第69話 認識の違い
父様、お祖母様――お元気でいらっしゃいますでしょうか。
ユニ家から扉一枚向こうのフォート家に戻り、早くもふた月が過ぎようとしています。
それにしても行きは十日以上かかり、帰りは一瞬。
その後もすぐに行き来ができるって、なんだか妙なものですね。
それはともかく。
父様はもう二度ほどお会いしているから知ってらっしゃる通り、フォート家に戻って早々公爵夫人に相応しい貴族の奥方たる振る舞いと教養を身につけるべく、元男爵令嬢な教育係のヴェルレーヌの指導の下、日課と課題に取り組む日々を送っています。
我ながら、結構、頑張っていると思うの。
フォート家の年長組な使用人の方達を名前だけで呼ぶのにもようやく慣れて、先日はバラン地区の統括官ムルト様に立ち居振る舞いを褒められましたし、器楽もなんとか恥をかかない程度には……一曲だけですけれど。
新しく入った侍女見習いのマルテもフォート家の屋敷に馴染んできました。
また、初日から、十年前からいる人のようだと皆が皆、その違和感のなさに首を捻った家政婦長のテレーズが屋敷の中をばりばり切り回してくれています。
おかげで家令のフェリシアンの負担が随分減っているようで、なにやらものすごい勢いで王都と西部のあれやこれやに手を回している気配を感じるのですが、大丈夫でしょうか……大丈夫ですよね?
父様がなにも仰ってこないうちは、大丈夫ということにしておきます。
とりあえず……モンフォール家への制裁とユニ家への賠償として、モンフォール領の境界線が見直されて、ユニ領に隣接していたドルー家の敷地を含む一部の外れの土地がユニ領へと組み込まれ、穀物畑の一部が王家寄りの他領へ移ったことは聞きました。
父様が修められた法科院はただの法律を学ぶ高等学院なのかと思ったら、これまたものすごく権威のある組織であるとか……わたし知りませんでした。
さて、課題や日課は大変なものの、ここ二ヶ月ばかりは平穏そのものとすっかり油断していたのですが。
やはりここはフォート家、悪と……いえ魔術師の屋敷です。
ええ――どういったわけか以前わたしを精霊の世界へ連れていこうとした、フォート家の守護精霊である蔓バラ姫が再び現れたのです。
何故か、わたしのことを姫さまと呼んで。
何故か、わたしから離れてもくれず。
いいえ、ごめんなさい父様。正確さを欠いておりました。
姫さまと呼ばれるのは、どうやら彼女から見ればどんなに代替わりしようが“ヴァンサンの子”。
つまりは偉大なるヴァンサン王の息子の子孫なルイと、気持ちも通わせ名実共に妻となったわたしは、ヴァンサン王の義理の娘も同然となるらしく姫さまということらしいです。
精霊の主張はよくわかりませんが、たぶん。
精霊の視点でそうだといわれたらそうなのでしょうけれど、だとすると実父である父様に、人間の貴族の養父様と、人間かなにかよくわからない伝説の王である舅と、わたしには三人の父がいることになってしまいます。
いくらなんでも父が多過ぎです。
本当に……。
精霊、よくわからない――。
そのようなわけで、相変わらずルイとフォート家周辺の諸々に翻弄されております。
色々と戸惑うことや腹立つこともあるけれど、わたしは元気です。
近く王都へ行く前に、父様やお祖母様のところへご挨拶に伺いますね。
「――ま、その前にこの方なんとかしないとだけれど」
ちょっと現実逃避で実家へのお手紙など頭の中で考えてしまった。
精霊、本当によくわからない。
場所を音楽室からサロンへと移しても、わたしの腕にひっついたまま離れてくれない蔓バラ姫を見下ろしてひっそりと息を吐くと、窓を背にした
出入口の扉がある壁際に、ルイに呼ばれたフェリシアンとオドレイが控えている。
ようやく呼び捨てるのに慣れてきた自分より年上の二人を見て、ここにはいないもう一人のことも考えた。
フォート家には、人外の血に繋がる使用人が三人いる。
フェリシアンは、魚の精霊の血を引く先祖返り。
オドレイは、竜の血の影響を受けてた先祖返り。
そして、森の神の使い、人の姿をとる
「まったく。主違いはいいとして、忌々しい魔物の目を持つ者までどうしているのかしら」
「オドレイはフォート家の、ルイの従者ですよ」
わたしのすぐ側からオドレイを睨み付けて文句を口にする蔓バラ姫を、フォート家の奥方としてたしなめれば、知ってるわと彼女は肩を竦めた。
主違い……とは、たぶんフェリシアンが水の精霊の眷属である魚の精霊の子孫であることを言っているのだろう。
蔓バラ姫は、地の精霊の眷属であるらしいから。
テーブルを間に置いて、真向かいに
黙っているけれど、大変にご機嫌が悪い。
その麗しいお姿から暗黒の
ルイがそんななのに、蔓バラ姫はお構いなしだ。
「竜って好きじゃないの。毒もあるし火も吹くし、爪や翼も鋭くて、嫌な人間を引き付けて周囲をめちゃくちゃにするのですもの」
オドレイは人語を解する古の竜の血を飲んだ“荒くれ男”という言い伝えの男の子孫であって、竜ではなく人間なのだけれど……蔓バラ姫にとってはどうでもよいことらしい。
そんな蔓バラ姫の言葉など意に介す様子もなく、静かに控えているオドレイは使用人の鑑だと思う。
まるでまったく聞こえていないかのようだ。
「それに、あなたをこちら側へ連れて行くのも邪魔してくれたし」
ぶつくさ文句を言いながら、バラの花弁の砂糖漬けを乗せてバラのジャムが練り込んでもあるらしい綺麗な色をした焼菓子へと片腕を伸ばし、手に掴んだそれを食べはじめた蔓バラ姫に思わずじっと彼女を見詰めてしまう。
彼女はたしか蔓バラの精霊なのでは?
共食いにならないのかしら?
「なあに?」
「いえ、バラを材料に使ったものですけれど」
「お菓子になっちゃったものは仕方がないもの」
そうなの?
精霊、本当によくわからない。
普通に客人として招かれたようになっている、傍若無人かつ無邪気に振る舞う蔓バラ姫に、その瞳のない目さえなければ、本当にただ親しい身内のご令嬢が遊びにやってきたみたいだわと思いながら密かに苦悩する。
彼等を理解しようとするだけ無駄ですと、黙っていたルイが口を開いてわたしを慮った。
「ま、随分ね」
「貴女こそ……一体、いつまで人の妻にべったりとひっついているんですか」
「あら、“羨ましい”の?」
「はっ、まさか。私は彼女の“夫”ですから」
「……二人共」
なに子供の喧嘩みたいなことを……。
思わず額を押さえてがっくりうなだれてしまう。
そもそも、このお菓子が用意させたの……これ、ルイの指示よね。
なんて地味な嫌がらせなの。
四十間近の殿方が、大人気ない。
「それはそうと、マリーベル」
「はい」
ルイに呼びかけられて返事をすれば、彼はわずかに顎先を動かし蔓バラ姫を指した。
普通ならそんな失礼な態度、絶対にする人ではないのに。
「この、蔓バラ姫などというその名相応の品位の欠片もなく、無遠慮に菓子を食べている守護精霊について――」
お言葉に大変刺があるけれど、蔓バラ姫はそんな人間の基準なんて知らないわっと歯牙にも掛けない様子でいる。
いえ、なんとなく彼に対抗するように彼女もつんと澄ました顔を斜め上に持ち上げているからそうでもないのかもしれない。
とにかくこの二人が張り合っているのに付き合っても仕方がないので、気にしないことにした。
そもそもフォート家で細かいことを気にしていたらきりがない。
「貴女は彼女のこと、最初からどのように見えていましたか?」
「どのようにって?」
「姿形のことです」
それは。
鮮やかな紅色のドレスを着て、波打つ金髪の長い髪の暁色を称えた瞳のない目をした美女――そう答えれば、やはりとルイはため息を吐いた。
「なに? どうしたの?」
「蔓バラ姫とのやりとりで“
「ルイ?」
「いいですか。先程、音楽室で精霊博士のことを話したでしょう? 精霊の姿がはっきり見えたり彼らの声を聴けたりするような人はいまや滅多にいません」
気配に敏感な者や精霊の血を引いている者ならうっすら気配を感じたり、空耳のような声を聞く者もいますが……と言ったルイに、それって普通の精霊の話ですよねとわたしは首を傾げた。
「だって、彼女はフォート家が小国王家の頃から付き合いのある古精霊で、ああ見えて大変に強力な精霊で多くの眷属を持ち、人の目で見える形に姿も取れますって言っていませんでした?」
「“ああ見えて”ってどういうことよ、ヴァンサンの子!」
「言葉通りですよ」
そう、言葉通りです。
一度目は蔓バラ姫に、二度目はわたしに向かって繰り返したルイの、その神妙な面持ちにわたしはなにと呟く。
「そこに最初の認識の違いがあった……ええたしかに私の目にも彼女の姿は見えはします。茜色と金色が混じったような人の形を取るもやもやした光の塊の姿で」
「え?」
「声も。聞けるのは、蔓バラ姫が自らそのように接触してきた時か、精霊の領域内か、あるいは彼女がいると感知して彼等と対話をするための魔術を施すか」
ルイの言葉に驚いて目を見開いた時、背後であの……とオドレイの声がして、振り返れば彼女は小さく手をあげていた。
「私も奥様と同じように見えますが……」
「ええ、竜の目であればそうでしょうね」
見れば、オドレイの瞳が赤く、黒十字の竜の光彩が出ていた。
本当、血の色をした嫌な目と、ようやくわたしの腕を離してお茶を飲んでいる蔓バラ姫が不快げに呟く。
「では、声は? 聞こえますか?」
「いいえ」
「え!?」
ルイの問いかけに答えたオドレイの言葉に、思わずサロン全体に響くような声を上げてしまった。
さっき、竜と彼女への文句を並び立てていた蔓バラ姫に対して平然とした様子でいたのは、まるで聞こえていないようではなくて、本当に聞こえていなかったということ!?
「あの……ルイ……」
「つまりそういうことです。あの事件の最初から、蔓バラ姫の姿を具体的にはっきりと見て、その言葉を聞いて話しているのは貴女一人だけなのですよ、マリーベル」
「でもそれって……」
蔓バラ姫の姿も声もはっきり見て聞いていたのはわたしだけ。
ルイですら、きちんと見えてはいなかった?
そういえば、わたしも彼と話していてなんだかおかしいなと思ったことはあった。
――それはそうと、いくら普通の人にも見えるとはいえよく蔓バラ姫に近づこうと思いましたねぇあなたも。
そりゃそうだ。
人の形をとったもやもやの光だなんて怪し過ぎて、普通は怖くて近づけない。
――それに、あの
これも、ルイにとってはそりゃ人とは違うだろう。
人の形をとるもやもやの光だもの。
でもそれって――。
「ああ、慌てず最後まで聞いてください。とはいえ、私も貴女と同様のことを考えて一瞬焦りましたが。おそらくは違います」
「どういうこと?」
「蔓バラ姫と会う前に他に人外らしきものを見て声を聞いたことは?」
「いいえ、ありません」
問われてわたしは首を横に振った。
「蔓バラ姫と会って以降、彼女の他に人外らしき姿を見て声を聞いたことは?」
「いいえ、ないです」
これも先程同様に首を横に振る。
「ということは、蔓バラ姫限定になります。貴女は勝手にこの精霊に気に入られて縁づけられただけ。要は勝手に懐かれただけです」
「懐かれた?」
「乳児や小さな子供が多いのですけどね、こういうの。大人が訝しむ“その子供しか知らない、他の誰も見えていないお友達”。そのような話が巷にあるのを聞いたことは?」
「……なんとなくなら」
「そういったものです。ですからその考えは杞憂です」
なるほど。
だから、ルイは紛らわしいと言ったのか。
どうやらあの言葉は、わたしにではなく蔓バラ姫に対してだったようだ。
誤解を生じさせるようなことをするなといった非難を込めた。
なにせ精霊の姿を見て言葉を交わせる――そんな希少人材である精霊博士は王家の管理下。
ルイはそのことを即座に心配したに違いない。
たしかにルイの言う通りだ。
彼に答えた通り。
蔓バラ姫に会うまで、精霊なんて完全にお伽話も同然なものだったもの。
それに蔓バラ姫以外の精霊の姿や声どころか、気配すら感じたことはない。
ふと蔓バラ姫を見れば、自分は完全無関係といった様子でうっとり目を細めてお茶をすすっている。
本当に……精霊の神経というか思考回路、わからない。
「ん? ということは……」
ルイの目には、茜色と金色が混じったような人の形を取る光のもやもやが焼菓子を食べたりお茶を飲んだりしているということよね?
「不気味すぎる……」
「ええ、通常ならばまったくもって」
わたしの考えを読み取ったらしく、ルイが頷く。
「いまは違うの?」
「いまは貴女と同じように見えて聞こえもしますよ、マリーベル」
「なんだか不便そうだから、彼女と同じ扱いにしてあげただけよ」
「それはどうも。光栄です」
そうなのか。
それにしてもわたし彼女に懐かれる覚えないのだけれど。
精霊って本当にわからない。
まあそれをいうならルイもだけれど。
魔術師もよくわからない。
「別にヴァンサンの子のことは、嫌いなわけじゃないもの」
「精霊に好かれても、あまりうれしくありませんけれどね」
「まっ! 日頃、私たちを散々利用しているくせにっ」
「ですが、嫌いじゃないのでしょう? 私のこと」
その会話だけを切り取って聞けば。
女性の好意を食い物にしている、とてもひどい屑男みたいに思えるわ……ルイ。
「それに、鈍感などと言われるのは少々心外です。そもそもいまどき精霊を感知できる者の方が少ないのですよ」
「そうね。魔術師ですら私たちのことは思い浮かべもしないものね。嘆かわしいわ……昔はそんなのじゃなかったのに」
ふんっと、ルイの言葉を鼻であしらうように蔓バラ姫は口元を吊り上げ、そしてわたしを意味ありげな表情でじっと見つめてから再びルイへと目を移した。
瞳がないからいまひとつわかりにくいけれど、たぶんそうだと思う。
「それはそうと、色々と頑張っているようじゃないの」
「……ええ」
「少しばかり薄まったかもってところだけれど」
「やはり……回避は不完全ですか」
「まあ、ね。いまのところはね」
蔓バラ姫は何故か、わたしを見てにっこりと微笑む。
美女の凄みのある婉然とした笑みだった。
なんの話だろうと思ったら、フォート家の“祝福”回避儀式のことのようだ。
フォート家の当主の妻と子にかかるその影響を、最小限にまで抑え込むための。
「しかし、守護精霊である貴女からその言葉を聞けただけ、僥倖と思うことにしましょう」
足を組んだ膝の上でルイは指を組み合わせ、蔓バラ姫にようやく微笑みを向ける。
けれど僥倖と言いつつ、あまりうれしそうではなかった。
表面はいつもの穏やかで平然とした様子を取り戻したけれど、むしろ、少しばかり薄まった程度かと落胆の影さえ窺える。
「少なくとも有効ではある、ということなのですから」
そしてその言葉は蔓バラ姫にというよりは、彼自身に言い聞かせているようにわたしには聞こえた。
「ところで、蔓バラ姫」
「なあに?」
「下手に排除してまた騒動を起こされてもですから、結界で締め出すのは止していましたが。誇り高き古精霊の貴女がなにをしに現れたのです?」
「別になにも。その子が私を思い浮かべてくれたから来ただけよ」
「は?」
「私たちのことを思い出してくれるような人間なんて……そんなにいないもの」
いつだって私たちはよき隣人のつもりでいるのに。
肩をすくめて、また薔薇の花弁の砂糖漬けをのせた焼菓子を蔓バラ姫は頬張った。
どうやら、お気に召したようだ……。
「マリーベル?」
じろりとこちらを見た、ルイの目が若干怖い。
「た、たしかに……さっきルイと話している間で彼女のこと思い出しはしました」
でも、たったそれだけで?
「この姿で、具体的に?」
「えっと……はい、たぶん」
答えれば、まったく……と、ルイは眉間を摘むように押さえてぼやく。
「迷惑なことに貴女に懐いているようで、彼女の力にも触れているようですから、あれこれ具体的に彼女を思い描くのは呼びかけているのも同じです」
「そんな、呼んでいませんっ」
「ま、失礼ね」
「あ……そんな大それたことは思わないって意味で……」
「別にいいわ。それにちょっと気にもなってもいたの。傷つけるつもりはなかったのよ、私。本当よ」
急に、萎れたようにしょんぼりと蔓バラ姫はうなだれて、瞳がないからやっぱりいまひとつよくわからないけれど、たぶんわたしを上目に見て以前精霊の世界に攫おうとしたことをひどく反省しているらしいのに、なんとなく呆れた思いで彼女を見た。
「もうああいったことをしないなら、別にいいけれど」
「しばらく倒れていたのでしょう?」
「倒れてたといいますか……」
ただ眠っていただけであるし、目が覚めたあとについてはルイが過剰なまでに心配して、ほぼ強制的に療養させられていただけだ。
「だってあなた達ってとても儚いじゃない。だからお詫びをしなければって」
「お詫び……?」
わたしの問いかけに、蔓バラ姫がにっこりとうれしそうに微笑み、口にした言葉にルイが心底驚いたように目を見開いて息を呑む。
「ええ、
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