挿話 報告と祝い・前編 

 すっかり貴族の令嬢らしくなられたな……いや、ご夫人であるのだが。

 出会ったのはほんの二ヶ月程前、その時は礼儀はきちんと身につけ、振る舞いを弁えた良い家のお嬢さんといった印象だった。

 年頃は二十歳位で立派な大人の女性であるし、しかも東部大領地を治める領主の妻である公爵夫人でもある。あまりお嬢さんといった扱いも失礼になるだろうが、如何せん本人の初々しくも可愛らしく溌剌とした雰囲気がどうしても先立つ。


「どうかされましたか、ムルト様?」

「いえ」


 明るい声に応じて、差し出されたお茶の入ったカップを見下ろす。

 しかしそれにしても――。 

 お茶を差し出すその指先まで神経の行き届いた所作といい、通された応接間に現れた際の立ち居振る舞いの優雅さといい、以前に会った時とは段違い。

 この短期間にこれだけの変化は、本人の相当な努力なくして成り立つものではない。


 実に、健気だ。


 西部小領地の領主の娘ではあっても平民階級出身で貴族の家に嫁ぐなど、それだけでも苦労は多かろうに。あろうことか王家と対等に近いほど無駄に家格が高く、貴族社会の中で独自の立ち位置を保つ魔術の家系のフォート家である。


「よい香りです。公爵夫人はお茶を入れるのがとても上手だ」

「王妃様にお仕えしていましたから多少慣れているだけで、大袈裟です」


 謙遜するが、実際、お世辞ではなく口にすれば香り高く旨い。

 たしか……王妃の元第一侍女だったか。

 もともとは王宮の行儀見習いだったところを抜擢されたらしいが、この若さとその家柄経歴も含め異例中の異例のことだ。

 王宮は、小娘の小細工がいつまでも通用するような生易しい場所ではない。

 王族に仕えて、丸二年以上もその役目を果たしていたのなら実力は本物だろう。

 

 本当に……あの男はどうして。

 

「それにしても申し訳ありません。トゥルーズやモンフォールの報告で、夫と約束していたのでしょう?」


 たしかにその通りではあるのだが、時間まで決めていたわけではない。 

 夏に王都へ出るまでは屋敷にいるから適当に報告しに来いと言われていて、礼儀上、日程を事前に打診し了解されて来たというだけである。

 そもそもあの男は、これは多少雑に扱っていいと見た相手には至極いい加減なのだ。

 あの男がそのように認定すること自体が稀ではあるため、一応、あの男、東部大領地ロタール公爵領を治める我らが領主にして防衛地区バランの指揮権を持つ辺境伯であるルイ・メナージュ・ヴァンサン・ラ・フォートに仕える、バラン地区統括官としてはそれだけ信頼されていて光栄なことなのかもしれないが。

 ごく個人的な感情論でいえば、地位と財力と能力と容姿の良さで勝手放題しているすかした大貴族。偏屈者の規格外魔術師に信頼されたところで、迷惑以外のなにものでもない。


「あの、怒っていらっしゃいますよね?」

「いえ。時間を決めた約束ではないので貴女様が気に病む必要はない、公爵夫人。それに魔獣の害での不在では仕方がない」

「そう仰っていただけると。お茶の時間までには戻ると言っていましたから、間も無くと思うのですが……」


 なんでも昨晩、ここから馬車で二刻ほどの集落から魔狼の害の知らせが入って出掛けたらしい。

 年明けて一ヶ月近く、このバラン地区を中心に魔物や精霊の害が頻発していた時期がありあの男が対処して収束したはずだが、まだ余波があるのだろうか。


 元七小国の一つ、偉大なるヴァンサン王が治めたとされる東の国とほぼ重なるこのロタール領は魔物の生息地やいまとなっては珍しくなりつつある精霊の領域が数多く存在する。

 領内において広大な範囲を占める森林地帯が、北部や東部の他領と異なり資源として活用され土地が切り開かれることもなくほとんど手付かずになっているのはそのためだ。

 ヴァンサン王の末裔であるとされるフォート家が、人外から引き受けた場所。

 ヒトが活用できる範囲はごくわずかに限られており、その範囲は領主の厳命として守られている。


 他領にとっては馬鹿馬鹿しいとされるかもしれないが、実際、魔物は時折現れるため領民は人外の存在を大いに畏怖していると同時に、彼等をも説得し従わせることができる魔術師である我らが領主に絶大なる信頼も寄せている。

 もともと代々領主家として賢明な統治を行ってきたフォート家は、領民に慕われていた。


 取締りも、他領の者が勝手に木を切り倒したり魔物狩りをしたりといったことへの対処が多い。

 人外の存在の怒りを買えば、本気で大事になるのだ。

 直接知っている事件では、他領の者が竜の棲家を荒らしただけでなく年若い竜を欺いて傷つけたことで、領内に竜の毒による病が蔓延しかかった。

 七日かけてあの男が毒消しの対処に回って収まったものの、愕然とする数の犠牲者がでた。

 一獲千金狙いの単純な魔獣狩り程度ではそのようなことにはならないのだが、放置しているとうっかり人外の領域を犯して怒りに触れることをしでかす者が出かねないので取締まっている。


「あの……ムルト様?」


 私が黙っていたからだろう。

 正面に座ってあの男が現れるまで私の相手をしてくれている公爵夫人こと、マリーベル・ド・トゥール・ユニ嬢が、そのきらきらと利発そうな明るい緑色の瞳の目でじっと私を心配そうに見詰めているのに気がついて、これはいかんと軽く咳払いをした。


 バラン地区の統括官とはいえ、所詮は領地運営の一介の事務官で平民階級でいる私のことなど、使用人に応対をまかせて放置しておけばよいものを。

 こうして客人としてもてなしてくれる気遣いをみせる可憐な公爵夫人に気詰まりな思いをさせては、男としても元騎士団員としても名折れだ。


「どうぞ、私のことは気になさらず。申し訳ない、自分で申告するのもだが寡黙の質で、部下からもなにもないのに叱責されると恐れられ……あの男などだから私には女性が寄り付かないのだなどと……い、いやっこれではただの愚痴だ、そうではなく……」


 ふふふ、くすくすくす……と、小さな鈴を鳴らすような笑い声が聞こえて、正面の彼女を見れば口元に手を添えて腹を抱える勢いで笑っている。


「ご、ごめんなさいっ……わたくしも緊張していたものですから、ふふふっ」


 なんでも公爵夫人となって、初めて身内以外で屋敷に迎えた客人であったらしい。


「ええと、その……わたくしが元は貴族令嬢ではないことはムルト様もご存知ですよね?」

「ええ、まあ」

「夏の王都の社交前に、きちんと公爵夫人として振る舞えるように特訓中で……なにか失礼をしているのではないかと。でもよく考えてみたらお客様のことより自分の振る舞いのことを心配しているのも失礼ですね」

「ああ……いえ。それならばまったく心配は無用というもの。むしろ以前にトゥルーズでお見かけした時と比べ見違えるようだと感心していたくらいで。それに私はあの男に仕えている身で、一応の友人でもある。それほど畏まる必要も……」


 はあっ、と大きなため息の声がして見れば両手を胸に彼女はほっとしたような表情を見せていた。


「本当のことを言えばまだ慣れなくて……肩が凝ります。あ、これはわたくしも愚痴ですね……おあいこです。あの、ルイのご友人なのですよね。それならムルト様もそんなに畏まらないでくださいませんか?」


 にっこりと微笑んで肩の力を抜いた様子は、実に可憐だ。

 正直、あの男にこの令嬢は勿体ない。


 普通なら、公爵夫人といったその地位に有頂天になりそうなものをそんな気配も欠片もなく、悪漢から使用人を庇う覚悟もあれば、身分差婚であるに偏屈者の夫に唯々諾々と従うでもなく毅然と意見するような気概も持っている。


 所謂、美女といったわけではないものの目鼻立ちの均整はとれた、きらめくような明るい緑色の瞳のぱっちり開いた眼差しが印象的で、このような妻が側にいるだけでさぞ気分が晴れるだろうと思える魅力を持っている。


 少女めいた顔立ちであるのに、上品に結ばれている小さな薔薇色の唇だけが妙に肉感的で、貞淑そうに結い上げられた栗色の髪は艶やかで……。


 庇護欲をそそられるというのは、こういったことなのだろうか。

 その華奢でいながらも女性らしい柔らかさを感じさせる姿は、男なら抱き締めて髪を撫で口付けたくなるような……いや、人の妻になにを考えているのだ私は。

 しかし、本当に、あの気儘な偏屈者の規格外魔術師には勿体なさ過ぎる!


 こと恋愛に関しては爛れた噂しかなかった男が最終的に選んだのが、この初々しくも可憐な魅力を持つ、若く可愛らしくもしっかりした芯を持つ令嬢かと思うと、同じ男として歯軋りするような腹立たしさを覚える。

 天は何故あの男にばかりあれこれと恩恵を与えるのか。

 恩恵に相当するだけの試練や重くのしかかるようなものも与えてはいるが、それにしたって納得がいかない。

 

「それに、その……ムルト様は本来わたくしに畏まるような方では……」


 彼女の言葉に、王族の末端にいる者の庶子である私の出自を話したのかあの男めと思った。

 だが、それだけあの男が本気で気を許しているということだ。

 あの男は用心深く余計なことは言わないし、基本的に自身にも他人にも冷淡である。

 冷淡なくらいでなければ、あの規格外の力に翻弄されてしまうものかもしれないが。


「いや、その事なら本当に気遣いは無用です。だが、そう仰るなら……マリーベル様と名前でお呼びしても?」


 それくらいいいだろう。

 一応の友人の妻なのだから。


「ええ、もちろんです。名前だけでも」

「私はあくまで平民の一介の事務官の身、流石にそれは立場上憚られる」

「はあ。でも宮廷魔術師様ですよね?」

「なれる資格を持つというだけで、それに仮に宮廷魔術師であっても貴女は公爵夫人だ」


 そんなことまで話しているのかあの男は……たしかに宮廷魔術師は希少人材として敬意が払われる立場ではあるし、本当は魔術院も中級過程半ばよりも先へ進めただろうが、あまり出過ぎて王家のいざこざなどに巻き込まれるのは真平御免である。

 そもそも末端の庶子など勢力争いのだしに使われこそすれ、これといった恩恵も得られない。

 せいぜいちょっといい官職にありつける程度、それに伴うしがらみがきつすぎる。私は別に不自由なく暮らせれば、それ以上の権力やら富やらにはまったく興味はないのだ。

 魔術院とて、いよいよ困った時に手に職を得るためのただの保険でしかなく、資格さえ得られれば十分である。

 

「なんだか、立場に関する捉え方で、ムルト様とは気が合いそうですね」

「同感だが、あの男にそれは言わぬようお願いします」

「どうしてですか?」


 心底から不思議そうに首を傾げた彼女に、自覚がないのかと驚いた。

 私の詳細を話しているだけでなく、トゥルーズで見た様子や彼女に危害を与えた悪漢及び貧民街への制裁ともいえる措置、東部騎士団を動かしてのことなどから考えても、あの男の彼女に対する熱の入れようは尋常じゃない。

 そもそも加護の術を、それこそ王宮の宮廷魔術師共が見たら発狂しそうに緻密なあの魔術を施されていて、平然としていられるのも不思議だ。

 王からの要請すら億劫がるあの男からしたら破格のことであるのに。


 そんなことを考えていたら、なにやら慌ただしい気配を感じて戻ってきたかと察した。

 おそらくは彼女が私の応対をしていることを知ってだろう、常に余裕ぶったあの男にしては珍しいことだと少々愉快を覚えたところで、その本人が姿を現した。


 少し失礼と私に目配せして席を立ち、お帰りなさいませと戻ってきた我らが領主を出迎えた彼女を軽く抱きしめて、なにをしているのです貴女はなどと彼女に言っている。


「え、だって」

「この男など、フェリシアンあたりに任せて放置で構いません」

「……おい、本人を目の前にして言うな。礼儀もなにもない」

「そうです。それにムルト様はトゥルーズやモンフォールのことで報告に来てくださっているのに、そんなことは出来ません」

「……それでこちらでお二人でお茶を飲んでいたわけですか?」

「あなたを待っていたんでしょう? それで大丈夫なの」

「魔狼の件ですか、それは勿論」

「そう」


 トゥルーズでこの二人の遠慮のないやりとりを見ていたので、今更驚きはしないが、明らかに奴の返事を聞いてふわりと表情を和らげた彼女に、先ほどまでどこかそわそわして見えていたのは単に行儀作法に慣れないためばかりではなく、心配もしていたからかと理解した。

 どうやら肝心な御仁は、心配されていたことに関してまったく無頓着でいる様子ではあるが。

 案外、似た者夫婦なのかもしれない。

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