第67話 囁きは甘く無慈悲な夜の魔王

 おかしい。

 フェリシアンさんの忠告通り、ルイに愚痴は言っていないのだけれど。

 ただ、ルイと顔を合わせたら、午前中に聞いた音色が素敵でまた聞かせて欲しい、と伝えようと思っていたから主寝室に現れた彼にそう言っただけで――。


「あの、えーと……ルイ……?」


 おかしい。

 ルイは、本当についいましがた主寝室にやってきたばかり。今日は朝食を済ませてから一度も彼の姿を見ていない。

 現れた彼のややお疲れな様子に、長椅子ソファで本を読んでいたわたしは就寝前のお茶として用意されているハーブティをすすめながら話しかけたところで。


「お疲れ……ですよね?」

「そんなことはいま問題ではありません」


 おかしい。

 何故、わたしの両頬を両手に包んで、熱っぽさを滲ませた眼差しで見つめてくるのか。ハーブティーはいつぞやの怪しいものではなく、ただ神経を緩める普通のお茶のはず。

 そもそも飲んでもいない。

 わたしがお茶を勧めてもぼんやり立っているものだから、大丈夫かしらとわたしも立って彼のそばに近寄っただけなのに……。


「マリーベル……」


 しっとりと唇が重なり、寝間着の上に羽織っていたものをするりと脱がされ長椅子ソファの上に落とされた。


「ちょっ、ちょっと待って……っ」


 口付けたまま、わたしを抱えて寝台ベッドへ運ぼうとしたルイを止めた。

 何故なら、午前中にヴィオーレの演奏後、彼は日中ずっと庭にいて太陽の光と熱の力を凝固させた固形燃料を日が傾くまで作り続けていたとリュシーやマルテから聞いている。

 例年、夏の間に作って備蓄しているらしいけれど、危ないからと人を寄せつけずに黙々と魔術を使って作業していたらしい。


「お疲れの時はきちんと休んでほしいのですけど……」

「ええ、そのつもりでいましたよ」


 日が傾きはじめてからは、シモンに軽食を運ばせて自室にこもって魔術研究に勤しんでいた。

 わたしの習熟度合いが気になるのか、毎日様子を見に来ていたヴェルレーヌの講義も顔を出さず、夕食の席にもいらっしゃらない根の詰めようで。 

 だから、問題ないはずがなくお疲れのはず。

 

「だったらっ」

「顔を合わせるなり人の心をかき乱して、随分と勝手なことを言う」

「あの、ちょっと意味がわからな……」


 言い終わらないうちに、再び唇を塞がれた。

 角度を変えて啄みながら深くなっていく口付けに、急にどうしたのと思いながらも体の内側に甘い痺れが波紋のように広がって力が抜けそうになる。


「マリーベル……」

「……ルイ?」


 唇を離しながら名前を囁かれて、わたしは彼の顔を見た。

 青味の増した灰色の瞳と同じくらい、きっとわたしも熱に潤んだみたいな目で彼を見てしまっているだろう。

 気がつけば。

 いつの間にか寝台の上に運ばれ、押し倒された格好になっていて。

 ルイはルイで、ご自分が羽織っていたガウンを脱いで寝台の足元の側へと放り投げ、素肌にゆったりと緩いシャツを羽織った姿になっている。

 いまやルイにこうして迫られても、以前のように反射的に逃げたくなるようなことはないのだけれど。

 ユニ家から、フォート家に戻ってひと月程。

 一番変わったのは、おそらくこうした自分だと思う。

 まあ逃げようとしたところで、逃げられなくなってもいるのだけれど……。

 

「あの、本当に……どうしたの……?」

「なにが?」


 すらりと指の長いやや骨張った手の指先が、わたしの唇にそれ以上なにか言うのを止めさせるように触れる。

 彼が女性も羨む長い睫毛を伏せるのを見て、あ、だめ……と反射的に胸の内で呟いた。さっきよりもずっと深い口付けに頭がぼうっとしてくる。

 ルイを強く拒めない……むしろ応じてしまう。

 じわりと痺れを感じる指先を伸ばして彼の首に腕を回せば、いよいよ口づけは貪欲さを増して、互いの舌がもつれ合う音がし始める。


 ああだめ……力抜けちゃう。

 そう思った時には、ルイの首に回していたはずの腕はぱたりと寝具の上に落ちていた。


「……ルイ」


 ため息がこぼれる。

 銀色の……綺麗な髪がまっすぐに落ちてわたしの頬をくすぐり、真上からわたしを見下ろしているルイになんだか胸が一杯になってしまう。


「……お疲れのはず、ですよね?」

「まだ、言いますか」


 ふっと苦笑に目を細めたルイの表情に、なんだか締め付けられるような切なさを覚えて、再び手を伸ばして彼の額から落ちてきている銀色の髪をすくって、耳の後ろへ撫で付けた。

 わたしの傾き始めた理性を見透かすルイの言葉にどきどきする。


「だって……」


 それでもルイを止めようとすれば、彼に触れている片手を取られて口元へ引き寄せられた。

 指先に口づけ、時折、悪戯のようにちろりと舌先で曲げた指の関節を舐めるルイの表情のあまりの淫靡さにくらくらする。

 無駄に麗しいお顔はこういった時、もはや凶器だ。

 彼の顔が降りてきて左耳を軽く食まれて、やっ……と甘えるような声と吐息が漏れた。


「嫌?」


 わたしをすっかり組み伏せて、そんなことを囁いてくるルイが少しだけ恨めしい。

 ルイはわたしの言質を取りながら進めるのが好きだ。

 たぶん、好きだと思う。

 往生際の悪い抵抗で、わたしは固く口元を引き結ぶ。

 そんなことをしてもきっと無駄で、ますます彼は意地の悪いことをしてくると知らないわけでもないのに。


「その、自分でも無駄な抵抗とわかっていて抗おうとするところ嫌いじゃないですよ、マリーベル」


 右頬を包む熱い手には、とっくに気がついてる。

 わたしも頬が熱くなってる。


「本当に疲れていない……?」

「しつこいですね、貴女も」


 固形燃料は魔術具だ。

 魔術具は使う時は魔力を必要としないけれど、作る時は魔力を必要とする。

 日中、作り続けていたのなら、それなりに消耗しているはず。


「だって……」

「ならやはり寝ましょうか?」


 甘く囁きながら、薄い笑みを浮かべるルイはかなり意地が悪い。

 待つようにわたしを見下ろしている眼差しに根負けし……キスしてとわたしがルイに囁けば、噛みつくように唇を奪われて。

 わたしは彼の頭を、さらさらの髪に指を差し入れて抱きしめた。


「嫌なら止めますよ……」


 もっと触れて欲しい、溶けてしまうくらいに。 

 そう、思うようにしておいて……本当に狡猾な魔王だ。


*****


 本当に……魔王だ。

 指先一つも動かせないほどぐったりとなったわたしを、ゆるやかに抱き締めているルイにそう思う。

 

「もう……だめだから……っ」

「心配せずともこれ以上は。少々意地の悪いことをしましたか……」


 少々意地悪どころじゃない、嫌なら止めるって言ったのに。

 まったくだと思いつつ、わたしの髪を撫でながらため息を吐いて謝ってきたルイになんとなくやり切れない気持ちにもなる。

 彼の生い立ちやわたし達がこうなるまでの経緯があるだけに。

 きちんと眠ってねと伝えれば彼は苦笑した。

 普段の彼が、それほど深く眠らないことにはもう気がついている。

 まだ子供の歳で大領地を抱えるフォート家の当主になって、きっと色々と危険な目にもあったに違いない。眠っても、彼が警戒を解くことはない。

 

「ちゃんと眠って……」

「わかっていますよ」


 うとうとしてしまって、半ば夢の中。

 朦朧としながらルイにそう言ったのが限界だった。

 彼がおやすみと囁く声を聞いたところまでは覚えている。

 ぐらりと眩暈を起こして体が傾ぐような、意識の奥底を揺さぶられるような感覚に襲われた気もしたけれど、きっと深い眠りに急速に落ちてしまったからに違いない。

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