をお護りになったほどのお方ですもの」
「え? え、ええ……そうみたい、ね」
たしかにわたしもご本人と出会う前は、生きた伝説みたいなすごい人だとは思っていたけれど。
実在してるけど現実味がなかったわたしと比べて、彼女達は彼の領民である分ずっとずっと身近な英雄なのに違いない。
どこが、なにが、存在感のない領主様……?
め、めちゃくちゃ英雄視されてるじゃないの、あの悪徳好色魔術師!
そして不本意ながらその奥様なのよね、いまのわたしは。
「本当……頭痛い」
窓にそっと近づき、二人には聞こえないように口の中でぼやく。
中央広場は人だかりだ。
外面の良い彼が戻ってくるにはいましばらくかかるだろう。
フォート家の当主は代々、その研鑽を重ねた魔術を引き継いでいく。
いま見た光景は、最初に魔術を施した彼のご先祖様にも出来ないことかもしれない。
「別に、心配してじゃ……ないんだから」
――王妃様。
東の国境は彼の防御壁によって護られるでしょう。
王妃様は、わたしに彼について仰いました。
『色々とあれな人ではあるけれど、本当に、悪い人ではないのよ』と。
まったくもってその通りです。
『少し気難しいところはあるけれど、恐ろしいようなお話の人物とは思えないくらい、とても見目麗しくて誠実でお優しい方よ』とも。
いまは、少しは理解できます。
誠実かどうかはともかく、たしかに彼は優しいのかもしれません。
人には必要最低限の情報しか与えず、護衛は万一の保険程度で守られる気はなく、倒れるほど根を詰めて人に魔術を施したり直したり調べたり、薬を使う程自身を酷使して務めを行う。
全部、一人で抱え込んでいる。
まったく、ご自分になにかあったら残された者達がどうなるかと考えないのでしょうか。自信家にしても大領地を背負う領主様としてあまりに愚かで無茶が過ぎて、張り倒してやりたくなります。
王妃様。
王家の事情も絡んでいる以上、難しいことは百も承知ですけれど、わたしはいまも円満平穏な離婚を諦めてはおりません。
ですが、いつの間にか乗せられてしまった船はもう岸を離れてしまっているようです。あるいは、猛毒を受けたなら器の底まで飲み尽くしても同じといったところでしょうか。
きっと一人で抱え込むだけのものがあるのでしょう。
彼のご友人でもある王様や王妃様も、おそらく手は出せない。
それが薄っらとでも見えてきた以上、このまま放置するなんてとても出来そうにはありません――。
「お茶の用意をお願いできるかしら、お菓子だけでなく軽食も添えて」
「奥様、ですがあと一刻もすればお昼ですよ」
「それでは少し遅いの」
「遅い?」
「その分、お昼は軽くしてもいいから。魔術はとても疲れるものなのです。たとえ“竜を従える最強の魔術師”であってもね」
――王妃様。
わたしのような魔術のことも貴族社会のこともよくは知らない、平民あがりの娘にどこまで出来るかはわかりませんが。
彼が背負いこんでいるものに、しばらく付き合おうと思います。
彼――ルイが、この王国に必要な方であることは間違いないのですから――。
******
「なにを怒っているんですか?」
「――色々と」
戻ってきたルイににっこりと微笑んで見せれば、思い当たることはあるようで一仕事終えてきた夫に冷たいなどと言いながらゆるく首を振る。
そんな会話を交わしていたわたし達の背後から、まあ冷たいなんてとんでもないですよとテレーズさんがお茶の用意をのせた大盆を抱えてやってくる。
「おや、午前のお茶にしては随分と豪勢ですね」
「旦那様がお疲れになって戻られると仰って、奥様が」
「あんなの見せられたらそう思います」
無愛想に言って、テレーズさんにお菓子や軽食をテーブルに並べてもらい、私はお茶をカップに注ぐ。
「二人はいかがですか?」
「本来のお仕事も持っているのに、臨時雇いでよいのかしらと思うくらいです」
「では、二人とも明後日までお願いします」
ルイの言葉に、二人は承知しましたと返事をする。
人を勝手に試験官にしないで欲しいのだけど……とはいえ、フォート家には家政婦長に当たる人がいないから、女性使用人の雇用も統括も女主人であるわたしが担うことにはなる。
もしかして、わたしの奥様教育も兼ねていたりする?
それはすごくありそうだ……だってわたしは貴族の奥様となるための教育は受けていない。
考えてみたら、明日の統括官との挨拶も午後のお茶でよいと言われている。
お茶の歓待は、基本的に女主人の役目であるし。
侍女として王妃様の側に仕えていたから、貴族女性の社交は一通り知ってはいるつもりではあるし、領地運営の手伝いも父様の側で少しだけならしていたけれど、実際に女主人として仕事し振る舞うなんてことはさっぱりだもの。
「一体、わたしの帰省にかこつけて、どれだけのことをまとめて片付けようとしているの?」
「出来そうなことを、出来るだけってところですね」
小さなひき肉のパイを手に取りながら、しれっとルイが答える。
出来そうなことを、出来るだけ。
やっぱり、どうやらご自分の仕事だけではなさそうだ。
「きちんと説明して欲しいのですが」
「なにもかも説明してしまったら、貴女は貴女の考えでできないし面白くないでしょう」
「面白い面白くないといったことじゃないと思いますけどっ」
「そうですか? それになにも言わなくてもこうした用意をしてくださるじゃないですか」
クッキーを頬張りながら、思わず睨んでしまった。
つまりお手上げまでは、自分で考えて対処しろと。
トゥルーズは小さな王都みたいなもの、しかも彼の領地内で少々しくじっても後処理は他所と比べてずっとやり易い。
それに情報の漏れにくいこの宿を、公の振る舞いの実践場として選んでいる。
あとは外を楽しむくらいだけど、あくまで私的な散策だ。
一体、いつから予定に組み込んでいたのかしれないけれど、婚約期間が思い出される腹が立つほどの手回しの良さだ。
ちらりと部屋の端に控えている二人を見れば、わたし達の会話をなにか微笑ましいものに捉えているようで内心泣きたくなる。
そうね、臨時雇いとはいえ使用人を前に「この人は公爵家の奥方としての振る舞いを知らない人なので練習に来ている」なんて、表立って言えるわけがないものね。
そしてそんな事情を知らない二人には、単純にわたしがひたすら夫であるこの人のお仕事とお体を気遣っているようにしか見えないだろうし。
ルイのことも、妻を心配させないようはぐらかしつつ用意したお茶の気遣いを褒めているとしか見えないだろう。
「お心遣いいたみいります」
「本当に貴女は、まだ結婚して間もないのにあれもこれも飲み込みが良くて。色々と教え込みたくなりますねえ。マリーベル」
とても胡散臭い微笑みにほんの少し混じる思わせぶりな言葉の調子に、今朝のことを不意に思い出して口付けたお茶にむせそうになった。
んんっ、と動揺を抑えるために咳払いする。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……大丈夫です。大したことはありません」
「なによりです」
背負いこんでいるものに付き合うけれど……やっぱりこの人、悪徳!
気を取り直してお茶のカップを傾けると、そういえばそろそろ彼が顔を見せてもいい頃ですねとルイは言って薄く切ったパンにチーズを挟んだものを平らげる。
優雅でゆったりした様子でいるのに、いつの間にかお皿の上のものが大半片付いているのには感心してしまう。
「彼?」
「シモンですよ。午後まで自由時間といっても昼前にはくるでしょうから」
――シモン……。
小さく聞こえた声に、壁際へ視線を向ければそこにはマルテがいた。
前で組んだ両手を軽く握りしめるようにしているその様子。
そういえばシモンは……と思い出した時、部屋の扉を叩くとシモンが挨拶する声が聞こえてルイが入室の許可をだす。
「失礼します、旦那さ――」
――マルテ。
シモンは孤児で、この街のスリだった。
貧民街の悪い大人に縛られ、仕方なく彼の仕事をしていてルイに捕ると同時に助けられた。
その際、シモンが面倒を見ていた複数の孤児がルイが出資する孤児院に引き取られている。
「昼の前に少々出掛けます。オドレイは用事に出しているので代わりを」
「なん……あ、はい。かしこまりました」
出かかった疑問を飲み込んだ形でルイに応え、従僕としての姿勢を立て直し、逃げるように男性用の支度部屋へと行ってしまったシモンにやれやれといった様子で目を伏せてルイがお茶を口に運ぶ。
壁際へ再び目を向ければ、表情に出さないようにしているけれど、明らかに落胆して肩を落としているマルテの姿がある。
どうやら、わたしの奥様教育の他もあるみたい?
「貴女も来ますか、マリーベル?」
「どちらへ?」
「またすぐお昼ですから、散歩です」
いや、どうやらこれは彼によるわたしへの課題らしい。
そう理解して、わたしは頷いた。
たしかに、ルイに付き合うことにはしたけれど――。
フォート家の使用人についても色々と面倒な事情を処理していそうだし。
まったくもって、毒を受けたなら器の底までな気分だ。
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